「ただいま」

 手元さえ見えない状況ながら、腕の中の人をきつく抱きしめた。十年ぶり。そう考えればなんだか懐かしい気すらした。あの頃ですら細く見えた、掴むことすらできなかった肩は、掻き抱いた今となっては更に頼りなく感じられ、そしてそれがとんでもなく強い力を秘めていることもオレは知っている。

「おかえりっていってくんねえの?」

 髪を梳いて、黙りこくったままの人の耳に文句を吹き込んだ。ついでにそこにキスもひとつ。このくらいの不満の表明は許されるに違いないと思う。そう、何といっても十年振りなのだ。

「っで。いででででで!?」

 違ったらしい。後頭部に衝撃があって、そのままぐりぐりと抉られる感触があった。

「恭弥ぁ?」

「……」

「怒ってんの?」

「……」

「前もって説明しなかったのは、悪かったって思ってるけど。でもそ」

「怒ってない」

 いいわけを始める前に許されてしまった。だが拳はまだ当てられたままで、対応に困る。本気で怒っていたらこんなもので済まされないことはわかっている。だがこちらとすれば、確実に恭弥の機嫌は悪くなっているだろうと思って戻ってきたのだ。普段の基準からすれば、いっそ穏やかといってもいい対応に逆に不安になる。

「恭弥。……顔見せて?」

「やだ」

「即答かよ。見せろって恭弥。見たい。駄目?」

「……やだって」

 ぎゅう、とかわいらしくしがみついてくる腕をはずした。多少勿体ない気がしないでもない。手首を掴み、下を向こうとしている顔を覗き込んだ。

 そうだった。そう、彼はこんな表情を浮かべていたのだ。少しばかり朧気になっていた記憶が、突然鮮やかに甦りだす。どうして恭弥が怒っているかもしれないなんて、思ったりしたのだろう。重たげな目蓋がかわいそうで、オレはもう一度抱きしめた。その顔を見ないですむように。

 鶏が先か卵が先か。わからないからオレは、先に恭弥に話しておくことができなかった。恭弥は前もって知らなかったから、あんなことをいいだしたんだと思ったから。でもそう思った理由は多分もうひとつあったのだ。さっぱり無意識だったが。

「……ごめんな」

「怒ってない」

「うん。でも悪かった。恭弥が知ることで過去が変わったらまずいと思ったんだが、だからってあんなこといわせてあんな顔させていい理由にいてっ! いってえって! 」

 首筋をひっかれた。刺青が肉ごと剥げるんじゃないかという勢いだ。そのくせ、思わずこちらが躰を離そうとするとしがみついてくる。

「……あんな顔って何?」

「ん……今のおまえの顔。不安そうな?」

「してない」

 じゃあ見せてみろよといいたい。ぐりぐりと頭を胸に押しつけてくる人の背中を撫でた。もう離そうとしないことが伝わるように、ゆっくりと。少しずつ力が抜けていくのがわかる。

「あんなって何?」

「だから、……そうだな泣きそ」

「うるさい。僕何かいった?」

「……ゆめ」

「……」

「夢っていったろ? 恭弥。」

 ああやっぱりいってしまったなぁ、とどこか冷静に思う。ずっと聞きたくて、聞けなくて、今ならやっと聞けるのに聞きたくない。それでも聞いてしまったのは、勢いと衝動と弾みとあとは僅かばかりの自信があったからだ。泣きそうな顔。

