「疲れてるんだろ。着くまで寝てろよ」
 すぐに眉間に皺が寄ったので笑ってみる。予想していたといえなくもない。睨みつける視線が、かまうなといっている。
「あとどれくらいかかるんだ? ロマーリオ」
「一時間半くらいか。とにかくナビはそう仰ってるぜ。日本の道は不案内だから信じるほかない」
 運転席の部下が笑声をあげる。慣れない異国の道を往くのはそれなりに疲労する。このところ、運転はすっかり部下に任せきりだ。数少ない趣味ともいえる行為を手放したのにはそれなりの理由がある。実力に差があるとはいえ体力は一応温存しておきたかったというのが一つ、もう一つはその差のある相手の体調に出来得る限り気を配りたかったのだ。この素直ではない弟子の。
「だってさ」
「疲れてないよ」
 ふい、と彼は視線の窓の外にやった。何度目かの来日とはいえ、まだまだ見るものすべてが目新しいディーノにすら、退屈で変化のない風景だ。マンションと一戸建ての家々とファミレスとコンビニの繰り返し。だが窓に映る彼の視線は動いていて、彼自身ではなくその先の景色を見ているのだとわかる。ディーノにいわせれば、真剣に目を見張っている彼のほうが余程興味深かった。愛情とか執着とか敬慕とか、そんな感情ひとつで、とんでもなく美しく見える土地のことをディーノは知っている。見慣れた、他のどことも大差ない景色が特別になることを知っている。
 ツナはどうだろうな、とふと考える。かわいい弟弟子には、同じ理不尽な教育に耐えているというだけで何とはなしに連帯感があった。優しい性格を買ってもいる。だがここまで関わってきたのはキャバッローネとしての利得を期待しているということもある。大いにある。ザンザスをはじめ他の候補者の面子の人となりをそれなりに把握していることもあって、彼が治めることがボンゴレに悪く作用するとは思えなかった。だが不意に考えることがある。彼はまだイタリアの地を踏んだことすらないのだと。
 そして、ボンゴレ現幹部歴々の顔すら知らないらしい。本人をはじめ守護者の半分が日本人だ。イタリアンマフィアなどといいながら、実情はどこも多国籍な組織だ。伝統あるキャバッローネすら、ボスの右腕たる男からしてイタリア出身ではない。だが一国にその傾向が偏るとなると、周囲から反発が起こることは予想がついた。いや、それはいい。ディーノからすればそれは別にいいのだ。だがボンゴレの広大なシマ、子どもの頃から何度となく訪れた土地のことを考えると寂寥の念が襲う。彼らはあそこを、故郷の地と同じくらい愛してくれるだろうか。
 雲雀は多分無理だろう。彼にとって並盛は唯一絶対、代わりなどありはしないのだ。共にすごした時間は僅かだが、一本気な性格は知っている。時には折れはしないかと目を背けたくなるほどまっすぐで、潔癖だ。今その感情はディーノを倒すことだけに向けられている。辟易しないでいられる筈もないのに、気づくと願っている。どうかずっとそのままであってほしいと呟いている。
 窓に映った穏やかな顔をこっそりと眺めながら、それはけして自分にもイタリアの街にも向けられることはないのだろうと思った。だが不思議と悲しくはなかった。むしろ暖かいような気持ちでいっぱいになる。彼の中にも同じ、灯火のような場所があるのだ。
「オレは寝るぞ? 休んだほうがいいからな」
 これ見よがしに呟いて、ついでに目も閉じてみる。おとなしく助手席に座っていたほうが、雲雀は体を休めることができたのかもしれない。でも正直見ていないと不安だった。全く自分でも馬鹿だと思う。今更いきなり車内で暴れだしたりもしないだろう。どうにも無駄に心配して雲雀を煩わせている。だが修行中、ぎらぎらと自分に向けられた瞳に当てられて、いくつか無駄な怪我を負わせもした。まだまだ実力には差があるにもかかわらず、彼と戦っていると大人気なく抑えがきかなかった。楽しすぎる。だからそれが終わると、鍛えるために仕方なかったとはとてもいいきれなくて後悔が募った。怪我を隠す悪癖があることも先の戦いを歯牙にもかけていないのも知っている。気づいてすぐに体調管理を本人に任すのは無理だと判断して、それからは殆ど目を離していない。まあこれも家庭教師の役目のうちだ。
 かなりの努力を要して目を瞑ったままでいると、ふう、と息を吐く音がした。そしてふいに左肩に重みがかかる。
