麓まで近づいて、周囲を見渡したが怪しい人影はなかった。登山道を使うはずもない人間の為に山を囲むより、街の入り口をはったほうが効率がいいと考えたのだろうか。短い距離とはいえ、路地裏と違い遮蔽物のない道をマフィアと追いかけっこというのは避けたかったからちょうどいい。だがもし本当に街にいるとしたら奴らは、一般人の巻き添えや、ころしを人に知られるのを厭わないということだ。

 腹が熱い。ひりつくような痛み。感じたのは恐怖とそれよりも、これは多分、怒りなのだろう。自分でも意外な気がした。だが、マ
フィアなんて十把一絡げ、どいつもこいつも悪人だとまとめて切り捨てられるほど、無知でいられるはずもない。どうしたってオレはマフィアのガキなのだ。盗人にも三分の理がある。俺が知っている奴らは、時に硝煙や血の臭いを漂わせていて、そしてそのことを憂いていた。それで何が変わるわけでないにしても。親父ならこんなやり方で、俺を殺そうとはしないはずだ。

 流石に正面から挑む度胸はなくて、少し外れた位置にある、こじんまりした家の庭に入り込んだ。埃っぽく、すえた臭い。壊れたバケツや鍋や、様々なものが庭に放置してある。メインストリートを僅かでも外れると、途端に荒れ果てた印象を受けることは承知していたが、強いて寄り付かないようにしていた。リボーンの特訓で殆ど時間が取れない所為もあったが、見たくないというのが正直なところだったと思う。誰の責任かって話だ。

 「う、うわぁああああ!!」


 低い柵を跨ごうとしていたところで、わかりやすく黒服の男に見つかった。空のバケツを思い切り投げつけると、右手の路地に向かう。確かに足は速くなった。男は屈強そうだったが鈍重だ。そしてリボーンのいうとおり、細かな道が、網の目になっているこの街は多分余所者にはわかりづらい。坂や階段も多く、家具つきアパートの僅かに奥まった玄関は身を隠すには最適だった。

 「……なんとか……なる……、かな?」

 息を整える。もしかしたら、このまま宿舎に戻ることは可能かもしれない。

 「でも、居場所はばればれだし。流石に学校をどうこうとかはしねぇよな。無駄も多いし。でも待ち伏せはされる……か」


 小さく声に出して、何とか冷静になろうとする。逃げるのはともかく、誘き寄せるのは問題外だ。自殺行為だ。だが焦るばかりで、一向に考えはまとまらなかった。

 と、足音がした。集団だ、多分四五人。喚きあうように、オレの所在を問いあう声がして、統制の取れてない様はお粗末だった。だが救いになるはずもない。後ろ手でノブを探るとすんなり回った。

 「ひ」

 汚れた花柄のエプロンをつけた、恰幅のいい女性が吸い込むような悲鳴を上げた。物騒な物音を聞きつけて、玄関に出てきたのだろう。右手にはフライ返しを握ったままだ。これが包丁とかじゃなくてよかったなぁ、と他人事のように思う。

 「ごめん。おばちゃん。ちょっとかくまって」

 慌てて相手の口を覆って、耳元で嘆願する。ぶるぶると震えていたが、すぐおとなしくなってほっとする。こんなオレでも、この制服を着ているだけでこの街では恐怖の対象なのだ。

 「あ、焦げる?」

 「は?」

 「焦げたらまずいよな。ごめん。すぐそこキッチン? 戻っていいよ」

 腕を放すと、胡散臭げにオレを見たが、すぐレンジに向かって歩み寄り火を止める。キッチンには大きな窓があって、オレは壁際に身を寄せた。まだ人の気配がする。

 「追われてんだ」

 と我ながらいわずもがななことをいう。

 「そんな細っこいのに、あんな学校通ってんのかい? いじめられてるんだろう。」

 いわれて少し笑う。マフィアに追われてるなんて、思いつきもしないんだろう。勝手に家に押し入ったのに、まるで心配してるみたいに俺の顔を覗き込む。故郷にある食堂の、おばちゃんを思い出した。いつも太陽みたいにニコニコ笑って、美味い飯を食わせてくれる。ママンがいたらこんな感じなのかななんて、オレは思ったりもしたのだった。

