「…………………………………うみ?」
 明らかに寝惚けている声をあげて目蓋を擦る。すんすんと動物のように周囲の匂いをかぐ動作に目を細めた。
「そうだぜ。まだ見えないけどな。駐車場から海岸まではちょっと歩くらしい。」
「……きょうは……うみで、するの」
 まだ目が覚めないらしい。もう一度頬を揉んでみる。ちょっと癖になりそうな感触だ。柔らかい。
「出掛けにいったろ? 恭弥。ちゃんと聞いとけよ?」
「……そうだっけ」
 宙を漂っていた瞳が、ようやくディーノに焦点を合わせた。にっこりといってもいいように、にやりといってもいいように、雲雀は唇の端を持ちあげる。日本語の擬音なんてさっぱりわかりもしないが、落ち着かない気分にさせられるのは確かだ。
「それで……これは何? 体罰? 咬み殺すよ」
 何を今更。とはいえ雲雀があまりに嬉しそうな顔をするので、ついつい慌てて手を離した。この分ではきっと、並盛中の教師の質はいい。そうでなければとても勤められないだろう。かわいい弟弟子やその仲間のことを考えれば、多分きっと喜ぶべきことだ。
 アスファルトで舗装された大きく迂回する下り坂を並んで歩いた。ロマーリオは几帳面に数歩後ろをついてくる。他の部下たちがいればぐるりと円陣を組んで護衛して雲雀を苛立たせてくれるのだろうが、前日の仕事の後処理が終わらず、遅れてワゴン車をレンタルしてこちらに向かう手筈になっている。ファミリーカーにぎゅうぎゅうに押し込まれた屈強な男たちを見て、雲雀はきっといやな顔をするだろう。確かにファミリーといえるのかもしれないけど、などと寛容な言葉を吐いてかわいくなく鼻を鳴らしてトンファーを構えもするだろう。思い浮かべて微笑んだ。
 ヴァリアーの襲撃がないかとロマーリオは神経を尖らせているが、ディーノは落ち着いたものでむしろそれを期待している。キャバッローネが深くかかわる建前にもなるし、まあ多分数に任せた刺客だろうが、もしリング保持者本人が顔を出してくれれば僥倖といったもの。牙をむいた雲雀を遠ざけるのは骨が折れるだろうが、巻き込まれた態を装えばいくらでも戦うことができる。負ける心算もなかった。だが対決の組まれた今となってはそれも適わないだろう。
 潮の香りは強く、すでにかすかに波の音が聞こえた。雲雀が走り出さないのが不思議だった。だってもう、すぐ海なのだ。水着はないとはいえ、着替えなら存分にあるのだから多少は濡れたっていい。余裕のある日程とはいえないが教え子の成長は期待以上で、それに息抜きだって必要だ。雲雀にとっては戦いのほうが楽しみなのだとしても。陽に晒された熱い砂浜を歩いて貝殻を拾ったり、火照った足を海水で冷やすだけでもきっといい気分転換になる。雲雀が捕まえろというのなら、砂浜を追いかけっこするのも吝かではなかった。それなのに当の本人は浮かれるでもなく殊更ゆっくりと歩いている。まだ眠いのだろうか。
 道沿いにはホテルや旅館が軒を並べていた。観光地として発展しているわけでもないようだから仕方がないのかもしれないが、都心の仰々しいホテルに慣れた目にはなんとも寂れて見える。建物自体も小さく薄汚れているように見えた。だが数軒先の小さなホテルはまだ新しく、ファサードの雰囲気も良かった。周囲を探せば他にもましなところがあるのかもしれないが今は人手が足りないのだし、いざ修行が終わればサービス云々より海岸から近いことを重要視している自分が想像ついた。
「ロマ」
「オーケー、ボス」
 後ろに目をやるとロマーリオは周囲を見渡してから、ホテルに向けて歩みを速めた。多少心配性とはいえできた部下なのだ。オフシーズンとはいえ、早めに予約を入れておくに越したことはない。
