例えばどんな単純な謎掛けだって、答えそのものを知らなければどうにもならないのだ。食えないパンとは何かなんて単純な問いかけにすら、江戸時代の日本人には答えられなかったろう。もしかしたら、パンすら知らなかったかもしれない。オレはジャポーネの民俗には詳しくない。
そしていずれ文明開化の音がして、西洋の調理器具の知識がもたらされたとしても謎は解けなかった気がする。時間が与えられれば与えられるほど人は深読みをする。宗教哲学文学エトセトラ。まさかあんな単純な、くだらない親父ギャグだとは考えないのではないだろうか。まぁオレがどれだけ馬鹿だったか、って話なんだけど。
連休中の日本の高速は、何やらとんでもなく混んでいた。いや、正直いつでもどこかで渋滞しているようなイメージがあるが、それにしたってこれはひどい。さっきから一ミクロンだって動く気がないように見える前方の芥子色のミニバンを眺めながら、何度目かの溜息をついた。こういうのを宝の持ち腐れというのだろうか。時速三百五十だって出せるのにとエンツォが泣いている気がする。
車体を左に傾けてあそことあそこの隙間を通り過ぎれば前に進めるんじゃないかとか、考え始めている自分に気づいて首を振った。実際本国でドンパチでも始まれば、いくらでも荒っぽい運転はやらかしているのだが、ここは日本だ。面倒くさいことは避けたい。いや、今以上に面倒くさい状況は、なかなかないような気すらしてきているが。
どんどん思考が乱暴な方向に向かっていく。こういうとき、自分で考えているよりもオレはマフィアのボスなんて職業に向いているのかもしれないと思う。それかレーサーか。いいなぁ、レーサー。ぶっ飛ばしてぇ。
「……運転変わるか、ボス」
よく出来た部下が、助手席から声をかけた。さっきまでパソコンを広げて、メールしたり電話をかけたりと忙しなくしていたのだが、どうやら一段落ついたらしい。確かに今なら、車をとめて運転を替わっても何の問題もなさそうだ。気分転換にもならないし、大人しく助手席に座って持ち込んだ仕事を進めたほうがいい。答えを待たずに車の前を回ってくるので、礼をいった。
「恭弥との約束は夕方だろ? まだ充分時間あるじゃねぇか」
「う。まぁそうだけどよ。先にリボーンとこにも顔出さなきゃならねぇしな。」
暗に苛立っている自分を指摘されて狼狽えた。礼儀に厳しい元家庭教師を引き合いに出してみたが、誤魔化されてくれるような相手ではない。
しかし、今日が誕生日の想い人に、一秒でも早く会いたいというのは、当然の心理ではないだろうか。本当は前日から日を跨いで祝ってやりたかったが、仕事の都合でそれも叶わなかった。恭弥にはいっていないが、誕生日の日付を聞く前から、五日に日本に来るのは予定にあった。話を聞き、慌てて仕事を詰め込んで滞在日数を延ばしはしたが、スケジュールを早めることはできなかったのだ。
しかも仕事持ち込んできてるし。メールで送られてきた買収予定の企業の決算データを開きながら、つい嘆息すると、ロマーリオが横で臆面もなく笑った。データの内容が理由じゃないことは、すっかりばれているのだろう。いの一番に恋人の顔を見ておめでとうといってやりたかったなんて、そんな男の純情は口にしないことにした。子供の頃からの姿を知られている相手に今更格好つけるつもりもないが、それにしても最近は、青臭い姿を晒しすぎてる気がする。ボスとしてはあるまじき方向性の失態だ。
てか恋人。思考の中とはいえ、自分の単語の選択に苦笑した。確かに恋人だ。オレ自身はそう思っているし、どう見てもそうだと思う。だが恭弥はまだそれを認めてはいない。恭弥自身はわかっていなくても、彼の中の気持ちに気づかずにいられるほどオレは鈍くはないし、多少の場数は踏んできている。恭弥が気づかないのも、今までそういう相手がその世界に現れなかったからだと思えば喜びでもあった。戦いにしか興味がなかったような人が、オレのために時間を空け、躰を繋げることを許してくれる。手合わせがなくても会いたいと、いってくれた。最近は些細なことでも笑顔を見せるようになった。そんなひとつひとつのことでひどく満たされて、自分でも意外なほど焦りも苛立ちもなかった。