 「ああ、泣くんじゃないよ」

 彼女はぎゅうっと、俺の頭を胸に抱え込むようにして抱きしめた。細かな染みのついたエプロンはソースでべたべたしていて、発酵中のパンのような柔らかい匂いがする。


 「泣いてねぇよ」

 「ああ、泣いちゃ駄目だよ。男なんだからね」

 彼女は澄んだ目でオレを見据えると頭を撫でた。いい返す前にもうレンジのほうに向かっている。オレは、こっそり瞼をこすった。情けない。

 「じゃあ、これ」

 「え。」

 壁際に小さな椅子を二つ運んできたおばちゃんは、片方の上に山盛りのトマトソースのペンネの鉢を置いた。

 「あんたの所為で焦げちゃったからね。ちゃんと食べるんだよ」

 「でもオレ……」

 「お昼食べてないんだろう? 食べなきゃまともに逃げることだってできやしないよ。」

 ペンネはちっとも焦げてなんかいなくて、こんな美味いもの、ずっと食べてなかった気すらした。俺は今度こそ泣きそうで、でも何とか堪えた。逃げるんじゃなくてやり返してやると決めたのだ。

 ペンネだってけっこうな量があったのに、出際にパンも切って手渡された。小さな紙袋は暖かくて、甘い匂いがする。貰えない、といっても全く引かない。じゃあ、と礼をいって受け取るといたずらっぽく笑った。

 「私はあんたに無理やり脅されたんだからね。仕方ないのさ」

 「ありがとう、ございます」

 「だから礼はいらないよ」

 でも他に、なんといえばいいのかも俺にはわからなかった。





 ドアを開けると、小さな子供が立っていた。オレより一つか、二つ下ぐらい。

 「ここの……」

 家の子か、ときこうとしてやめた。どう見ても違う。小さく躰を縮こませるので、またこの格好の所為で怯えさせたのかと思った。彼は身を翻すとアパートの中には入らず走り出した。まさかとは思う。だがおばちゃんの子じゃないのは明白だった。周囲を見渡しても、敵の姿は見えない。オレは意を決して後を追った。

 伸びきった赤毛を躍らせながら、子供は走る。曲がり角に当たるたびにきょろきょろして、不案内なのが丸わかりだ。足も遅い。俺は手を伸ばして肩を捕まえると、先が行き止まりの路地に引き込んだ。がくがく震えているのを押さえつける。

 掴んだ肩が心許ない。やっぱりあの家の子供ではない。まるで骨と皮だ。あのおばちゃんがこんな状態で子供を放っておくわけがなかった。というか、いくらここら辺が裕福な地域でないにしろ、この小さな街全体から見れば学校から金も流れ、特産品も特にない割には潤っているはずなのだ。ここまで痩せた子供など、今まで見かけたこともなかった。


 まさか、とは思う。いくらなんでも。不良のガキを集めているとはきいた。子供だっていくらでも手に負えないのはいる。オレはそんなのに囲まれて暮らしているのだ。いやになるほど知っている。道理も知らない残酷な奴ら。

 だがこんなにも小さな。あまりに幼すぎる。オレにだって捕まるような奴、何の役にもたたないじゃないか。諜報、掏り、買春。やらされそうな悪事を浮かべてどれもぴんとこなかった。こんな痩せこけた子供に。そこでやっとここまで痩せている理由に思い至って、体が震えた。