「あ、ついでにここらで昼飯の美味いところ聞いといてくれるか。近くて個室があって地場の魚とか……和食でだすとこ」
 背中に声をかけると振り向いて呆れたような顔をした。
「……おう。恭弥」
「何?」
「頼んだぞ」
「……わかった」
 なんとも嫌そうな顔で雲雀は頷いた。内容の伺えない会話に、僅かばかりの寂しさを感じないでもない。家庭教師よりもその部下と打ち解けている生徒なんて、聞いたことがない。
「なあ」
 
多少の恨み言ぐらいいっても問題はない気がした。少し湿った柔らかい髪を梳くと小さく震える。
「……海は嫌いだ」
「そうか」
 好き嫌いを打ち明けてくれたことが単純に嬉しかった。やれまだやるだの負けてないだの咬み殺すだの、修行中は我侭ばかりいうくせ、それが終わればまるで全て興味を失ったかのように文句もいわない。煩く構われるのが嫌いらしいことは態度から見て取れるが、本当にそれだけだ。胡散臭い集団に連れまわされて戦って、不満がないはずはないのに何もいわない。食べ物の好き嫌いだって、年齢を考えればあって不思議ではないのに、出されたものをただ黙々と食べている。ディーノが食べっぷりを見て、和食が好きなんじゃないかとか魚が好きなんじゃないかとか勝手に右往左往しているだけだ。
 だから、打ち明けてくれたのは嬉しかった。だがもうここまできたら、場所を変えるわけにもいかない。そういおうと溜め息をついて、ディーノは気づいた。そしてオレは嬉しいだけじゃなくて少し寂しい。子どもみたいだ。同じものを好きであってほしいなんて、無茶なこと。
「なんで」
 角を曲がりきると眼下に海が広がっていた。海岸に沿って走る道の反対側には夏の間だけやっているのだろう店や民家がまばらに並んでいる。道と砂浜とはかなりの高低差があって、どうやら五十メートルほど先に見える階段を下りなくては、海には辿りつけないようだった。長く続く海岸のずっと先ではサーファーらしき人影が見え、堤防の上にも二三人、あれは釣り客だろうか。波は穏やかで、遥か沖には小さな島も見えた。まるで条件反射のように考える。ああどこか。
「海を見ると……どこか遠くへ行きたくなる」
 振り向いて息を呑んだ。その表情には嫌悪など微塵もなくて、むしろ焦燥、憧れ、渇望そんな。
 知ってる、といいたかった。オレも知っている。その感情を知っている。だから、恭弥、一緒に。
 気づくと細っこい躰を抱きしめていた。かわいそうなくらい雲雀は背を強張らせている。
「大丈夫だ、恭弥。大丈夫、大丈夫だから」
「どこが大丈夫なの。……離れて」
「遠くに行きてぇなら、行っても大丈夫だ。変わらねぇよ、恭弥」
「……僕がここにいなくても大丈夫っていいたいんだね」
 呟きは問いかけですらなかった。多分雲雀は知っているのだ。並盛が彼を必要としている以上に彼が並盛を必要としている。ディーノにしてもそうだ。遥か故郷の美しい街。自分が生まれる何百年も前から存在し、死んだあともきっとそのままあるだろう。誰が支配しても、人が移り変わっても。その場所を他の誰でもない、自分が守りたいと思うのは単なるエゴだ。自分以外の誰かならもっとうまくやれるんじゃないかと、ボスを継いだばかりの頃はよく考えた。経験を積んだ今でも時折思う。それでも自分が守りたかった。そのくせ、誰も自分を知らないどこか遠くへ、行きたいと焦がれている。なんて身勝手な。
「行きてぇなら行っていいんだ。おまえはどこにでも行ける」
「……知ってる」
 悲しそうだとすらいえる声だった。雲雀が。
「オレもさ、自分のシマにばかりいるってわけにはいかねぇけど。でも守ることはできるし、それに……あそこはここにある。恭弥にもある、そうだろ」
