ドアを開けた途端、雷鳴の轟くような音とともに落下してきた物を認識するや否や、イワンは心の底からこれまでの行動を後悔した。背後ではっと息を呑む音がする。振り返ると雲雀恭弥が目を丸くして固まっている。そりゃそうだ。自分だってその驚きは十二分に理解できるものである。そして、正面をまた見れば、遺憾ながら前述の落下物は消え去っていてくれたりなどせず、未だに床に散らばっていた。一、二、三、四………全部で十枚のDVDである。より厳密に説明するならエロDVDである。そしてそれがしまわれていたのはボスの、自分の上司のクローゼットである。イワンは大きく息を吐いた。
 夏の日の午後のことだ。我がボスは休暇の真っ最中であるのだが、ちょっとした要件で執務室で打ち合わせをしている。イワン自身はその案件に深くかかわってはいないため、自分の職務を遂行すべく………そしてタバコの一本も吸うべく、テラスに沿って設えられた渡り廊下を歩いていて、そこでボスの新妻である雲雀恭弥の姿を見かけたわけである。彼は見慣れた、黒の七分袖のボタンダウンシャツにコットンパンツを着用しており、イワンは思わず眉を顰めた。彼の服装、というか色の趣味がモノクロ傾向に偏っていることに対しては、まあちょっと子どもらしくないんじゃないかと思わないでもないが、自分の仕事着を棚に上げてあれこれいうつもりはない。そうではなく、ここ数日中でも群を抜いて気温が高く日差しが強い日に、ちょっと厚着すぎはしないかとそう思ったのだ。どうやら彼は庭を散歩するつもりのようだし、せめて帽子くらいはかぶって出たほうがいいに決まっている。
 暑くはないのかと思わず声をかければ、暑いに決まっているだろといやにぶんむくれた声で返答が返ってきた。どうやら、こちらに来てから日も浅く、また例年になく涼しい日が続いたこともあって、薄地の服を持っていないらしい。ボスの子どもの頃の(というと見るからにムスっとした表情を浮かべたので「ボスがタイトな服装を好んでいた頃の」と表現を新たにした)服があるだろうから着ればいいというと、さすが慎ましい日本人である。勝手にクローゼットを開けることに難色を示したので、じゃあ自分が探してやろうと、そうイワンはつい胸を叩いたわけだ。
 普通に考えれば、ボスの妻である雲雀よりも、部下であるイワンがクローゼットを漁る方が、プライヴァシー的に大問題であると思われても文句はいえない。だが、キャバッローネはそういう、普通の、格式ばったファミリーではないのである。ボスの居住するこの城は、同時にキャバッローネの本部であり、多くの構成員が寝泊りをしている。すぐ近くに自分の家を持っている者も、仕事が慌ただしくなれば泊りこむことも珍しくないし、警備上の必要性もあって、住みこんでいる者もいる。そんなこともあって週に二回、身分の上下に関わらず洗濯物は全て回収されそれ専門の雇い人によって洗われ乾かされプレスされて、またそれ専門の雇い人によって各々のクローゼットに放りこまれるという、そういう手順になっている。イワンも所帯を持つ前はもちろんのこと、今も、繁忙期などのためにありがたくも自分の部屋を与えられているので、この制度にはずいぶん世話になっている。正直、仕事があろうとなかろうと、パンツを洗うのも面倒くさい気分のことは間々あるのだ。
 そして、このような制度があるからして、キャバッローネの人員は全員、シャツからパンツまで自分の名前をフルネームで書きこんでいるのだし、そこまでしても他人の洗濯物が紛れ込んでくる、などということもある。よくあるミスだ。そしてそれに気づいたとき、いい歳の男は殊更に騒ぎ立てたりなぞしない。気づかずに着てしまった後ならばもう一度回収させて今度は持ち主に辿りつくよう祈ってやるだけだし、着る前だったならば本人に直接ぽいと手渡すか、そうでなければ………多分これが多くの人間が選択する方法だろうが、部屋に勝手に入ってクローゼットに放りこんでやるだけのことである。実際イワンは自分のクローゼットの中で、敬愛するボスのパンツを見つけたこともあるし、その時だってちょっと前まで転んだとか狼に追っかけられただとかでぴーぴー泣いてたのに坊ちゃんも派手なパンツを履くようになったなぁと感慨に耽っただけで、すぐに持ち主のクローゼットに移動させてやったのだ。郷に入れば郷に従え。いずれは雲雀にもこのような大らかな服装管理を理解していただきたいものだが、群れるのが嫌いな少年にはそう簡単なことではないだろう。集団行動を嫌っているわけでもない我が娘すら、自分の洗濯物とイワンのパンツを一緒に洗うことをよしとしない傾向があるほどなのだ。