 「お前、あいつらの仲間か? そうだよな?」

 「……違……う」

 「嘘つけよ」

 躰を揺さぶる。揺れて、視線すらあわなかった。

 「薬、やってんのか?」

 「……」

 「……ちくしょ……」

 沈黙は肯定も同じだった。オレはやっぱりマフィアが嫌いだ。あいつらは違うと、親父はやっていないといいきれるほど知りもしない。知りたくない。紙袋を押し付けると、中身をしばらく眺めたあとオレに押し返してきた。おばちゃんだって、こいつに渡せというに違いないと思った。ひとかけら食って見せ、毒じゃねぇよ、といってみる。

 「食わなきゃ、オレを殺せもしないぜ?」

 押さえつけたまま地面に座らせた。恐る恐る食べ始めた奴を横目で眺めながら、オレは溜息を吐いた。さてこれからどうするか。

 「おまえさ、あいつらになんていわれてんの?」

 答えを期待していない問いが口についた。愚痴みたいな響きだ。さっきから殆どまともにしゃべっていない子供は、思考がはっきりしているのかも定かじゃなかった。

 「……あんたを、見つけたら……広場まで、つれて、来い、って」

 口をきいた。伸びきった赤毛に埋もれて表情は見えなかった。目的地は同じってわけだ。好都合だともいえる。騙そうとしているとは不思議と思えなかった。だが待ち伏せしているとなると、広場に入るのは問題外だ。一斉射撃の的。いずれリボーンが来ても、ばらけて潜んでいるとなると、対応に困るだろう。まず配置の把握だ。

 「逃げていいよ」

 きょとん、と大きな目を向けられる。顔を上げて、初めてその青い色が見えた。ああ、自分でも馬鹿なことをいってるとはわかっている。

 「逃げていいよ、おまえ。っていうか、あのファミリーからも逃げろ。ヴェントゥーラ、だっけ? ろくなもんじゃねぇぞ、あんなん。薬やめたいなら、多分どっか……施設とか、紹介してやれると思う。もし……」

 生き残れたら、といおうとしてやめた。ちょっとしたきっかけで今にもオレは弱気になってしまいそうだ。

 「あー、もし……、おまえにやめる気あるなら」

 無理だろうな、と思う。一度堕ちればとことんまで堕ちてしまうのが人間というものだ。薬なんてそう簡単にやめられるものじゃない。どうしてやることもできない。

 「……駄目なんだ、オレ。どうせ……どうせ生きてたって人殺しになるんだ、殺し屋に。最低だ……。薬やめたって」

 派手な音をさせて子供はひっくり返った。ああ、そういえば、自分から人を殴ったのは初めてだなあと、頭の裏で思う。どこかに冷静なオレがいて、それをすべて押し流すみたいにオレの中のたくさんの恐怖が叫んでた。ならねぇ、絶対にならねぇ。

 「馬鹿じゃねぇの。馬鹿じゃねぇの、おまえ。殺し屋なんてあんなのサディストかドSかサディストか愉快犯みたいな奴がなるもんだしおまえなんかがやれるはずないだろっ。おれだって……っ。……」

 はっときづいて、なんとか荒れた息を整えようとする。誰か聞きつけたかもしれない。移動しなければ。オレは立ち上がろうとして……ミスった。

 「いっ……てぇ」

 思い切り、額を石畳で擦った。頭を上げると、先に立ち上がった子供が手を差し伸べてくる。

 「何だよ。逃げろよ」

 「殺される」

 「武器は持ってるから」

 ナイフを。これしかリボーンは貸してくれなかった。どう考えても一人で勝てる装備じゃない。あいつを待つしかないのだ。

 「人質にしていい。あいつらの居場所知ってるから、……教える」

 「おまえが」

 人質として使えるのかとはきけなかった。躊躇いはするかもしれない。とにかく、見つからないことだ。そして場所を把握して裏手に回る。うし、とオレは頷いた。いくぞ、ナイフを向けると驚いた顔をした。これでやるつもりかって顔だ。そういうな、オレだってそう思ってる。