 左胸に手を当てると呆れたような顔をした。
「気障だね」
「……まあ否定はしねぇけど」
「わからないよ。僕はあなたとは違う。別な場所で、戦っていたら忘れてしまうかも」
 雲雀ならそれもありかもしれない。戦いとなればほかの事はもうすっかりどうでも良くなってしまうのだ。でもそうではない。ディーノにはわかっていた。
「そうじゃねぇだろ。ここは恭弥にとってそんなもんじゃねーだろ?」
 雲雀は瞬きをするとじっとこちらを見てきた。真摯な目だ。ディーノの手に自分の手を重ねる。
「……そうかもね」
「おう」
 
ようやく頷いた教え子に苦笑する。うつむいた顔に前髪がかかって、表情が見えないのが勿体なかった。額を出せばもっと幼く見えることはさっき知ったばかりだ。もう一度見たいと思った。
「うお」
 ふと人の気配を感じて振り返る。釣り客らしい年配の三人連れの男が、こちらより余程驚いた顔をして固まっていた。襲撃者かと思ったのだが、だとしたらずいぶん面倒な変装だ。釣竿にクーラーに小型の椅子まで抱えている。
「……チャオ」
 目があったので挨拶をすると、なんとも日本人らしく曖昧に頷いた。やはりマフィアの人間ではない。だがそれならどうしてここまで気配に気づかなかったのか。三人組はとんでもなく大きく迂回してディーノたちを避けると歩み去っていった。
「……何だあれ」
「……ふ、く……ふふ、は…はは」
「え、ちょ……恭」
 むせるように笑う子どもの背を撫でてやると、咳き込むようにして止まった。
「通報、され、ないといいね?」
「へ」
 いわれて先ほどの状況を思い起こした。海沿いの道。華奢で、見た目だけなら大人しそうに見える男子中学生と……その胸に触っている金髪で刺青の男。
「うっわ、うわあああ」
 駄目だ。どう見えてるか考えたくないがそう見えてる。きっと見えてる。
「じゃあそこの不審者のひと。そろそろやろうか」
 頭を抱えてうずくまると、非情なひとが手をひっぱって立ち上がらせようとする。言葉だけならやたら刺激的な響きだ。目はすっかりきらきらしていて、もうとんでもない。
「いや、恭弥……さん。今日は場所変えねえ? 山とか」
「昨日やった。立って」
「いやだって! オレが捕まったら恭弥が困るだろ」
「それくらい逃げてみせなよ、先生。それにロマーリオが居場所わかんなくなるだろ」
 今は携帯という便利なものがあるのだと教えてやろうとして、黙った。雲雀はもう砂浜に下りる階段に向けてすたすたと歩き出している。困らないとはいわなかった教え子を追いかけて、ディーノは走り出した。
 砂浜は、熱いというよりは温かかった。日差しは強く暑いといってもいいくらいなのに、やはり夏とは違うのだろう。はやくはやくと急かしたわりに、雲雀は砂の上に座って穏やかな波を見ている。
「あー、なんていうか、なあ」
「なんていうかなに」
 気の強い教え子をそういう対象にみれる筈もないのだが、そういう風にみられたというだけでいたたまれない気がした。なんていうか汚した気がする。実際その平たい胸にも触ったのだ。それがどうしたとも思うのだが、あの時向けられた表情は真剣でそれ故に罪悪感がわく。当の雲雀は平然としていて、だからこそ落ち着かなかった。何といっても気位の高い雲雀恭弥なのだ。そういう風に見られたならもっと怒ったっていい。ていうかそういうって何だ。雲雀ならそう聞きそうだ。だがそういうはそういうだ。思考の中でさえ決定的な単語は避けて、ディーノは溜め息をついた。
「なんていうか、その、海だな?」
「……」