 そんなわけでイワンは服を探してやろうと買って出たのだった。それにボスは随分な着道楽なうえ整理整頓が子どもの頃から苦手だし、しかもクローゼットはボスの部屋であるからしてとんでもなく大きい。一人で探し出すのは骨が折れるだろうと考えたのもあった。だがドアを開けた途端、イワンはそんな自分の優しさや気配りをとんでもなく後悔したのだった。
「えー………と、その、な。恭弥」
「………………」
 そういえば雲雀はイタリア語が殆どわからないんじゃないかと思いつき、イワンはおそるおそる振り向いた。そしてすぐに視線を戻し、さりげなく引き出しを開け閉めして、なんとか探し物をしておりますというジェスチャーをする。いつだったか来日した際に観劇しそしてさっぱり理解できなかった「能」で使われるマスクのような表情を少年は浮かべていた。超怖い。そりゃタイトルが読めずとも、服がはだけて胸も露わなお嬢さんの写真にけばけばしい色使い、どんな作品かはわからない筈もない。
 結婚前にこういうものは処分しておけよボス、と上司を叱りつけてやりたい気分である。もしこの場にいたならば頭を二度程思いきりはたいてやったろう。実際イワンが結婚した際そのような内容の映像記録媒体を(ちなみにイワンの頃はまだビデオテープであった)処分したかと問われれば答えは否である。あの頃住んでいたひどく手狭なアパルタメントで、あんなものをこっそり視聴するチャンスは全くないに等しかったにも関わらず、感傷だとか倹約の精神だとかあれやこれやから、捨てるのも友人に譲ってやるのもひどく惜しく感じられたのだ。だが、もし見つかったとしても我が妻は呆れたように笑って、それでおしまい、大きな争いの種にはならなかった気がする。妻はイワンの知る限り最高の女性で、聖アグネスもかくやと思われる程心清らかな人ではあるが、二十代の殆ど全てをダンスホールのバーテンダー(イワンは当時そこの経営を任されていたのだ)として過ごしてきた女性の常として、男性に如何な幻想も抱いてはいないし、過度なキリスト教的貞節も………つまり性的な眼で異性を見ただけで姦淫にあたるだとかそういうやつだ………求めてはいない。そうだ、とイワンは頷いた。男性に幻想を抱いていないという点では、雲雀だってそう変わらない筈だ。なんといっても彼は、幼いとはいえ男の子なのである。
「あの、な。あんま深刻に捉えるな。な?」
 つとめて何気なくアドヴァイスしながら、イワンは引き出しから麻のシャツを発掘しとげた。少し大きい気もしないでもないが、むしろ風通しがいいかもしれない。後は帽子だ。正直もうこれで終わらせてしまいたいが、あんな日差しの中、この子どもを外でふらふらさせるわけにはいかない。
「………」
「たいした問題じゃねぇ。こういうのはな、大人の男にはどうしたって必要とする気分の時があるんだよ」
「………………わかってるよ」
 わかってねぇ、とイワンは直感した。日本語の習得はまだまだ道半ばであるとはいえ、彼の応答が理解できない程未熟ではない。そういった言語云々の問題や、ボディランゲージの文化による違いを超えて、彼は雲雀恭弥はさっぱりまったく納得してはいないと感じたのである。そうだ。なんといっても彼はまだ十代の繊細で傷つきやすい………考えるだけでも違和感があるがとにかくそんな少年なのであり、そして風紀委員長で、つまりどういった活動をしているのかイワンにはいまださっぱり理解できてはいないのだが、とりあえず風紀を守るため働いている筈だ。そして、そういう倫理観の厳しい人たちは、AVにはあまり寛容ではないのだろう。
「そういうのは大人の男にはどうしようもないんだ、な? 別におまえがどうこうってわけじゃねぇ」
「………わかってる」
 雲雀恭弥は憤慨していた。
