鞭の先端が水面を叩き、飛沫があがる。すでに汗か海水かも定かではない液体で、髪も服もぐしゃぐしゃに濡れていた。
 くるぶしくらいまでは何度も波に晒されて、水を吸った靴はお互いに疾うに放り出している。着替えはともかく靴までは用意していなかったから、今日のうちに買ってやらねばならないだろう。海沿いの田舎町のこと、ろくなものはないかもしれないが取りあえずの間に合わせでいい。砂浜のあたりは一応確認したがそれでも尖った小石やゴミがあるかもしれないし、ホテルまでの道ともなればなおさらだ。今日は適当な足を保護できるものを用意して、明日でも明後日でも移動中に時間が取れた時に、駄目にした革靴の代わりと、スニーカーか何かもっと動きやすいものを買えばいい。
 ディーノは濡れた髪を掻きあげ絞った。僅かに目が染み眉を顰める。雲雀は距離を詰め、トンファーで右肘を狙ってきた。足をすくうと倒れる寸前に至近距離で頭を振った。
「っで! おま、いってえ、なあ」
 目潰しだ。単純だが効果的。膝をついたままトンファーで顎を下から打とうとしてくるのを、何とか鞭の柄で防いだ。
「おまえ、やっすい挑発にのるなよな」
「……他のことを考えるとか、馬鹿にしてるの」
「おまえのことだぜ?」
 乱れて頬に張りついた髪を梳いてやろうとすると、露骨に嫌そうな顔をする。
「どうでもいいよ。……ねえ、もう一回。」
「もうやめにしねえ? そろそろ日が暮れる」
 まだそこまで暗くはないが、秋の日が落ちるのは早い。雲雀はもうすっかり疲労困憊の態だが、むしろそれからこそすごい根性を見せる子なのだ。長引くのはいやだった。
「だから早く」
「だから終わり。おまえ、昼の休憩も満足に取りたがらないし」
 船盛で餌付けしてやりたかったのに、と呟くと意外そうに笑った。あなただって嫌じゃなかった癖して、とからかうようにのたまう。まあ実際悪くなかった。戦い以外に時間をとられるのが嫌だと雲雀がいいだした所為で、事前に調べておいた割烹料理の店には行かず、弁当を取り寄せることになったのだが、広い海岸で景色を眺めながら教え子と取る食事は不味い筈もなかった。幼い頃憧れていたピクニックみたいだった。海辺に座って、気のおけない仲間とバスケットに詰められた弁当をつまむ。海の近くに住んでいたのに、因果な家業の所為でそんな小さな希望すら叶えられなかった。まああのころ想像していたメニューとは多少違ってサンドイッチでもピザでもなく、折り詰めの茶巾寿司を食べながらそう打ち明けると、雲雀はとんでもなくかわいそうな物を見る目でディーノを見た。それが雲雀恭弥であるだけで、なんとも落ち込まずにはいられない。じゃあお前はピクニックをしたことがあるのかと問えば、そんなことをしたいと思ったことがないからと当然のように返された。
「でもいいものだったろああいうのも。広いところで飯を食うと、いい気分じゃねえか」
「まあ……そうかな」
 何がおかしいのか雲雀は笑って、それでも油断なくトンファーを構えている。ディーノは性懲りもなく同意を求めて、だが雲雀だって同じだ。自分が戦いを好きなように相手もそうなのだろうと疑いもなく信じている。そしてそれは間違っていない。ディーノはあらわになった自分の性におののいた。
 今まで特訓といえばどうにもサディスティックな家庭教師が相手。そうでなければひたすら実践訓練だ。金に飢えた殺し屋やら揉めたファミリーの構成員やら、相手に困ったことは一度もない。策略に謀略、純粋な強さのみで渡り合えるほど甘くもなく、だからこそ強くなれた。心身ともに。自分がどれほど冷静にも残酷にもなれるのかをそこで知った。