「何で夢だなんていった? 恭弥。ガキのオレが未来に来たって、わかってたろ?」

 責めたくはなかったが、声が硬くなってしまった自覚はあった。まだ濡れている髪を梳いたのは、彼のためというよりはオレのためだ。冷静になるため。

「オレと……こうなったこと、後悔してるか? 恭弥」

「あなたが……」

「ん?」

「……くさい」

「へ?」

「なんか汗臭い……だけじゃないよね、変なにおい」

「やっ、ええっ! 臭くねえし! つうか今その話か?」

 そういいつつもつい自分の臭いを確認しようとしてしまうあたり、自分も大概だと思う。恭弥が時々身勝手に潔癖なることは、修行中に嫌になるほど叩き込まれてきたからまあ仕方がないといえる。だが、恭弥が敏感すぎるということなのか、自分の臭いには気づけないということなのか、オレには薔薇の香りしか感じられない。ひどいことをいいながらもしがみついたままなのに苦笑して、あ、ときづいた。汚れていた街。そういえばガキのオレは武器もまともに持ってなくて、ゴミバケツ、を。

 うわぁ、と頭を抱える。ついでに身悶えもしそうだ。なんという。よく死ななかったなあ。

「……どうしたの」

 あきれたような、力が抜けた声だ。

「うー、ああ。まあスラムに近いような場所だったしな。ってか、十年前のオレのほうがよっぽど臭かったんじゃねえ?」

 そんなことを指摘された記憶はない。あの時そんなことをいわれたら、一生浮上できなかったろう。

「……どうだったかな。戦ってたの」

「ああ、そうだな」

「勝った?」


「おお」

 ほうっ、と小さく吐かれた息。今はまだ聞かなくてもいいか、と思った。言葉以外のものなら、オレは過分なほど与えられている気がする。

「壊滅だぜ。リボーンもいたんだけどな、お手並み拝見だぞ、なんていいだして手も貸してくれねーし。つうかあいつ、いきなりオレが現れたのに顔色も変えやがらねぇの。まあ頑張ったんだぜ? 十年後のオレには出る幕もねーな」

「そう、さすが赤ん坊だね」

「いや、褒めるとこそこじゃねーだろ」

 恨めしげに訴えてみるが通じたようではない。一応戦ったのはオレだ。たいした奴らではなかったが、距離をとってばらけていたから面倒だった。だが安心したように、嬉しそうにしている恭弥を見ればどうでもいい気もする。

「お風呂、入ろうか」

 耳が悪くなったのだろうか。オレは思わず天井を見て床を見て恭弥を見た。オレがいない五分のうちに歴史が動いたりでもしたのだろうか。そうでもなければありえない。

「あ、や、ぇえ?! ……恭弥?」

「何? いやなの」

「いやなわけねーだろ! でも、おまえ……風呂入ったばっかじゃねえか」

 問題点は明らかにそれじゃないわけだが、そう聞く。すん、と見た目は清潔極まりないバスローブの袖のあたりで、恭弥が鼻を蠢かした。

「そうだったけど。……あなたの所為で汚れちゃったよ」





 やばい、と思った。

 据え膳を前にして何を申すって? ありがたくいただく気は満々だ。日々の糧は農家の人たちに礼を。天にまします我らが父に感謝を。だがこの場合は誰に頭を下げるべきなんだろう。草壁? 思わず頭に浮かんだ顔を必死で打ち消した。

 鶏が先か卵が先か。答えのでない問いだ。だが今のオレはそれを問い詰めたい。そして十年前の十年前の十年前の十年前のオレだかに、問い詰めたい。何でこんな花を選んだのだと。同じ赤い花でもチューリップか何かだったら、もう少し微笑ましい気分になったような気がする。時期にちなんで菖蒲にでもすれば、恭弥がもののふのようにでもなったろう。そんな薬効があるとか聞いた。