 この、キャバッローネファミリーの、ボスをはじめとした全員が自分を子どもとして扱う態度にだ。もちろん雲雀はディーノの子どもになったのだから、子どもとして扱われるのは当然である。問題としているのは、まるで幼い子ども相手のように接するということである。今朝だってバッサータとかいうポタージュみたいなスープがちょっと熱いからといって、ディーノは雲雀が食べる一口ずつに息を吹きかけようとした。口論の結果、ディーノが食べる分は雲雀が冷ましてやるということで決着を見たのではあるが、やってみてわかったのだが、二人交互に掬って冷まして相手の口の中に注いでやる、という作業はとんでもなく時間がかかる。しかも、最後の方は冷まさなくても充分ぬるかった、というだけではなく、あーん、といわれて口を大きく開けてみせるのは、例えば何もないところで転んでも涎を垂らして寝ていても見惚れる程ハンサムな我が父でもなければ、とんでもなく馬鹿みたいな気分になるものである。つまりは、恥をかいたのは自分だけだ。それに加えて、今度はこの部下の態度である。きっと子どもの自分にはわからないだろうといっているのだ。
 だが雲雀だってこういったDVDが性衝動を解消する側面があることは理解している。きちんとした統計があるわけではないが、性犯罪の抑制効果があるという説もあり、つまり毒をもって毒を制すとかそんな感じだ。雲雀自身は買ったことも借りたこともましてや観たこともないが、頭から規制する必要はないと考えている。だからディーノがそういったいたものを観ていたからといって、子どもみたいにあれこれ目くじらを立てるつもりなんてないし、そりゃちょっとびっくりしたし、いまでもどきどきしてるし、後で顔をあわせたとき酷く気まずいなというか、何といって声をかければいいんだろうなんて思ったりもしているけれども、取りあえずはさっぱり気づかなかったふりをしてやるつもりだ。息子としての優しさである。
 それに、と雲雀は考えた。物ごとには何にだっていい側面があるものだ。こういった物を所有しているということはつまりは、ディーノには決まった相手も、密かに想いを寄せている相手もいないということである。そう、とんでもなく風紀に厳しい委員長は結論づけた。
 それは密かに雲雀がずっと不安に思っていたことだったのだ。ディーノは独身で、結婚したこともない。自分という息子がいるといっても、ある日いきなり恭弥の新しいお母さんだぞだとかなんとかいって、女性を連れてこないとも限らないのだ。そして今の自分はとんでもなく現状に満足していて、そんな変化を受け入れられる自信がない。
「別に気にしてないよ」
 如何にも不審げな様子の父親の部下にそういってやる。雲雀にだってわかっている。全く根拠のない不安だ。ただディーノが容姿端麗で、息子になってからわかったことだが優しく穏やかでサービス精神旺盛で真面目な人であるからといって、さあ今すぐ誰ぞと結婚しましょうなんて話になるわけがない。そんなこともわからない程子どもじゃないのだ。
「いやな、その………気にしてないならいいんだけどな」
 気にしてない筈がない。がちゃがちゃと所在なげにハンガーを動かしている我がボスの妻は、見るからに頬を強張らせていて、イワンはその内心を同情をもって推し量った。散乱したDVDはパッケージの写真から推測するところ、男女の睦みあいをテーマにしたものだ。それも当然でディーノの幼い頃からイワンは知っているが、ほんの数か月前まで、彼の興味の対象はうら若き女性であった筈だ。別に今日にいたるまで、彼の所蔵するところのDVDは把握していなかったし、他の雑誌や何やらにしても同様だが、日々親しく交わっていれば、そんなことは推測できる事柄である。
 だがディーノは現在は妻であり、その当時も今も弟子である少年と出会ったとき、これはその場にいたロマーリオから得た情報であるのだが、声を震わせ、まるでキリストの降臨を目にした罪人の如くに喜びを露わにしながら「おまえが雲雀恭弥だな」とそう呼びかけたのだ。それからは修行の旅の間中、幼い弟子の一挙一動に一喜一憂して、自分の靴一つ磨いたこともない人があれやこれやと細かく世話を焼いてもいたので、部下一同ああこれはと、打ち明けられずとも密かに納得してもいたのだ。そしてしばらくして、雲雀が修行の旅で家に帰らずとも親に連絡をいれていないようだとイワンは相談された。確かに恋する男としては、その相手の親御さんに嫌われるのは何をもってしても避けたいところだろう。