部屋にはいって、まずは安堵の溜め息をついた。思っていたとおりの花だ。恭弥の顔に近づけて色を確認する。やっぱりこの色だ。暗い血のような赤。オレを煽る色。そしてこの、濃密で甘い香り。正直記憶はあやふやで、こうやって確信を持って認められることに軽い驚きがある。

「黒真珠だよね」

 きかれてはっとした。花が好きなのかと問えば、そういう訳でもないという。日本の品種だそうだからこちらでは一般的なのだろうか。だが花に詳しいなら、それもかわいいと思う。まぁちょっとした末期だ。別に植物学者に軒並み心惹かれるってわけじゃない。

 いつだって殺伐とした人が、かわいいものや美しいものに、とりあえず甘かった。そうやって無意識にバランスをとっているのかもしれない。

 だがオレなんて品種どころか種類すらよくは知らない。自邸の庭には季節ごとの花が咲き乱れている。美しいし、部下たちの心を癒す効果もあろうと、何代か前に力を入れ始めたときいている。業者を入れて世話もさせているが、時折仕事の合間に窓越しに眺めるだけで、今何が咲いているかも把握していない。

 古来女に贈るには花が一般的だ。べただが効果的。ビジネスの場でもパーティーやら何やら、数多ある機会にかこつけて贈ったり贈られたり。だがオレは手配は部下に任せきりで、適当に見繕ってくれと頼むだけだ。仕事上の付き合いならお互い様もいいところで問題ないが、女性はそうもいかないらしく、礼ついでに贈った花の話題をふられて困ったことも一度ならずある。

 薔薇についても同様で、さまざまな色味があるという漠然としたイメージしかない。そんなオレの注文に答えてくれた、日本の花屋は優秀だ。日本に来るたびに利用しているホテルに紹介してもらった店だ。量が量だから上客なのは間違いないが、よくもまああの曖昧な要求にこたえてくれたものだと思う。贈られてきたパンフレットでは色もわかりづらく心許なく思っていたが、確かにこの花だ。

「僕は別に、あれ以外にプレゼントとかは欲しくないっていったよね」

 髪に挿そうとすると睨めつけられた。遠慮なんて言葉は自分の辞書にないといいたげな人は、彼の金銭感覚からすれば高価なのであろう食事や、細かなドルチェの贈り物は平然と受け取るくせ、時折こうやって頑強に突っ撥ねてくる。もちろんオレは拒否しだが、風紀への献金も別枠らしい。あなたの髪を思い出すよすがにするから、と金の先物取引の資金提供を呼びかけられたこともある。情けないことに一瞬喜んで、喜んで気づいた。実物見ねぇじゃん。

 彼が拒むのは、多分プライドによるものだ。与えられるよりも奪うことで生きてきた人。それをオレはわかっていて、わかっていてそれでも、気づいてほしかった。奪う前に与えられてきたものがおまえにもあるはずだ、と。これはオレの我侭だ。すべてを与えたくて、与えることもできない、つまらない人間の。

 食料品や消耗品なら、なぜか抵抗なく受け取られることは気づいていたが、躊躇いがあった。中元や歳暮と同じ括りにされるのは避けたい。まぁ、薔薇もいずれは枯れる生鮮品なわけだが。

「花は消耗品じゃないよ。生き物だ」

 
オレの心を読んだように、呟いて、見上げた。驚くほど真摯な色をたたえている。周りの群れた人間たちには与えられることのない、真摯で、純粋な、やさしさ。

「ごめんな」

「べつにいいんじゃない。切花だ。すぐに枯れる」

「でもごめん。これはオレへのプレゼントだ」

「え」

 揺らいだ目がかわいそうになる。耳の脇に一輪挿して、もう一輪、無理やり花びらを頭の上に散らした。オレは残酷な人間だ。とっくに麻痺してるはずの心が痛んだ。黒髪に真紅。美しい人。数えられないほどの人を傷つけて、それでもこの鮮やかな花を惜しんだ。

「オレから自分へのプレゼント。これじゃオレの誕生日だよな。綺麗だ、恭弥。めちゃくちゃ似合う」

「……」

 そのままキスしそうになる自分を制して、黒い髪を梳いた。まだ時間はある。がっついてしまうのは避けたい。ソファに誘うと、その前のテーブルにはすでにシャンパンと、小さなショートケーキが用意してあった。なんだかんだで甘いものを見れば、口元を緩めてしまうのは知っていて、つい笑った。

「あなたも、甘いものは好きだよね。疲れてるの?」

 なんとか誤魔化そうとしたのが無駄だったらしい。唇はもうへの字に固定されていて、それでも、あなたも、などというのだ。ちょっと考えて思い出す。応接室での会話のことをいっているのだろう。疲労には甘いもの。

「まぁ、それなりに? 仕事もあるけど」

「ふぅん」

「でも恭弥のほうが必要だぜ。働きすぎ。もうちょいウエイトつけてもいいんじゃねぇ」

 どうにも疲れてるなどとは思われたくない。ちょっと情けない。それにここに来た時点でもうそんなものぶっ飛んでいるのだ。苺でへの字をつつくとちょっと笑って、そのまま口に入れさせてくれた。

