苛ついた、毛羽立った感情を自覚する。強張った手指から、急に居心地の悪くなったアームチェアから、先程上の空で切った電話の自分の対応から。平静を装おうとはしたが途中からそんな心構えなどどこかへいってしまった。

 さぞや不審に思われたことだろう。あの若造に。たいした苦労も知らずに粋がっている馬鹿など自分のいる世界には腐るほどいる。いや多分、この世界はどこにいってもそんな馬鹿にうんざりするように出来ているのだろう。なんといってもその卵を無鉄砲な女と無思慮な男が毎日量産してくださっているのだ。
 だが件の青二才がそれなりの修羅場を掻い潜ってきたことは知っている。こんな業界で早くに親をなくしてそれでも名を上げるには苦労が多かったろうと予想はついた。しかしどうしても癇に障るのは如何にも強気なその態度、それとも無駄に人好きのする容姿とそれに伴う自信だろうか。いいがかりなのは自覚している。しかも本当に、まだ右も左も知らぬ年の頃から、苦労してのし上がってきたのだ。まだ二十代、息子と大して変わらない、と思っていたのだが、同い年だとははじめて聞いた。やはりそうだったか、と苦い思いで受け止める。比べればどうしようもないと断じざるをえない不肖の息子、愛情など欠片も残ってはいないとむしろそういいきってしまいたいのに、情けをかけずにいられない弱い自分を露にする存在。
「ここには電話をかけるなといっておいた筈だが」
 耳障りな機械音が携帯の着信を知らせる。今一番声を聞きたくない、それでもプライベートの番号を教えている男の名前を画面は映し出していて、不機嫌な声音を隠すことも出来なかった。
「小さな親切って奴だよ。今オレか、あんたか、嗅ぎまわっている奴がいる」
「おまえではないのか? 私は清廉潔白だよ」
「へえ。向こうもそう思ってくれているといいな? 清廉潔白なマフィア。今流行ってるギャグか?」
 甲高い笑い声がする。こんなところばかり自分に似なくてもよいというような。
「私が何をしたというんだ」
「何をしなかったというんだ? あんたはオレに借りがある。それともあれは慈善行為だったとでもいうつもりか?」
 ある意味では確かに。だがそれだけでもなく、許されるはずもない。しかしそれよりも許されないのは、ファミリーを束ねるものとして許されないのは、未だに性懲りもなく自分の中にある情だ。
「どんなやつだ?」
「警察かもな」
「それはない」
「へえ? それはないのか」
 愉快そうな声で確認されて眉をしかめる。図に乗らせるようなことを知らせるつもりはなかった。だが今更だ。指定した車は検問を通すように、自治を重んじる自分のファミリーの領地は無為に関わらないように。要求を通すためにどれだけ金を積んだことか。自分の才覚だけで生きているわけではないことはもう自覚すべきだ。
「キャバッローネの奴だ。多分な」
「多分?」
「ああ多分だ。それで充分じゃないのか? あんたにとって理由は。尾行してきた車があって、多分そいつの一存だ。会った時にずいぶん睨みつけてきたし車種も確認した。あのへなちょこは気づいちゃいねぇ」
 男の声に含む虚勢に気づいて溜め息をついた。その希望的観測を信じたくないわけではないのだが。
「わかった。すぐに始末させよう。キャバッローネには間諜がいる」