そんなわけでイワンは雲雀の家庭環境について調べてやり、それはなんというか、その、かなり同情に値するものであったのだが、報告した途端ディーノは真っ青な顔をしてしばらく部屋にこもった挙句、日本にいた部下たち全員の前で「恭弥と家族になろうと思う」ときた。「気が早ぇよボス!」と内心皆で突っ込んだところだ。もっとこう、資金援助とか住居を確保してやるとか、フォローの方法はいくらでもある筈で、それを飛び越えてプロポーズなんてさっぱりまったくうまくいく気がしなかったのだ。少なくともそういう提案は、お付き合いして相手の意思を確認してからすべきものではなかろうか。そんなわけでその日の飲み会では、ボスのけなげな恋に同情して男泣きに泣く奴が続出するありさまだったのだが、これこそがボスがボスたる所以ということなのかどうなのか、なんでだか二人は上手くいってしまった。多分さっぱり全くそういうようには見えなかったけれども、雲雀の方もボスに惚れていたのだろう。色恋になぞさっぱり興味がないように見える少年ではあるが、結婚してこの方仲睦まじくやっているようである。今朝なぞこの、愛想なぞどこを探しても見つからないような子どもが、「はいあーん」とボスに飯を食わせてやっている場面に運悪く出くわしてしまって、イワンとしたら心臓がひっくり返る程驚いたのである。
 そんなわけで幸せな新婚さんであるとはいえ、夫の所蔵するAVを見つけたらやはり新妻はショックを受けるものなのだろうとイワンは思う。自分の妻とは状況が違うのだ。彼女ならさっぱり笑って、趣味が悪いわね私の方がよっぽど美人だし胸も大きいじゃないと、あの頃ならともかく今現在は後半のみしかイワン以外は頷かないであろう感想を述べてくれるだろうけれども、雲雀ではそうはいかない。なんというか、性別からして違うのだ。そりゃクローゼットを開けて男同士のAVが出てきたら、それはそれでやはり複雑な気分になったかもしれないけれども、夫の性的嗜好が自分とは全く違うタイプの人間にあるのではないかと気づいたら、衝撃を受けるに決まっている。自分だって妻がオーランド・ブルームのプロマイドを集めだしたときは、内心微妙な心持になったものだ。いや自分と彼は同じ性別であるけれども、逆をいえば性別以外に全く共通点がないのである。
「気にしてないよ」
 雲雀はそう口にして一つ頷いた。いっているうちに、自分でもそう思えるような気がしてきたのだ。子どもだと思って馬鹿にするな。
「そっか。そっか? いやボスもなー、うっかりしまいこんで忘れちまっただけなんじゃねーかなー。こんなもの別に必要ないもんな、捨てちまおうな」
「別に捨てる必要はないよ。とっておけばいい」
「いやおまえ…」
 いくらなんでも心が広すぎる。イワンは思わず瞠目した。先程脳内でシュミレーションした我が妻でさえ、趣味が悪いわねと豪快に笑い飛ばした直後、ぱっきりとそれを二つ折りにしていた。ちなみに先程も述べたとおり、イワンの頃の映像記録媒体はビデオテープが主流である。
「新しいお母さんだよだとかいって、誰か女の人を連れてこられたってわけじゃないんだからさ」
「あ? 恭弥おまえなにいってるんだ?」
「それよりは全然ましだよ。僕は気にしてない」
 情けないことに本当に、イワンは最初雲雀がいっていることの意味がわからなかった。引き出しを探っていた手を止めて、振り返って訳のわからないことをいっている子どもを見やる。だが数秒遅れてじわじわと、彼のいっている意味が理解できた時、まるで後頭部を金槌でぶったたかれたような衝撃を受けた。
 ディーノと雲雀は夫婦である。少なくとも自分たちキャバッローネファミリーや同盟を結んでいるボンゴレファミリーの人間はそう認識している筈だ。だが遺憾なことに、そう恥ずべきことに、日本でもイタリアでも同性同士の婚姻は認められておらず、ディーノが雲雀を養子に迎えるという形で、二人は籍を同じものにしたのである。つまりディーノは、そして雲雀も、法律上は別の異性と結婚することも可能だということだ。
「いやそんなことあるわけねぇだろ………」
 思わずイワンは零した。信じられない。世も末だ。許される筈がない。ああ、血筋が何程のものだというのか。長子相続なぞ憂うべき負の遺産である………いや今のところディーノの長子は書類上は雲雀であるとはいえ。