 だが現実、恭弥は赤い花弁にまみれて浴槽に浸かっている。如何ともしがたい。

「……っえっろい。恭弥。やばいって」

「ふうん」

 物凄くどうでもよさそうな声で返された。

「それの何がやばいの」

 トイレ用洗剤を混ぜたら何がまずいの、ぐらいの聞き方だ。当たり前だ。

「塩素系ガスが発生するね。おまけにここはユニットバスじゃない」

 あれ、声に出してたか。相当いっぱいいっぱいの自分を自覚して、思わず呻いた。むう、と恭弥が唇を尖らす。ていうか尖らかした顔が目の前にあった。いつの間に。

「何? 僕があなたを欲しがっちゃまずいわけ?」

「そんなわけねぇことぐらい知ってるだろ? むしろ大喜びする。でも恭弥、今はそうじゃないじゃん。どうした? いいたいことがあるならいっちまえよ」

 あどけなさの残る、柔らかい頬にキスをした。宥めるために。だがそれにすらオレは煽られて、本当にどうしようもない。湯から上がった、赤く染まった恭弥の肌には花びらが散っている。なぜか頭の上にも二枚。わざとじゃないのかといいたくなる。

「そんなの、……あなたのほうがよっぽど……」

「ん? いいからいえって。恭弥? おまえは俺の運命の人だから、全部知りたいんだよ。気にしていることがあるならいって欲しい」

 頼りなげな口唇にももうひとつ。どうせオレの我慢なんてこの程度だ。十年前の恭弥。つまりは今の。優しくて、俺の怪我の手当てをしてくれた、とんでもなく美しい人。そういえば、薔薇の妖精じゃないかなんて考えたりしたっけ、と唐突に思い出す。うわあ。思春期まっさかりの愚かさに気恥ずかしくなる。いくらなんでもそれはない。うん、それはない。そこまではかない存在じゃない。せいぜい天使がいいとこだ。

 そしてオレに言葉をくれた。結局オレはへなちょこで、親父はオレが殺したも同然で、でもそれでもずっとオレの中で赤星のごとくに輝いていた。彼のいうように、そう生きたいと思った。オレの導きの星。そうだ、今思えば、今日この日に導いてくれたといえなくもない。三博士ならぬ愚かなオレは、黄金だの没薬だの受け取ってもらうことも叶わない。渡すことが許されたのはいかにも実務的な救急セットで……だがまあ思い出の品だ。嬉しくないとはいわない。

「……嘘ばっかり。誰にでもいってるんじゃないの。そんなこと」

 不安も恐れも朧気で、ただ悦びばかりが残っているオレの記憶。恭弥が何を考えているのかなんてわかりもしなかった。目の前の躰を引き寄せる。思い切り抱きしめて、自分の自制心の頼りなさに眩暈がした。だってしかたがない。いつも、聞き流しているのはあからさまだったのに、今は嫉妬しているとでもいいたげなのだ。あの恭弥が。

「そんなことねぇよ。何だってそう思うんだ?」

「……」

「夢だっていったろ、恭弥?」

「……うん」

「……あれさ、オレ本気で信じちゃったんだぜ。まあ、あの頃は十年バズーカなんて存在すら知らなかったしな。気を失っただけなんだと思った。何年かしてマフィアのボスになって周りのファミリーの武器の情報にも詳しくなったけど、まさか自分が十年後に行ったなんて考えもしなかった。」

 強張った背中を撫でてやる。自分のいったことがどう影響するか、考えもしなかったのかもしれない。

「まぁオレがどれだけ馬鹿だったか、って話なんだけどな。でもオレはよくお前のことを思い出したよ、恭弥。お前がいってくれたから」

「ディーノ。」

「先に迷ったときにお前のことを思い出した。お前の言葉を。オレはお前に恥じない生き方をしたかった。胸を張れるようなもんじゃねーけどせめてオレの中のお前にだけは。オレはずっと誰かを守るためにやってきたっていいたかったんだ」

「ディーノ。」

「だから応接室でお前の顔を見たときにすぐにわかった。何でお前を忘れられなかったのか。お前にふさわしい人間になりたかった理由も。恭弥」

「……っつ。ディーノ」

 怯えるように上げられた手首を掴んだ。震える手。雲雀恭弥にはありえない。だからオレは聞いた。たとえ答えを待つ気はなくとも。

「オレでいいか? 恭弥」




















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