けたたましい音をたてて携帯が存在を主張する。
 聞かずとも内容がわかるとはこのことだ。最初の呼び出しは無視を決め込んだのだが、雲雀は明らかに機嫌を損ねてこちらを睨みつけた上身を捩り、先ほどまで確かにあった筈の甘やかな空気は霧散した。仕方なしに次に鳴り出したときは、すかさず細かに振動するそれを開いて通話ボタンを押した。
「ボス。今どこにいる?」
 流石、キャバッローネボスの右腕として長らく辣腕を振るってきた男だと頷かせるどすの利いた声で質問が一つなされた。
「えーと、あー。どこかな。いや、ほら目印とかねぇし。説明しにくいんだけど」
 押し殺したような唸り声が聞こえた。多分斜向かいの家の庭でつながれている柴犬がまた吠えているのだろう。きっとそうだ。
「ボス。もう一度聞く」
 三秒だけ待つ、今聞いている声よりもずっと甲高くだが同じようにいやそれ以上に迫力のある声で何度いわれたろう。このような状況に――前門の虎後門の狼、雲雀はどちらかといえば虎が似合う、とディーノは逃避のように考える――置かれるとどうにも絞られた記憶しかないスパルタな家庭教師を連想する。修羅場なぞ飽きるほど潜り抜けて、それでも忘れられないのはやっぱり刷り込みって奴なのだろうか。
「いいか。今ど」
「すぐ帰る。わかりにくいから説明しにくいだけで、そう遠くもねぇから。心配するな」
 狼がかなりきれかかっているのに気づいて、慌てて答えた。ふう、と嫌ったらしい長い沈黙のあと大きく息が吐かれた。
「わかった。頼んだぞ、ボス。寄り道しないで帰ってきてくれ」
「任せろ」
 胸を張って頷いたものの内容はお使いを頼まれた小学生である。ディーノは思わず項垂れて、そのまま切り際にロマーリオがした忠告に固まった。まったくどうして気づかずにいたものだろう。
「じゃあ行こうか」
 振り向くと、もうすっかり落ち着いた顔をして雲雀が歩き出そうとしているので咄嗟に止めた。
「何? 怒られたんだろ?」
「いやまーそーなんだけどな。足怪我してないか? 見せてみろよ」
 修行の最中は靴を駄目にしたことがあれほど気になっていたのに、ロマーリオに指摘されるまですっかり頭から飛んでいた。情けない。
「やだ。大丈夫だよ。あなただって裸足でしょ」
「オレとお前じゃ状況が違うだろ。戦いに備えて大事にしねぇと」
「知らないよそんなの」
「そろそろ知っといてくれよ。ほら、見せてみろ」
 跪いて右足を取り見上げると、口をひん曲げて横を向いた。いったとおり怪我はない。傷というほどでもない、擦ったような跡が数箇所あるが大したことはないだろう。
「お互いすっかり汚れちまったし。ホテルでシャワー浴びてメシ食って、靴屋に行くのはそれからにするか。店が閉まっててもコンビニで買えるんだろ?」
 思い出してからかってやると、雲雀は大きく目を見開いて固まった。売り言葉に買い言葉で適当なことをいってしまっただけで、嘘をついている自覚すらなかったのかもしれない。なんでも自分の力で我を通す雲雀のこと。そして痛たましいほど潔癖でもある。今までの短い人生で、嘘をついたことすらなかったのかもしれないと思った。いや何をまさかとも思うけれども、雲雀ならさもありなんと納得したりもする。純真さと罪深さの同居。執拗につついてやっても嗜めてやってもよかったのだが気はすすまなかった。大体嗜めるといったって何といえばいい。嘘をつくならもっとましな嘘をつけというくらいが関の山の、碌でもない人間なのだこちらは。
「まあ今日は疲れたしな。明日店に行けばいいだけかもしれねぇ。ホテルにはスリッパとかあるだろうし。移動前に時間とるくらいの余裕はある。」
 息を吐いて緊張を解いた雲雀に気づかない振りをして、ディーノは小さく笑う。雲雀はディーノの立てた膝に今度は左足を置いて、頷いた。まったくなんて人だ。