 ディーノの父親であるキャバッローネの九代目には、イワンは随分と世話になった。ファミリーの一員として、このボスの脈々と初代から受け継がれた歴史には内心誇りを持ってもいる。とはいえ、こんな幼い子供が苦汁を舐め、愛情に満ちた夫婦が引き裂かれねばならない程尊重すべきものであるかという話である。
「そうじゃねぇ、ちょっと冷静になれ」
「僕は冷静だよ」
 いいかえしながらも、雲雀は自分の声が震えているのを自覚していた。全然冷静なんかじゃない。目の前にいるディーノの部下だって、なんて心の狭い男だと呆れているのだろう。ボスが、呆れる程寛容な人であるのだから尚更だ。ディーノが誰ぞと結婚したいといってもとめる権利なんて自分にはない。むしろ息子として祝福してやるべきなのだろう。養子をとったからといって、じゃあ子どももできたし自分は一生結婚しなくてもいいな、と単純に考える人間ばかりではないだろうことは、雲雀にも想像できる。ディーノには幸福になる権利があるのだ。
「おまえの幸福をもっと大事に考えてくれ…」
 だから、彼の部下のいうことには驚いて、雲雀は目をぱちくりさせた。なにをいっているのだろう。
「僕の幸せはどうでもいいだろ。彼が幸せかってことだよ」
 雲雀は今十二分に幸せである。むしろ幸せすぎて、意味もなく不安になってしまうほどなのだ。ディーノがその、なんというか卑猥なDVDを所持していたというだけのことで、別に女の人を連れてきたわけでもないのに。というか、そういうものを持っているんだから、彼には特に相手がいないんだった。そうだ。雲雀はほう、と大きく息を吐いた。
「おまえ…」
 切なげに溜息をつく(ようにみえた)雲雀の様に、イワンは涙をこらえるのに必死であった。何て気高い心を持った少年であろうか。実は我が上司がかけがえのない相手を見つけたことを心の底から祝福していたとはいうものの、結婚という決断には少々疑問も感じていたのだ。なんといってもまだ相手が若すぎる。雲雀は充分すぎるほど強い人ではあるが、それだけで勤められるほど、ファミリーのボスの妻という役目は簡単なものではない。もう少し待ってからの方がよくはないかと思ってもいたのだが、今イワンは心の底から自分の浅慮を恥じていた。こんな健気で一途な覚悟をもって、ボスの嫁に来てくれていたとは。だがやはり若いからこそ、わかっていないこともある。
「ボスはおまえがいるだけで幸せだろ」
「………なにいってるの?」
 肩をひっつかんで揺すぶってやる。普段だったらそこでトンファーを取り出してきそうな少年は、さっぱりわけがわかりませんという表情を浮かべていて、イワンはまた我が上司の頭をはったたきたくなった。仲良くやっているようなのに、こんなことも伝えていないなんて、明らかに言葉が足りなすぎる。イタリア男の風上にも置けない。
「ボスはおまえがいるだけで幸せなんだ。仕事でどんなつらいことがあってもな、おまえが笑顔でいってらっしゃいとかおかえりなさいっていってくれると思っただけで、いくらでも力が湧いてくるものなんだよ」
 何を陳腐なと自分でも思わないでもない。だが、思い返してみれば、それは真実であった。微力ながらこのシマのために力を尽くしてきて、だがそれは、このように住民が穏やかで理解のあるすばらしい地域においても、全て報われるものではない。何より自分の心がいう、マフィアはマフィアだと。しかしそれでも頑張ってこれたのは、もちろんこのファミリーの誇り故であり、そしてあの、大らかで気が強くどんな客の要望にもこたえた酒をだし、出会い頭あの頃は存在した関税を理由に店で出す酒の値上げを提案した自分に惚れ惚れするような勢いで啖呵を切ってみせたまっすぐな女性が、頑張れと、ぶれないで己が職務を果たせと、常に励まし続けてくれたおかげだ。
「僕が?」
「そうだ、おまえだ。だって家族だろ?」
「………」
 そんなこと考えたこともなかった。雲雀は思わず目を見開いた。少なくともディーノはそんなこといったことはない。
 だがそうだ。彼は自分の父となってから、多少は仕事をすべく執務室に呼ばれるたび向かっているものの、基本的には休暇中である。だから仕事で嫌なことも何もないし、それで今まで、こんな興味深い話を聞かせてくれなかったのかもしれない。
「いってらっしゃいとおかえりなさい?」
 簡単である。笑顔で、とかハードルをあげたつもりかもしれないが、彼を前にすればむしろ、怒った顔をしたままでいる方が難しい程だ。