 でも知らなかったこんなのは。こんな、ぎらぎらとした闘争心とそれが自分に向けられている喜び。同じだよ、と雲雀ならいうだろう。同じだ、真剣勝負だ。だが違うのだ。全然違う。薄皮一枚の下に熱い血と肉が息づいていてそれを曝け出してやりたい、自分の鞭で。相手も自分に同じものを求めていることを知っている。
 フェアプレイがどうとかいわれたら、ディーノは鼻で笑ったろう。そんなもの、今までの人生でみたこともないのだ。実際教え子のまっすぐな戦い方を良いと思っているわけではない。だが特訓だからといって大人しく従うような子どもが相手なら、こんな風に煽られることもなかったろう。冷静に効率的に鍛えてやれた自信はある。だから何が理由かと問われれば、相手が雲雀恭弥だからだとしかいいようがない。恭弥だから、呟いてディーノは笑った。ああ、これではまるで愛の告白ではないか。
「しようがねぇな。ほかならぬ恭弥の頼みだからな、一回だけ」
「恩着せがましい。あなただって好きなくせに」
「靴屋が閉まってたらお前の責任だぞ。あと、負けたら海を見にイタリアに来る。いいな」
「僕は負けないよ。」
「ほう」
「靴は……コンビニで売ってる」
 つまりさっさと終わらせる気はないらしい。ディーノは笑って、鞭を構えた。向こうがその気なら、力づくでも終わらしてやるまでだ。
「そうか。騙されてやるよ、恭弥」



「降参か?」
 暴れまわる教え子を何とか鞭で縛り上げ、肩を砂につかせる。押さえつけているディーノも息が荒い。思い切り睨みつけられて、ディーノは笑った。そんな風に見られれば止まらなくなるのだと、教えてやっても喜ぶだけだろう。だがこんな体勢でわかりやすく優位に立ってしまえば、衝動とは違うものが胸を占めた。勝手なものだ。
「怪我させちまったな」
「あなただってしてる」
「嬉しそうにいうなよ」
「ほら、ここも」
「恭弥」
「ここにも。ほら」
 ほんの少し力をこめれば、簡単に雲雀の骨は折れてしまうだろう。今だって結構限界まで鞭を引き締めているのだ。それなのに肘までは自由な右手で雲雀はディーノの頬についた小さな傷を辿った。まだ乾いていなかった血を拭って示すと、それを頬に擦り付けた。ぺろり、と赤い舌がまるで舐めたかったみたいに覗いた。
「ボス」
「……おー」
「車を寄せてくるな。あんたも恭弥もその足で無闇に歩かんほうがいい」
 修行が終わったと判断したのだろう。ロマーリオが背後から声をかけた。他に部下を道沿いに何人か配置しているから、自分が離れても問題ないと考えたらしかった。振り返りもせずに片手をあげると、溜め息をつくような音がして、それから相変わらず規則正しい間隔で砂を踏みしめる音がした。
 その音が聞こえなくなるまで待つことすらできなかった。気づけばディーノは目の前の塩辛い唇を味わっていた。俄然熱狂的に、不器用に、執拗に。今までの人生で否が応でも身につけた手練手管など、すっかり忘れてしまったようだった。思っていた以上に雲雀の舌は熱く、海のような味がした。それを絡めようとして、だがただ貪っているといったほうが正しいようなそんなキスをした。じゃりじゃりと口に残る砂の存在が感じられて、それが唾液に混じって口の端を伝っていった。だからだ、と思った。口の中に砂が入ったから、海水を飲んだから。だから渇いてる。こんなに。
 不意に雲雀がくぐもった声をあげた。砂に押し付けた躰から身を離すと、ぼんやりとした視線を向けられた。慌てて拘束を解いた。先程までと打って変わってひどくあどけなく見えた。ぼってりした下唇がきらきら光っている。
「恭弥。……ごめん、オレ」
「……な、に……いま」
「恭弥」
「うん」
「来て」
 立たせようとするとうまく力が入らないようだった。それでも手を引いて走り出すと大人しくついてくる。砂の上。裸足で。力が入らないのはディーノも同じだった。足がもつれるようにそれでも勝手に先を急いだ。