 
すっかり肌寒くなって、温かいスープが嬉しい季節になった。くつくつと音をたてるスペルト小麦のスープ。弱火にかかっている寸胴鍋を見遣ってリゴベルト・ベネデッティは満足気な溜め息をついた。セロリに人参に玉葱に、そしてスペルト小麦。いい年して欠食児童のような食欲を誇っているマフィアの戦闘員たちの嗜好は脂っこいものに偏っていて、どんなに味付けに気を使ってもサラダや野菜の煮込みは見向きもされない。だが所詮はイタリア人、マザコンの集団だ。よく煮込まれた野菜のスープは肉のにの字もしないが、家庭的な味付けの所為かいつだって捌けは良かった。
 その分メインは肉で。考えてリゴベルトは唇を緩めた。今日ばかりはいつものようにファミリーのメンバーの好みを鑑みてメニューを決めたとはいいにくい。好みの煩いボスに対しても同様だった。いや、まあ、ソースだけは上司の好きなトマトとマッシュルームのものを作っておこうか。柔らかい仔牛肉を叩きながらそう思いつく。ホースラディッシュを効かした和風のものと、トマトソースと二種類。自らを追い詰めている気がしないでもないが、まだまだ時間の余裕はある。
 ボスが今よりも頻繁に日本に渡っていた頃は、何度も随行したものだった。もうその頃は今の生活を念頭においていたのか、料亭で短期に修行を受けたり、合羽橋で調理器具を揃えたりが任務だった。異国でホテル住まいの上司についていても料理人の自分がなんの役に立つわけでもなく、仕事といえば他には、美味いと評判で個室のある和食の店を見つけてくるくらいだった。まあ、それが結構大変だったのだが。
 和食の世界は予想以上に奥深く、遠いイタリアでその味を再現しようというのは果てしなく困難な仕事だがそれ故やりがいがあった。幸い金に糸目をつけず、乾物やら調味料やらを個人輸入することが許されている。それに調味料の中にはイタリア料理に還元できるものも少なくない。調理器具、特に包丁の類は自国のものよりも繊細で切れ味も良く、紙のように薄く切った鯛のカルパッチョはターゲットを頷かせるまで腕を上げた。だが日本旅行中にもう一つ興味を持ったメニューがある。日本ではなく、イタリアよりも僅かばかり北に位置する国で親しまれている料理だ。
 優良企業とは言いがたい勤め先だが、それでも有難いことに福祉の類は充実している。もっと地位が上がれば話も違うのだろうが、自分が勤めるような部門ではヴァカンスの時期ともなれば長期の休みが取れ、というか本社のカフェテリアの責任者などと交代で強制的に取らされるのが恒例となっている。家族がいるわけでもなく大して楽しみというわけでもないが、暇をもて余すよりはと毎年旅行に出ることにしていた。地元料理やミシュランなどで星のついたレストランを回るのは趣味と実益を兼ねている。さして遠くもない国、訪れた回数は多いがここまではまるほどフリカデレが美味い料理だと思っていたわけではなかった。挽肉と玉葱とパン粉を捏ねて焼いただけの、如何にも労働者階級向けの料理だ。
 だが要求に応えようと試行錯誤を続けるうちに、すっかり熱中するようになった。日本人の好みに合うように大きくタネを纏めたフリカデレ。いや、ここは恩人である少年に倣って日本風にハンバーグ、と呼ぼうか。新しい世界に目を開かせてくれた子どもを喜ばそうと、またなれないイタリア料理で食欲を失わせないようにと彼が渡伊したばかりの頃はかなり気を使ったものだ。そうこうしているうちに少年はもう、青年といっていい年頃になり、だが相変わらず小さな子どものようにリゴベルトの目には映る。そして自分なりのハンバーグのレシピもほぼ完成に近づいたといっていいのではないかと思う。いや、まだまだだろうか。肉の味が大きく作用するだけに、仕入れた肉の状態を見分けて挽き方や捏ね方を調節していくことになる。その判断が難しい。こちらで得られる赤身の多い肉では硬く、しかしだからといって和牛のような脂肪の多い肉では肉本来の味が感じられない。柔らかい仔牛肉に牛タンを荒く刻んだものを混ぜるのがリゴベルト流だった。隠し味にアンチョビソースを少し。中にソテーしたフォアグラを仕込んだものも彼は喜ぶ。玉葱を狐色になるまで炒めて、ビールで苦味をたすのもポイントだ。リゴベルトはシンクのほうについ目をやって、眉を顰める。新入りはまだ玉葱の下処理に追われていて、だがもう炒め終わっていてもいい頃合だ。準責任者のカルロは無花果を収穫しに庭に出たっきりで、いやそうでなくてもそろそろ自分がいって聞かせねばならないだろう。気が利かない上に作業が雑で、正直腹立たしく感じられる場面も今まで多々あったのだが、カルロも自分もどうにも偉そうに説教を垂れるのが苦手だった。前職を考えれば、いや調理場なんてものは元々体育会系な世界だ。自分にしてもこの職場に入ったばかりの頃は上の者に何度もどやされた。きつくいわねばならないのはわかりきっているのに、これはもう性格的なものなのか、どうにも気がすすまなかった。
「その調子じゃまにあわねーぞ。さっさとやってくれ」
 
遠くから声をかけて、これでは甘いとは思うのだがそれでも少しは動く手が早まった。だがまたしばらくすれば、元に戻るかもしれない。怒鳴りつけてしまえば簡単で、だがそうしたが最後、自分がとめられない気がした。それに、経験が足りないということは、もうどうしたって仕方がないことなのだ。比べても余程不器用だった自分の若かりし頃を記憶しているだけに、きついことはいいにくい。
 