だが不安はある。それだけはどうしても拭えなかった。そうやって少しずつ変わっていくことを、恭弥が受け入れてくれるのかどうか。彼が自分の変化に戸惑った時に、たぶんオレは傍にいてやれない。気づかないのではなく気づきたくないのではと思いもした。だが俺の中に歴然とあるその不安の理由を、今の恭弥にぶつけるのは間違っているのだろう。いずれは我慢できなくなるにせよ、もう少しは待ってやりたい。
「ボス」
「ん。……ああ。何だ?」
気づけば車は動き出している。ロマーリオは几帳面に前方に目を据えたまま、コンソールボックスを乱暴に探ると中身を押しつけてくる。アイマスクだ。
「寝ろよ、ボス。動き出したっつってもまだ多少はかかる。疲れがたまってんだろ。」
当惑して部下の顔を見た。オレが疲れているってことは、ロマーリオも同様疲れているということだ。ここしばらくはまともに休みをやれていない。仕事についていえば、まぁ確認は明日でもいいとはいえ、疲労の溜まった部下を放って自分ばかりが休むわけにはいかない。
「お前も寝てねーだろ」
「オレは寝る。今日は存分に寝るぞ。だからボスも今のうちに寝ておいてくれ」
いいたいことはわかるが、ちょっとこうあからさますぎやしませんかロマーリオさん。
「いや、まぁ、なぁ……」
堪えきれない、といった感じでロマーリオは笑っている。確かに今日のうちに寝る気はないし、日付が変わってもどうだろうか。他人の所為にするつもりはないが、久しぶりに会う恭弥はいつもちょっと扇情的過ぎる。我慢できるほど老成しているわけでもなかった。
「オレにナビが必要に見えるか? ボス」
「わかった。じゃあできるだけ飛ばしてくれ」
「どうやって? いくらなんでも無茶だろ」
「できるだけっつたろ」
そうはいっても、前方のミニバンを追い越すべくロマーリオは右にハンドルを切った。律儀な男なのだ。俺は素直にお言葉に甘えることにして、パソコンを畳んだ。
「リボーンさんとこの訪問をすぐ終わらすなら、玄関先にでも車を止めておくがな。」
アイマスクを広げる手を止めて、ついまじまじと部下を見やる。いうことが時々オレより大物だ。例え重要な用件がないときでも挨拶を適当に繰り上げるなんてこと、オレにはできやしない。恐ろしい。そして忙しい時に限って、あいつの話はわざとらしく長い。
「いや、ツナの様子も見てぇしな。たいした距離じゃないし並盛中には歩いて行くさ。お前は先にホテルに向かってろ」
休んでろ、とはいわない。警護に連れてきた人数が今回は少ないから瑣末な用事もあるだろうし、何よりこういうことはいって聞くような相手じゃない。だが、最後までオレの予定につき合わせるよりはましだろう。それにこのまま一般道まで混んでいた場合、常宿のホテルまで車で移動ということになれば恭弥がどれだけ苛立ちを募らせるかは予想がついた。
「あ、着いたら悪いんだが、物が届いているか確認しておいてくれるか?」
個人的なことなのでつい口調が低姿勢になる。それでなくても今回の来日では随分無理をさせた。
「それは構わねぇが……ボス」
「んー。何だ?」
「あれを本当に恭弥が喜ぶとは、とても思えねぇんだが」
けっこう本気で顔を顰めている。なんだかんだでロマーリオは恭弥に過保護だから、心配しているのだろう。昔から厳つい顔をしてガキには甘かったし、まあ多分それだけじゃない。修行中に寝食をともにして情が移ったのだろう。まるで自分の子どもみたいに思っている節があった。
「大丈夫か? ボス」
心配されているのはオレもだったらしい。手を振って話を止めさせる。
「大丈夫だ。あれはオレの趣味だ」
「……そうか」