 話を変えようとして失敗した。ディーノも横に座って同じようにぼんやり波を眺める。目の前の海はディーノが思い浮かべていたよりもずっと明度も彩度も低かった。実は日本の海をきちんと見るのは初めてだ。空港から移動する時に多少は目にはいっているのかもしれないが、急いでいたり夜だったりで殆ど記憶にない。ただ来日のたびにテレビのCMやポスターなどで見かける海は、見慣れたアドリア海と変わらない澄んだ青だった気がする。そして白い砂浜。なんかこういう、ビキニのお嬢さん方が似合わなそうな感じじゃなくて。
「……渋い色合いだな」
「だから何。海は海だろ」
 まあ確かに。雲雀は口唇を尖らせていて、なんとも微笑ましかった。嫌いだなどといいながら、並盛のものが批判されるのは許せないのだろう。実際雲雀にはこの海が似合う気がした。
「海水の色が暗いのはプランクトンが多い所為だ。だから魚が多いし肥える。一番重要だろ」
「イタリアだって魚は美味いぜ」
「……へえ」
 いってることが同じレベルというか大人気ないことは自覚していたが引っ込みはつかなかった。
「うちのシェフは優秀だしな。カルパッチョとかアクアパッツァとか」
「アクアッパッツァ?」
「イタリアの煮魚だな。カサゴとかホウボウとかメバルとか」
「ふうん」
 とりあえず日本では馴染みのイタリア料理の店で魚の和名を覚えた自分に感謝だ。港町の太った野良よりは余程飢えた眼で雲雀は話を聞いている。
「来ねぇ? イタリア」
「行くわけないだろ。魚目当てに海を渡れって?」
 ボンゴレのために。いってもまだ無駄なことはわかっていた。むしろちょっとカサゴを食べにジェット機でとかいいだしたほうが雲雀らしい気もする。頼まれたらチャーターくらいしてやりそうな自覚がディーノにはあった。だが日本でも食べられる。値が張るというほどでもない料理だしだとしても並盛の支配者に何の問題があろうか。自分が求めているものはわかっていた。シマに愛着を持ってほしいという無茶な願い。いやそうじゃない。だが同じくらい無茶だ。同じものを好きであってほしいなんて、無茶なこと。
「……オレの海を見に?」
「ワオ。……加山雄三?」
「……なんだそれ。視野を広げてわかることがあるだろ。何が自分にとって大切か」
「ここだよ」
「知ってる。でも気に入るかもしれねぇだろ。気づくこともあるかもしれねぇ」
「何を」
 ふ、と囀るように恭弥が笑った。それだけで鋭敏になる感覚をディーノは自覚する。背のほうで規則正しい足音を聞いた。波音に遮られ、砂に吸収されてもなおこちらに届く生真面目な音だ。あとで金額を保証しなければ、とディーノは思った。ああみえて結構な額の靴を履いてたはずだ。フェラガモとかベルルッティとか。とりあえず砂浜で履いていい靴じゃない。
「そろそろやろうか」
 まるで待ちわびていたかのように雲雀は立ち上がる。短い間でもう、ロマーリオの足音を把握していたのだろうか。そう思うと落ち着かなかった。本当に間近にいても、すぐに必要なこと以外興味を持たない人なのだ。
「まだ話は終わってねぇぜ、恭弥」
「あなたが勝ったら、その海とやらを見にいってやってもいいよ」
 
油断なく立ち上がった教え子の口元からちらりとのぞいた舌は赤かった。多分体温が高いのだろう。そして血も鮮やかに赤い。理由が同じではないことは存分に知っている。赤血球がどうとか。だがまるで同じ理由かのように、同じ飢えを感じた。
「本当か? まあ、いやでも見せてやるけど」
 鞭の一振り、トンファーの一閃ですべてを晒けだせる。知ってディーノは笑った。もう今はそれがすべての目的といえなくもない。































next

inserted by FC2 system