「……はっや」
 葉が落ちる音でもおきるだとか何とか。有難い訓戒は会ったその日の夜には偉そうに垂れられたのだが、前振りにかなった対応は今のところとられてはいない。親睦も兼ねて同じ部屋に寝泊りしているが、日本のホテルの絨毯という奴はどこも非常に滑りやすい。結構やらかしているとディーノは自分でも思うのだが、雲雀がおきたことは一度もなかった。
 だが流石に車の中では眠りも浅いだろう。笑いたくなるのを何とか堪えて、柔らかい髪を梳いた。
「ロマ、ゆっくりやってくれ」
「了解」
 囁き合わせたあと、自分側の窓をほんの少し開ける。なんだか急に息苦しくなった気がしたのだ。狭い車内にいるのだから当然のことなのかもしれない。
 もう潮の匂いがした。景色だけではまるで伺えなかったから驚く。何でだろう、日本のほうが故郷の海より匂いがきつい気がした。まあ、気温も湿度も違うのだ。それくらいの違いは当たり前なのだろう。だがそれでも。
「海だ。なあ、ロマーリオ」
「子どもじゃねぇんだからはしゃぐなよ、ボス。恭弥がおきるだろう」
 慌てて口を噤んだが、すっかり心は浮き立っている。海だ。強い匂いは慣れ親しんだものではなかったがむしろだからこそ海だ、という感じがした。
 恭弥だったらプランクトンの死骸の匂いはどこだって一緒だよ、とかいいだすんじゃねぇか。
 思いついてディーノは微笑んだ。それでかわいくなく口を曲げてかわいくなく横を向くだろう。あまりに相互理解の意思のない弟子に困り果てた末に、ふと気づくとこんな時あいつならどういうだろうどうするだろうと、想像している自分がいる。今のところ正解率は五十パーセントに満たない。単純な子どもの思考回路を持つ人なのだが、逆に単純すぎて突飛であるともいえた。
 秋とはいえ日中は日差しも暖かく、まだまだ頑張れば海に入れないでもない気がする。いや、駄目だ。風邪をひかせるわけにはいかない。打ち消しながらも、ちょっとぐらいならなどと考えている自分がいる。まるで子どもの思考だとディーノは思った。
 まだ幼い頃から海は好きだった。港に一人で座ってどこか知らない国にいる自分を想像する。どこか遠くに行きたいと、そう思いながら飽きずにきらきら光る水面を眺めていた。生まれ育った街を大事に思っていたはずなのに、何でしょっちゅうあんなことをやっていたのだろう。いや理由はわかっている。結局懸案だった家業を継いで、船ではなく飛行機で今は世界中を飛び回っている。子どもの頃思い描いたよりもずっと世界は狭くて、でも海を見るたびに条件反射のように考える。どこか遠くへ。ここではないどこかへ。
 宇宙にでも行くか。思いついて苦笑する。今ならもう、いけない金額でもないのだ。そして今はもう、いけるほど身軽ではない。
「着いたぜ、ボス」
 声をかけられて、ディーノは咄嗟に身じろぎをする。どうやら少しうとうとしてしまったらしい。
「やっべえ。おこしたか?」
 むしろおこさなければならないのに、何故か慌てた。運転席で笑っている気配がする。自分で思うほど揺らさずにすんだのか、丸っこい頭はまだディーノの肩にのっかかったままだ。狼狽えた自分が照れくさくて、長い前髪を掻きあげた。なんだか能天気にすうすう眠っている。額を出すと、予想以上に幼く見えた。つん、と上を向いた鼻をつついたがさっぱりおきる気配はない。まったくどの口が。どの口が偉そうにすぐ目が覚めるなどといったものだろう。さてどうやっておこしてやろうか。
「さっさとおこせよボス」
「おっ! おおおおう、そうだなっ」
 思いついた一案は即座に却下した。なんだかいつの間にやら自分がとんでもない汚い大人になった気分だ。とんでもなく動揺しながら、とりあえず見るからに柔らかそうな頬をむにむに揉んでみる。うん、柔らかい。
「きょおーうーやあ。恭弥―、おきろー」
「……むう」
 眉をしかめて、煩そうに手で払った。それでもまだおきようとはしない。まったくどの口が。再び考えて、あ、とディーノは気づいた。そうかだからあんなおこし方を思いついたりなどしたのだろう。ああよかった。ちょっといきなり自分がおかしくなったのではないかと思った。





next

inserted by FC2 system