死んだ、と思った。

 たちこめる煙。その向こうで、誰かがオレの名を呼んでいる。煙が目にしみ、咳き込んだ。苦しくて、そしてなぜか甘い。どこかで甘い匂いがするような気がする。距離感さえつかめず、手を伸ばした。ディーノ。理屈など何もなく、生きているのだと思った。まだ死んでいない。おかしな話だ。父親に過分に愛されている自覚はある。それでも無鉄砲に動いたオレを、許してくれるとは思わなかった。そして彼じゃなければ誰が、オレをこんな風に呼んでくれるだろう。ディーノ、ディーノ。オレがずっと欲しくて、手にはいらなかったものがそこにあるような気がした。ディーノ。

 視界が晴れると、そこにいたのはまだほんの少年だった。それなのにとんでもなく美しい人。バスローブを身に纏い、手には薔薇を一輪持っている。嘘みたいな光景だ。年はオレと同じくらいか、もしかしたら年上かもしれなかった。アジア系の年齢はわかりづらい。

「おまえ誰だ? ここはどこ。何でオレの名前……」

 問いを並べながらも、すべてが手遅れなのはわかっていた。オレは何もできなかったのだ。あいつのために。あれを喰らって、何でオレがまだ生きているのかはわからないが、こうやって見知らぬ場に置かれている以上、敵の手に落ちたと見たほうが妥当だろう。

 見回して、呆気にとられる。見慣れぬ少年の姿に驚いて、気づかないでいたが、周りの状況も彼と同じく途方もなかった。豪華という程ではないが、人質にするつもりにしろ殺すつもりにしろ、敵のマフィアの子息に与えるには過ぎた部屋だ。ドアは開け放してあって、どうやら二間以上与えられている。そして、部屋中に溢れている薔薇。彼が手にしているのと同じものだ。そこでやっと、煙すら押しのけていた香りの出所に気づく。それまでずっと、彼から立ち上っているのだと思っていた甘い芳香。

「恭弥、だよ」

「え」

「恭弥。僕の名前。ここは日本だ」

 わかる、と顔を覗き込まれ、その距離に状況もわきまえず胸が高鳴った。正直何もわからない。唐突に外国にいるといわれても、実感が湧く筈もない。だが与えられた言葉は日本語で、オレの問いにきちんと答えている。伊語も少しは通じているのかもしれない。彼は日本人なのだろうか。容姿からいっても不自然ではないのに、薔薇の妖精だとでもいわれたほうが、まだ納得できる気がする。

「日本? まさかだって……」

「あなた、バズーカに当たったんだろ。何をやらかしたの」

「何も」

「何も?」

 彼はかがんで、オレの視線を捕らえようとしている。彼が動くとまた香りが濃くなった気がした。

「何もできなかった。逃げないって思ったのに。あいつはもうすっかりあきらめてて……、放っておいたら本当に……。守んなきゃって、決めて。でもやっぱオレ、へなちょこなんだ。何もできない」

「あいつって」

「うん?」

「あいつって誰」

 
今にも泣き出しそうな顔が目の前にあった。大きく開かれた目、視線だけがゆらゆらゆれる。抱きしめたくなった。相手が男だとか、そんなことは思い浮かびもしなかった。彼が泣いてしまったら、オレはもうどうしようもない。どうすればいいのかわからない。焦って、慰めたくて、でも自分の欲求が先に立って、手を伸ばした。細い肩を掴もうとする。

 そしてその時はじめて気づいた。目の前にいる彼も同じ状況なのかもしれない。あいつらは子供を食い物にするマフィアだ。彼は痩せてはいるがあいつのように病的な程ではなかったし、バスローブの広く開いた袖口から覗く腕は見たところ目立つ傷もなかった。だがそれだけで、何をされているかわかるわけでもない。

「あいつは……友達、なのかな。わかんねぇ。まだ会ったばっかで、名前も知らないんだけど」

 宙に浮いた手の持って行き場に困った。何も聞けなくて、オレはただ問いに答える。彼は両手でオレの手を握ると、小さく頷いた。薔薇が床に落ちる。

「おでこ」

「え」

「おでこ怪我してるよ」

 視線は下を向いたままで、多分さっきから気づいていたということなのだろう。オレは肌理の細かい肌と長い睫毛に見惚れていた。濡れた髪は頬に張りつき、手もまだ湿っていて柔らかかった。

「ちょっと待ってて」

 そういい残すと彼は隣室に向かった。静かだがすばやい動きだった。

 この人のためにオレに何ができる。何もできない。問うまでもない。オレはへなちょこで、あいつすら救えなかった。ここは敵のアジトでリボーンはいない。絶望的な状況だ。オレは弱い。それが悔しかった。オレは、この人のために何もできない。それが悲しかった。

 額に手をやると生暖かい感触があった。驚いて確かめると、血が出ている。彼がいっていたのはこのことだったのだろう。ヴェントゥーラの奴らから隠れている最中に、思い切り転んだ。額を擦った記憶もある。多分その時のものだ。