「忙しいの?」

「そこまではな。今は穏やかなもんだし。企業買収とかちょっとした小競り合いとか。平和平和」

「……ふぅん」

 今の「ふぅん」は、ちょっと低い音だ。雲雀恭弥が出せる中で最も同情に溢れた音。それは気の毒だ、かわいそうにとでもいいそうな、沈痛な「ふぅん」。ちょっと自分でも痛ましい気分になった。

 カーゴパンツの後ろを探って確認する。視線を上げると白い塊が目に飛び込んできた。明らかに一口サイズではないそれを、おとなしく口に詰め込まれると、恭弥が得意そうな顔をしている。

「疲れ、取れた?」

「取れた取れた」

 なぜだか今日はやさしい。オレはとんでもないチャンスを手放そうとしているのではないかと思った。

「シャワー浴びてきたらどうだ、恭弥。風呂は用意させてある」

「……うん」

 頷いた顔は、もう笑っていなかった。

 バスルームに消えた恭弥を見送って、武器を取り出した。時計を確認する。この緊張は今から乗り出す戦いのためではないことを知っていた。












 バスルームも薔薇にまみれていた。

 パウダールームは勿論のこと、バスタブにも満遍なく薔薇が浮かべられている。まるで草木染でもはじめそうな雰囲気だ。

「あの馬鹿……」

 思わず罵って、だが本当の標的では彼ではなく、自分自身だ。動揺してる、と思った。あんな言葉一つで。

 シャワーを浴びて、湯船に身を沈める。素直に綺麗だと思う。揺蕩う紅い花びら。だがその使用方法がわからない。ヘチマみたいにたわし代わりにできるわけでもなさそうだ。もしかして前室と同じく、単なる飾り付けなのかと思いついて、溜め息をついた。

 風呂は嫌いじゃない。汚れを取り、疲れを癒す。単独で狩を行う肉食動物が、自らの臭いや気配に気を配るのは当然のことだ。香り自体は嫌ではないので黙っているけれど、ディーノは香水をつけすぎだと思う。他人に居所を気取られるようなことは、避けなければ駄目だ。自ら匂いを添加するような、ホテルに用意された入浴剤やアメニティの山には、いつも困惑する。だがここまで甘く濃い匂いが漂うものはなかった。頭がぐらぐらする。

「こんな風呂に一人で入れって……?」

 
愚痴めいた呟きをつい漏らして、口唇を噛んだ。一緒に入浴しようだとか、ディーノが時折してくる恥知らずな提案に乗ったことは一度たりともない。なし崩しにことが進むのならともかく、明るい場所でそんな状況に陥れば、彼を咬み殺したいという自らの欲求に抗える自信は全くなかった。普段は抗う必要もないが、流石に風呂場にトンファーを持ち込みはしない。相手はへなちょこだが体力だけはある。多分泥仕合だ。しかも間抜けな格好だ。本人もわかっているのか、しつこく強要してくることはなかった。

 だがこんな甘い匂いの浴室に一人で放り込まれて、平気ではいられない。暴れてやりたい。湯を片腕でかき回すと、花弁も舞った。艶やかな表面はまだ水滴を弾いているが、いずれ萎びてしまうだろう。でも今はまだ綺麗だ。緋色の薔薇。僕が似合うとディーノはいったが、自分のほうが余程だ。花束にして抱えてまともな服でも着れば、童話の王子様でも通用するだろう。

 運命。

 首を振った。また考えてしまった。いや、ずっとそのことしか考えていないのかもしれなかった。どれだけ僕が自惚れていたのかという話だ。全く間違っていたとはいわない。僕がいくらこういうことに疎くてもわかる。ホテルについてからこちらキスひとつ与えられていなくても、こんな状態の浴室に押し込められていても、いくらディーノが唸るほど金を持っているにしても、意味もなく部屋を薔薇で溢れさせたりしない。たいした理由もなく、祝うだの理由をつけて日本に来たりしない。わかってる。草食動物と話しているのを聞いた。前後の内容から仕事の話だとわかった。それでも動揺しているのだから、僕は本当にどれだけ思い上がっていたのだろう。根拠もなく。

 好きだとか愛しているだとか、綺麗だとかかわいいだとか。彼の感情は全く理解できないし、綺麗なのもかわいいのも彼のほうだ。それに多分そんな言葉国の女たちには好き放題に、惜しみなく浴びせかけてきただろう。そういう人だ。でも運命だなんて愚か極まりない、マフィアのボスの威厳もへったくれもない言葉だ。大体運命なんて、一度きりだからそういうのだろう。だから僕はききもせず、言質もなく、根拠もないままで信じていた。それだけは僕だけに与えられる言葉だと思っていた。

 馬鹿みたいだ。湯船に浸かっていた時間は短いのに、すっかりのぼせているのがわかる。躰を拭き、バスローブを着て、手慰みに花瓶から花を一輪取った。丁寧に棘が抜かれているそれをぐるぐると回しながら、気持ちが落ち着くのを待つ。わかってしまうともう、どうしようもない。ディーノは悪くないにせよ、咬み殺してしまったほうが話が早い気がする。いやむしろその方が良いのではなかろうか。きっとそうだ。

 息を呑んだ。雷鳴が轟くような、家具が倒れるような。まだまだ新しいはずのホテルの床も揺れている。爆発音だ、と気づいたときには、もう部屋に駆け込んで彼の名を何度も呼んでいた。

























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