 どうしたボス、と声をかけられた。まるで永遠に続くかに見えた海岸をを完走し、急な階段を上って道路に出たところで、見張りをさせていた部下の一人に出くわしたのだ。のんびりした口調で緊張感のかけらもない。こんなにも自分は取り乱しているのに、と思えば笑いそうにもなる。首を振って更に走った。人目を避けて民家の立ち並ぶ細い路地に入り込んだ。どの家も洗濯物や雨ざらしのそれとも潮風の所為か錆びきった自転車が丸見えだった。多分家庭用なのだろう、小規模に縁側に魚を干している家もある。日暮れ近く、そろそろ家人が取り込みに顔を出すかもしれない。もっと先だ、ディーノは思った。もっと先、どこか、どこか遠く。
 低い犬の唸り声がした。振り返ればすぐそこの家の庭先につながれていた柴犬が、先程の部下よりも余程警戒心を露にして鳴いている。びくり、と掴んだままだった手が震えた。あの雲雀が犬に驚いて。単純に考えてもありえない話だ。そう考えて、ディーノは気づいた。いやまさに今起こっていることのほうが余程ありえない。あの雲雀が。こんな風についてきて共に走っている。
 振り返ると荒い息をしながらこちらをまっすぐに見つめている。目尻は真っ赤に染まり、それでももう意識は飛んでいないようだった。まるでキスをする前から、と思った。まるでキスをする前から互いの欲望を確かめ合っているみたいだ。
「ここなら」
「うん」
「ここなら人こねぇし」
「……馬鹿」
「うん」
「来ないわけないでしょ」
「そうだな」
 あけっぴろげな、今にもサーファーたちが陸に上がってきそうな海岸よりは少しはましだというレベル。いつ民家から人が出てくるかもしれなかった。まだ荒い互いの呼吸を吸いあうようにして、電柱の陰に身を隠した。いや隠せなかったというべきか。だが雲雀の姿は外から見えないだろう。塀と電柱の間にはまりこんで、それでもすがるようにディーノの背に腕を回した。
「恭弥」
「うん」
「好きだ」
「うん」
 ふ、と吐き出すように雲雀は笑った。それを吸い込むようにもう一度舌を絡める。
「……驚かねぇの?」
「驚かないよ」
「オレは驚いてんだけど」
 砂で汚れた頬を撫でる。まるで色の黒い子どものように見える。髪も汗と海水と砂にまみれて、べったりと束になって頬に張り付いている。多分彼の誇りである制服も同じく散々たる状況だ。そこかしこ、鞭で裂いてもいる。確認するまでもなく、自分も万全の状態とはいえない。
 まるで貧民窟の子どものようななりをして路上で抱き合っている。ディーノは小さく笑った。遺憾ながら経済的に潤っているとはいいがたいいくつかのシマ。他に楽しみもありはしないと人目も構わず欲望に溺れている男女の姿を何度見かけたろう。ディーノ自身はそんな風に、弱みと隙を露にしたことなど一度もない。当たり前だ。恥じらいでも慎みでもなく、マフィアのボスとして当然の自衛。
 もし本当にそうだったら、貧しい道端の恋人同士だったら愛情も欲望も簡単に昇華出来たろう。だが生憎そうではない。欲情に身をこわばらせて、渇望の正体を知りながら同時にそれが手に入らないことも知っていた。マフィアのボスとボンゴレの幹部候補でなかったら、不自由な男と雲雀恭弥でなかったら簡単に自分のものにしただろう欲望。満たされない狂熱。だがだからこそ意味があることも知っていた。
「驚かない」
 おののいたように視線が揺れた。
「そうか?」
「僕はあなたを驚かせもしないよ」
 迷ったように伏せられた視線。それだけで充分だった。
「いいよ。これ以上驚いたら……心臓が止まっちまう」
 音を立ててざらついた額に口づけると、雲雀は笑った。





























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