 思い出して、だが疑問が残った。イタリアから日本までどのくらいかかる? 薬を盛って、ジェット機で。何の目的か知らないが、わざわざ運んでいただいて、半日か? それ以下? 転んで作った程度の傷の、血が止まらないなんてことがあるのだろうか。

 彼が嘘をついているとは思わなかった。それはもう確信といっていい。彼自身が騙されているのでなければ、ここは日本だ。何かに似ている、と思った。理屈が通っているようでまったく通っていない、嘘みたいな光景と状況。何かに。だがそれが何なのか思い出せない。












 急いで隣室に向かい、見慣れた鞄を開ける。気に入っているということなのか、服も装飾品もあきれるほど持っている割には、飽きずにこの鞄を持ってきているのはよく見かける気がする。とはいえ身軽さを重視する人だから、普段は財布やちょっとしたものをコートのポケットに突っ込んだだけで出歩いているし、一言いえばすぐに用意してくる部下もいる。割合大きなサイズのこの鞄を見るのは、大体はホテルにも寄らずに彼が並盛に来たときだけだ。

 内ポケットを探ると、思ったとおり救急セットがあった。本人の許可を取らずに私物を開けることに後ろめたさを感じないでもなかったが、結局はディーノのためにすることなのだと自分を納得させる。血が流れている。すぐに止めなければならない。おかしな話だ。手合わせの最中なら、その傷口を更にトンファーで抉ってやったって、なんとも思わない。だが今のディーノは幼くて、流石に傷つけたいとは思わなかった。

 何がどうしてこうなったのかはわからないが、多分十年バズーカによるものだ。それで幼くなった。ディーノから、そういう武器が存在することは聞いている。その時は何を馬鹿なことと思ったが、赤ん坊の周りでは信じられないようなことがしょっちゅう起こる。それに、実際見てしまえば納得しないわけにもいかない。声は幾分高く、頼りない雰囲気を纏ってはいるが、あれはディーノだ。間違いようがない。

 確か効果はとんでもなく短かったはずだ。そう聞いた。とりあえずは治療しなければいけない。戻る場所は戦闘の最中なのだろう。キットの中身を確認し、立ち上がる。消毒して、血を止める。視界が血で煩わされないだけでも、多少動きやすくなるに違いない。それで。ふと考えてとまる。それで僕は何をいえばいい。どう説明をすれば。

 足早に部屋を戻ると、子どもは離れた時のまま床に座っていた。いい子だ。今の彼よりも幾分細い髪。柔らかい頬。

「きょ……恭弥?」

 初めて呼ばれた名前に慌てて手を止める。真っ赤な顔。やはり今のディーノとは違う。だが仕方のないことだ。身体的接触の過剰な国柄といえど、同性に不躾に触られて喜ばしいはずもない。わけもわからず見知らぬ場所に放り込まれて、そこにいた男。不審に見えるに決まっている。さっきは肩を掴むのさえ躊躇っていた。

 この程度で傷つきはしない。そして彼が傷ついているのに、かける言葉を僕は知らない。勝つか負けるかしかないのなら、勝つしかないのだし、戦うことで強くもなる。シンプルでわかりやすい。悩む必要などない。少なくとも僕にとってはそうだ。それでも彼が悩んでいるのだけはわかるのに、何もいってやれなかった。何をいえばいいのかわからない。代わりに感じたのは嫉妬で、もうどうしようもない。あいつって誰。いくらなんでも。他にいうべきことはあった。だがなんて。未来だなんていえるはずもない。先のことなど知らないほうがいいに決まっている。

 消毒液で拭うと、傷は思ったよりも小さかった。あとも残りはしないだろう。いや残らないことは知っている。額を出した姿は更に幼く見えて、カットバンを貼ったあとも傷を押さえた手を離せずにいた。

「あのさ。恭弥もヴェントゥーラに……」

「え」

「ううん。オレ弱いし。頼りになるわけないけど、でも絶対おまえをここから」

 見慣れた表情が目の前にあった。はじめて幼い姿と今のディーノがしっかりつながった気がする。

「あなたって本当に……変わらないね。いつだって守るためなんだ」

「え?」

「ディーノ。夢だよ」

「夢?」

 手放しがたかった。柔らかな金髪。

「そう夢。しかもすぐに覚める」

 
落ちそうなほど大きな目がこちらを見ていた。とても首肯できる話ではないのだろう。疑われて当然だ。

「覚めたら忘れるよ。それに僕なら大丈夫、強いしね。あなたは目が覚めたらすぐそのヴェントゥーラとやらを」

 我慢できずにカットバン越しに口づけを落とした。これくらいは許されるはずだ。彼はイタリア人でこれは……そうこれはさよならのキスだ。さっき聞いたのと同じ音が今度はずっと間近でして、部屋中が煙で包まれる。





























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