全く自分は果報者だ。このような生涯をおくることになろうとは若い頃どうやって想像したものだろう。こんな歳になって興味深いメニューがいくつも与えられた。職場の連中も、まあいろいろあっても気のいい奴らばかりなのだ。だから我儘だ、と思う。こんな風に感じるのは贅沢だ。身の程を知るべきなのだ。だが業というべきか、欲望はとどまるところを知らない。リゴベルトは調理場にあるうちで一番大きなボウルを取り出すと、軽く背をそらした。一番重要な作業だ。少なくともこうして肉を捏ねている間は忘れられるかもしれない。
 食堂のほうで物音がする。奥まった位置だが何とか首を伸ばして確認すると、見慣れぬ錆色の頭の大男が入ってきたところだった。なんといっても職場の環境が環境なので咄嗟に緊張して、だがすぐに総務に入ったばかりの男だろうとあたりをつける。雲雀が使っているときいて興味はあった。街の濃い味付けのトラットリアではなかなか舌に合わないらしく、雲雀は時間がずれ込むのはしょっちゅうだが、それでもかなりの頻度でわがメニューを味わってくれている。好物が出る時はわざわざ知らせなくても必ずといっていいほど屋敷に戻っているから、もしかしたら野性の勘のようなものが備わっているのかもしれない。そして大方は二階の別室でボスと共に、ということになるわけだが、雲雀の部下はきっと食堂で食事を取っている筈だ。だが飯時はこちらとしたら戦場だ。今の今まで顔を確認することが出来なかった。
「よう。おまえさん恭弥の部下か?」
 声をかけると軽く頭を下げてカウンターに近づいてくる。戸惑ったような表情に逆に好感を持ったのは、こんな環境ですっかり揉まれてはいるが自分も本当は人付き合いが苦手なタイプだからかもしれない。
「ええ。昼飯を食いっぱぐれちまって。パンか何か残ってませんか?」
「そいつは残念だったな。なかなかうまいスズキのグリルだったのに。フォカッチャが残ってるはずだ。それとハムと……スープもそろそろ火が通る」
「ああ、やりますよ」
 いったものの、香味野菜をまだ刻んでいないし手は肉で汚れている。ちょっと待ってろと身振りで制すと、床を水で流す時用のサンダルを突っかけて男は調理場まで入ってきた。洗ってざるにあげてあったパセリを取ると手際よく刻み始める。
「夕食で使いますよね? 全部刻んじゃいますよ」
「ああ、悪い。手際がいいな。スカウトしたいくらいだぜ」
 バタフライナイフは使い慣れていても、包丁など持ったこともないような男たちばかりの職場の筈だ。驚いてみている先で、器用というよりはやり慣れているとわかる動作で、パセリは粗微塵にされていく。
「料理が趣味なのか?」
「父子家庭だったので不可抗力で。歳の離れた、七つ下の妹の世話をしていたので必然的に」
「へえ……そりゃかわいい盛りだろう。兄としちゃ心配なんじゃないか?」
 顔が兄と似ていなければ。とはいえ、顔の造作など問題ではなく、かわいくて心配なものなのだ。少なくとも自分はそうだった。
「どうかな。男を作って出て行っちまいました。かわいいアンジェ。アンジェリーナ。俺はいつもそう呼んでた。俺と同じ赤毛で、でも贔屓目かもしれないけど母親似で美人で。だけど馬鹿みたいな青臭い正義感に駆られて、いやただ単に酒びたりの親父にうんざりしただけかも知れねぇけど、学校を出るとすぐに俺が先に家を出たんです」
「悔しいのはわかるが、恋人といるなら幸せなんだろうよ」
 ぬるついた手を洗い終わりエスプレッソマシーンのスイッチを入れてから、棚からフォカッチャとグリッシーニを取り出す。みるとパセリはもうボールに纏められていた。
「近所の連中の話じゃ、クラシックをオーディオでけたたましく鳴らして、高級車に乗ってる男だったそうで」
「そりゃまた。癇に障るやつだなあ」
 小さく笑うと男はたっぷり注いでやったスープ皿を受け取った。わかりきったことだが例えそれでも、兄としたら口を出さないほうがいいのだ。お節介だがいってやるべきか、躊躇った。わかっていてもわかりたくないことも、世の中にはあるものだ。
「マウリツィオ。ここにいたの」
 開け放したままだった裏口のドアから、雲雀が顔を出した。
「ええ、どうしました?」
「恭弥も昼を食わなかったのか? スープくらいしかないが」
「それはいいよ。さっきタルトを食べたから」
 部下と同じく食事を取らなかったのかと声をかけると、雲雀が僅かに表情を緩める。ここまで餌付けするのにかかった日数を思うと嬉しくないとはいえない。そういえば今日の茶の時間の担当はカルロで、焼きたての洋梨のタルトとコーヒーを執務室に運んでいっていた。同じようなことを企んでる人のことを考えてつい笑った。
「なに?」
「いや、なんでもねぇよ」
 この暴君が食事をとる時間を与えてくれるかどうか。せめてあとで食べる時間が取れるかもと、リゴベルトはパンを油紙で包もうと棚に向かう。
「そう。マウリツィオ、すぐ準備して。今ニュースで」
 眉を顰める。やはり人の性はそうそう変わらないものらしい。欲望と同じように。棚の近くに干されている包丁を手に取ると、リゴベルトは溜め息をついた。








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