「スニーカーとかも買ったほうがいいかもしんねぇな。新しい革靴じゃ靴擦れ起こすかも。恭弥、サイズはいくつだ?」
「25」
 予想していたよりもあまりに小さい数値を示され、日本とイタリアでは規格が違うのかもしれないと思いつく。いきなりパーティだか商談だかが予定に入りあわてて日本で靴を買い求めたことがあり、その時はイタリアのサイズを店員に伝えても何の問題もなかった。だが、とるものもとりあえず服から靴まで揃えさせた店は確か故国の、今のデザイナーは違うが本社はイタリアのブランドだった筈だし、そうでなくとも店員はそれ位の教育は施されていて不思議はない。イギリスやアメリカではインチ表示だが、と考えて日本ではメートル法が単位として一般的だったかと思い出す。靴などの単位としては使われてはいないが、メートル法はイタリアでも使われている。25。
「ねえ。もうわかったでしょ。怪我してないよ」
「恭弥……25って25センチ?」
「そうだよ」
 恐る恐るお伺いを立てると、何を当然なことをといいたげな声で返答があった。自分の常識がそのまま世界にも通用するという感覚は子どものものだ。雲雀らしいともいえる。常ならば微笑ましく思いもするのだろうが、ディーノは今それどころではなかった。
 25センチ。確かに手の中にある足はそれ位の大きさに見える。頭に浮かんだのは、女性を抑圧する中国の恥ずべき風習だった。いやそれはもうとうの昔に廃れたと何かの本で読んだし、ここは日本で、雲雀恭弥はいくら可憐で可愛かろうとどこからどうみても男である。だがいくらなんでも。
「こんなちっせー足で地面歩いちゃまずいだろ……っていって!!」
 小さくて可憐で可愛い足はものすごい勢いでディーノの顎を打ち据えた。慌ててそれを押さえて涙目で見上げると、息を荒げ顔を強張らせている雲雀がいる。
「覚悟はいいね?」
「いやいやいや。落ち着けって。裸足は危ねーだろ。戦いもあるし無駄に怪我させたくねーんだよ」
「だったらそういえばいい。小さいのは関係ないだろ」
 気にしているらしい。皮が薄いかもしれないとか、理由は挙げられるのだが納得させられるとも思えなかった。
「とにかく、車までおぶっていくから。いいな」
「馬鹿じゃないの」
「危ねーって。ガラスとか小石とかまきびしとか落ちてるかもしんねーじゃねーか」
「まきびしは落ちてないよ」
「そういう甘い油断がな、怪我や事故につながるんだ」
「うざい」
 どんなに慎重に動いても足りるということはない。危険はいつだってあるのだ。それと隣り合わせのなんだったら添い寝でもしてやろうかという日々で真っ先に学んだ教訓がそれだった。鹿爪らしく教えてやると、とんでもなく煩そうな顔をされた。多少慣れてきたとはいえ、それでも傷つかずにはいられない。ぐ、と手の中の左足に鞭を絡め、そのまま両足を巻いて抱えた。雲雀は悔しそうに睨んできたが、片足が掴まれた状態でいうことを聞かないつもりでいたほうが甘い。
「これで公道歩くつもり? 今度こそつかまると思うけど」
「あー、そうだな。でも恭弥に怪我させたくねぇし。合意ってことにしといてくれねぇ? 軽微罪でつかまったら多分ロマがうるせぇんだ」
「認めると思うの」
「うお」
 耳を思い切りひっぱって吹き込むように笑った。地味に痛い上に、躰の制御が利かない。落っことしそうになってそれでも耐えた。なんとか抱えた荷物が褒めてくれそうにない場合、自分で称えるべきだ。よく頑張った。感動した。
「おぶっていくなら許すよ。とりあえずこれ解いて」
 流石に鞭で捕らわれた姿を人に見られるのは嫌らしい。下半身をぐるぐる巻きにされた状態では奇跡的なほどに偉そうな態度だが、何といっても雲雀から引き出せた譲歩だ。素直におろすと戒めを解いた。