片手で運転を続行しながら、眼鏡をずらして眉間の辺りを揉んでいる。長時間のフライトと運転でだいぶ疲れているようだ。今度まとめて休暇をやらないとな、などと考えながらマスクもつけずにオレは眠りに落ちていった。
数週間ぶりに会った元家庭教師はなんていうか相変わらずだった。トレードマークの帽子は脱いで、赤い、どうやら涎掛けらしいものをつけてはいたが、そういうのも込みで相変わらずだといえる。縁側でエスプレッソを飲んでいる横に座って、うちのシマの話やら、ボンゴレについて漏れ知っている話をする。リボーンはボンゴレというよりはフリーの殺し屋だし、突っ込んで聞かれてもあらかた腹蔵なく答えられるくらいには、今のうちを取り巻く状況は平和だ。まああくまで今は、だが。
背後ではチビ達が駆け回っている気配がして、ツナがそれをたしなめている。この家はいつ来ても家族のように歓待してくれて、オレはどうにも癒されてしまう。
「全く、しょっちゅう日本にきてんじゃねーぞ」
あ、そういう奴ばかりでもない。
「オレに会いてーのはわかるが、ちょっとウゼーぞ。暇してねーできりきり働け」
「な……! 今回は違うが、いつもは仕事で来てるっていってるだろ。大体暇じゃねーよ」
お前に会いたくてわざわざ日本に来ているわけではない、とはいえなかった。じゃあ誰に会いに来ているかといえば、もちろんかわいい愛弟子に会いに来ているのだ。会いたいというだけで海を渡れるほど自由な立場でもなくて、仕事を理由にしてはいるが、しょっちゅう自分の中の順位が入れ替わっている自覚はある。
狼狽して、つまらない台詞を吐いてしまった。ツナに聞かれてしまったかと振り返ったが、はしゃぎまわっているランボに翻弄されているようで安心する。いつも忙しくしているマフィアのボスなんかより、いつだって手を貸してやれる頼れる兄貴分でいたかった。だが、とんでもなく高くハードルを設置する元家庭教師に相対すると、俺だってちゃんとやっていると無駄に見栄を張りたくなる。ガキの頃に戻ったみたいだ。
「そうか、今日は五月五日か」
情けない自分に軽くへこんでいると、リボーンがそう呟いた。恭弥の誕生日を知っていたのかと顔を上げると、どうやらそうではないらしい、珍しく神妙な顔をしてこちらを見ている。
「どうしたんだ? 今更。思い切り子どもの日ですって格好してるじゃねーか」
「まーな。ちょっと懐かしーなって思ったんだぞ」
カップを置いて立ち上がると、リボーンはものすごい跳躍で塀の上に飛び乗った。
「今日は武器を手放すんじゃねーぞ、馬鹿弟子」
「だから何いってんだよ、今更。つーか、リボーン。お前全部わかってたんだな」
確信を持って問いかけると、鼻で笑われた。
「あたりまえだぞ。教えてやってもよかったんだが、先のことはわからないほーが面白いかと思ってな」
もう一度高く飛び上がると、リボーンは敷地の外に出て行った。オレは頭を抱える。薄々と、いやはっきりとわかっていたことだが性格が悪い。
時刻を確かめて、出発するかと、と考える。まだ時間に余裕はあるが、リボーンはいなくなったことだし、ゆっくり恭弥の仕事ぶりを眺めるのも悪くはない。とんでもなく呆れたような顔をして、それでもきっと怒りはしないだろう。
「ディーノさん、送りますよ」
ツナに挨拶をしておくかと目をやると、真剣な面持ちでそう返された。
「ランボさんも。ランボさんもいく」
騒ぎ出すチビ達に飴玉を慣れた様子で手渡して、家で待っていろといい含める。世話焼きも板についたものだ。
「いやでもツナ。俺は駅前のホテルに向かうわけじゃなくてだな」
ついでに商店街にでもいこうと考えているなら方向が違う。そう思って手を振ると、わかってますよ、と返された。
「学校にいくんですよね。途中まででいいですから」
「そっか。サンキューな、ツナ」
他人に聞かれたくない相談ごとでもあるのかもしれない。悩み多き年頃の弟弟子の肩をたたくと、漸く強張っていた頬を綻ばせた。