 不肖の弟子がやっと動き出した。

 「生意気だぞ。誰がサディストだ」

 しかも馬鹿だ。敵の手下に同情してどうするっていう話だ。だが自分でも理不尽だとは思うが、あのガキをあいつが見捨ててたら、家庭教師を辞めてたろうと思う。オレもあいつを見捨ててやった。あいつの親父やファミリーの奴らと一緒だ。強くなれと願っていても、いずれ失われるかもしれないやさしさや弱さを、惜しんでいる。

 距離を保って追いかける。幸いオレの背丈なら、身を隠す場所はいくらでもあるのだ。ディーノには危機感を煽るために適当なことをいったが、一応あいつの家庭教師だ。ほったらかすわけにもいかないので、二手に別れる振りをして後からついてきた。もう少し距離を置いているときには何人か始末もしている。

 「うわあああああぁああ」

 とんでもない声をあげながら、ディーノがガキと二人でゴミ用のポリバケツを黒服の頭におっかぶせた。さっき味をしめたんだろうやり方だ。そんなんじゃ人質になんぞ見えやしねーぞ、と苦笑する。転がるように加速していく方向を確認しながら、みっともなく藻掻く現役プロレスラーみたいな肉体の男をとりあえず気絶させ、懐を探った。割合いい銃を持っているのでありがたく使わせていただくことにする。

 「しかし、だいぶ動けるようになったな。えれーぞ」

 思わず呟く。まあ、この場にディーノはいない。本人は気づいていないようだが、動きは着実によくなっている。もともと機転はきくし、状況判断も速い。あのガキがヴェントゥーラの者だということもすぐに気づいた。

 「だがまだわかってないこともあるみてーだがな」

 あのガキをわざわざ連れてきた目的だ。多分、あわよくばガキの仕業に見せかけたいという考えがあるのだろう。あの特殊な学校は、ナイフや剣なら普通に持ち込んでいる馬鹿も多い。あまり積極的に撃ってこないのも、その所為だ。刺し傷で、隣に子供の死体でも転がっていればまず疑われない。攻撃される理由を与えたくないのは当然の心理だが、正直胸糞が悪くなる。しかしだとしても。いくらディーノといえど、あのガキにやられるタマでは無い。体格が違いすぎる。建前だからかまわないと見たのか、薬で特に忠実に仕込んであるということなのか。

 だがあのガキは裏切らないだろう。なぜだか確信があった。どうしようもなく人の心を掴む。本人が認めようと認めまいとそれは紛れもなくボスの資質だ。

 改めて追いかけると、二人は広場から三軒ほど手前の門柱の陰に身を潜めていた。几帳面に子供の首筋にナイフを当てて、人質にとっている振りをしている。ガキは恐る恐るといった感じで、ヴェントゥーラの居場所を指し示す。それによれば、オレにも流石に見えない場所にも、身を隠しているらしかった。

 ちっと舌打ちする。まさか時計台の上にまでいるとは思わなかった。例の見るからに重そうに重火器を背負っていた馬鹿だ。見晴らしがいいとはいえ飛距離があるから三下の銃なら弾が届かない。あそこに潜むことはまずあるまいと思っていたのだ。オレはともかく、ぎりぎりあいつらの姿までは目に入っている可能性がある。他の奴らにもあそこから指示を出しているのだろうか。

 「おい。へなちょこ」

 低い声で名を呼ぶ。ヴェントゥーラが思惑に固執している限りあの派手なバズーカをぶっ放すことはあるまい。銃も同様だ。しかし多勢に無勢。あいつらが焦れる前に、こっちから仕掛ける必要があった。

 「リボーン!! よかった。あいつらはあそこに潜んで……」

 「ああ。わかったぞ。よく頑張ったな、えれーぞ。ディーノ」

 へなちょこでもかわいい教え子は、途端に安心した顔をする。近寄らないように手で制して、取り出した銃は二つ。至近な奴から片付けることにして銃を構える。その時、ディーノがはっと後ろを振り向いた。情けない話だ。なぜだ、と疑問がまず先にたった。それを目の端で捕らえて的を変えるのと、ディーノがあのガキの上に身を躍らすのは、およそ同時だった。

















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