 路地を抜けると途端に視界が開けた。今まさに太陽は海に沈まんとしている。条件反射のように子供の頃叩き込まれた詩を思い出した。

 マフィアの子息の癖に、いやだからこそか、詩だの文芸だの芸術だの幼いころから叩き込まれた知識は膨大だ。マネーゲームには不要の産物で、だからこそパーティーで劇場で、その知識と機知を競う。忙しない日々の中ではくだらないと切って捨てたくもなるのだけれども、幼いへなちょこの自分はそういった勉強が嫌いではなかった。まあ、スパルタもいいところの家庭教師の授業に比べれば何でもましではあったけれども。

  もう一度探し出したぞ。
  何を? 永遠を。
  それは、太陽とつがった
  海だ。

 感傷的な思考に笑う。手に入れられると考えているわけでもない。だが初めて恋をした子どものように単純に望んでもいた。永遠。
 その身を蕩かしていく太陽と、背に当たる温もりを同一視しているわけではなかった。死が分かつよりももっと先、その先をみれる筈もない。どんなに足掻いてみても、こんな稼業をしていれば別れも裏切りもまた日常だ。だが欲しかった。子どものように単純に、健気に傲慢に一途に。
「もう限界?」
「ん? 綺麗だろ、夕日」
 防波堤に座らせると満足そうに雲雀は笑った。限界どころか大して重くもなく、しかも正直多少テンションが上がってもいる。とても音をあげるほどでもない体重は逆に不安にならないでもなかったが、指摘して機嫌を損ねるのも得策とはいえない。
「やっぱ来いよ、イタリア。このごたごたが終わったらさ。学校が休みのときとか」
「拘るね」
「賭けに負けたろ、恭弥。お前と海が見たい」
 頬をつつくと、嫌そうに首を竦めた。
「今見てるだろ」
「何でかな。この海も綺麗なんだけど、二重写しみたいに故郷の海を思い出すんだ。本当はイタリアにいるときはほとんど海をみることなんてない。それなりに忙しなくてな」
「うん」
「でもこうしていると思い出す。多分現実よりもずっと綺麗な鮮やかな青だ。頭の中を切り開いてお前に見せられたらいいのにな」
 小さく雲雀が息を吐いた。オレンジ色に染められた景色を眺める。多分ディーノの眼に映るよりもずっとずっと美しく見えているのだろう景色を。
「遠きにありて思ふものっていうからね」
「何を?」
「ふるさとを。……古い詩だよ」
「そうか」
 髪を梳いた。雲雀が見ているものを見たいと思う。同じ景色を見ているのに、思い出す詩すらまるで違う。それは当たり前のことで、こんな風に寂しく感じる人間が自分だとはとても信じられなかった。
「駄目か? 恭弥は並盛の支配者だもんな」
「……わざと間違えてない?」
 離れられないよな、というと不満げに唇を尖らせた。子どもっぽい仕草はひどくかわいらしく見える。
「……いいよ、行っても。約束は約束だ」
 そっぽを向いたまま雲雀が呟く。信じがたい気分でディーノは肩を掴んだ。
「いいのか? えーと、独裁者だろ?」
「余計ひどくなってる。……だから約束は守るよ」
 唇の端を引き下げたまま雲雀が頷いた。確かに違ういい方で主張していたと思うのだが、日本語は類語が多すぎてとても把握できない。結局は並盛のボスってことだとは思うのだが。
「嬉しい。すげー楽しみだけど……大丈夫か?」
「しつこい。別に平気だよ。あなたがいったんでしょ」
「え」
「ここにある」
 華奢な手がゆっくりとディーノの左胸に重ねられる。だから平気だ、雲雀は呟いて夕焼け色に染められた頬を緩める。ディーノは息を呑んで固まった。鼓動が今にも伝わってしまいそうだ。
「どうしたの」
「え? ……ああ、いや」
「大丈夫だよ。僕は並盛の秩序だからね。見られても通報されたりしない」
 安心しなよ、と雲雀は低い声で囁いた。見当違いのことでディーノを宥めようとしながら、いつになく穏やかな表情を浮かべている。いや、違う。見たことがある、とディーノは思った。こんな柔らかい笑顔をオレは見たことがある。自分に向けられる日が来るなんて、夢想だにしなかったけれど。
「こんなことしても?」
 ちゅ、と頬に口づけると、首を竦めた。眉をしかめ、それでもトンファーは出現しない。どんな奇跡だ。
「……挨拶だって、言い張ってやってもいい」
 目元を真っ赤に染めて視線をそらす。キス自体よりも、こんな一言を口にすることのほうが余程照れくさいらしかった。流石にそれ以上のことをするのはためらわれてディーノは頭を抱える。
「おまえって……結構オレのこと好きだよな」
「はい? 何をい」
「あー、わかった。わかったからもうなにもいうなって」
 まさら、と紡がれた声に被さるようにして叫んで抱き上げた。このまま会話をしていたら、なんか一生帰れなくなりそうだ。いくら軽いとはいえ、抱えられるのが不思議なほどだった。もう力が入らない。
 やっぱり栄養があるものを食わせてやらなきゃな、と思う。海沿いのホテル。夕食は多分魚だらけだ。雲雀は満足してくれるだろうか。
 赤く照らされた道を歩きだす。この道がずっと続けばいいと思った。遠く、どこか遠く。過ぎた願いだ。自分には棄てられないものが多すぎる。だからせめて、腕の中の人が重く感じられないその時まで。
 すう、とまるで見計らったように雲雀が力を抜いて、ディーノは小さく笑った。まったくどの口が。薄く開いた口唇に自分のそれを重ね合わせる。どこまでも歩ける気がした。












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