「そうだ。あとはおはようとかおやすみとか」
 重々しく頷く。確かに挨拶は重要である。礼儀の基本だ。
「そんで笑顔でちょっとキスされただけで、よし今日も頑張るぞってな。元気が湧いてくるもんだ」
「………………なにそれ」
「ん?」
「………キ、スとか。なにそれ、僕がするの? 僕から?」
「ん?」
 なにそれ。イワンは思わず首を傾げた。いや、これが十代半ばの初々しいお嬢さんが口にした台詞ならかわいいなーと頬を緩めたに違いないのだが、発言したのはつい数時間前だって人目をはばからずいちゃいちゃとボスに手ずから飯を食わせてやっていた人である。我がボスの新妻である。結婚して日は浅いが、それなりの長さの婚約期間を………こういういいかたでよければだがそれを置いて、我が国に来たのであり、それまではボスは様々な準備のためもあって頻繁に来日していた。つまりそれなりのことはそれなりにいたしていたであろうに何を今さら、と思う訳だ。キス如きで。
「そりゃするだろ」
「え?」
「そりゃするだろ。ん? ボスはおまえにしないのか?」
「………する」
 そういえばする。主に朝起きたばかりの頃だ。頬や額などに二度三度。外人だからなぁと特に相手にしないでいたが、それではいけなかったのだろうか。そうだ。きっとそうだ。雲雀は息を呑んだ。そういえば今朝だって、恭弥からしてくれてもいいんだぞだとかそんなことを我が父はいってはいなかったか。何馬鹿なこといっているのと笑って、朝食をたいらげるべく相手にせず食堂に向かった。ベッドで食べるのはだらしなくてあまり好きではないから。
 でも本当は素直にこちらからもするべきだったのかもしれない。なんといってもここはイタリアで、我が父はイタリア人である。郷に入れば郷に従えともいう。それに、そういった挨拶をしている人間はこの屋敷ではとんと見かけないが、数日過ごした南の島からイタリアに移動するため二つ飛行機を乗り継いだ、その際使用した空港ではどこでも、見送りだか出迎えだかは知らないが盛んにその異国式の挨拶を大盤振る舞いしている群れを沢山見かけたものである。ああ群れがいるなあとうんざりした記憶しかなかったけれども、確かにああいった熱烈な挨拶が西洋社会では一般的なのだろう。
「………本当に?」
「ん?」
「僕から、その、そういう挨拶したら、あの人は幸せになる?」
「………ああ!!」
 それならばお安いご用である。それぐらい。いやちょっと想像するだけで恥ずかしいというか緊張するというか何ともいえない気分にはなるけれども、だからといってできないわけじゃない。あの人があんな簡単にしてみせること、自分ができない筈はないのである。雲雀は一つ頷いた。今日の夜………いや明日の朝、自分からイタリア式の挨拶をする。
「わかった。やってみる」
「そうか」
 イワンは涙をこらえるので必死であった。なんと健気な態度であろうか。
それに肝も座っている。まさかこんな少年が、今現在の仲睦まじい暮らしに我を忘れるのではなく、二人とこのファミリーの将来まで見据えて、不遇の身に甘んじる可能性もあるのだと覚悟を決めているなど、正直予想だにしなかった。そして、そんな未来は決してあってはいけない。
我がボスは心の優しい人だ。それと決めた相手を悲しませることなぞけしてないと思いたいが、ファミリーのボスとしての重圧は大きい。不況の時代にあって揺らがない経営状態を評価して同盟を結びたいとアプローチしてくるファミリーも多い。まさかないとも思うけれども、歳をとったとき、自分の血を受け継いだ子どもに後を継がせるべきだと考えないともいえない。そんなとき、止めるのは自分の役目だ。いや、自分を含めたファミリー全体の役目だ。ずっと、己が幸福を犠牲にしてファミリーを守ろうとしてきたあの人が、初めて独断で己がものとしようとした少年との暮らしを自分たちが守る。それこそ、殴っても、拘禁しても、脅しても。我々の命に代えても。さっそく、他の幹部の皆に相談しよう。きっと、賛成してくれる筈だ。子どもの頃から成長を見守ってきた、わがボスの幸福を何よりも願っている連中ばかりだから。
「ほら、恭弥あったぞ」
 布袋に入った鞄の山の間に挟まれていたストローハット。折れた皺が寄っているし、端の方がささくれてはいるが、かぶれない程ではない筈だ。イワンは殊更に明るい声を出しつつ、帽子を叩いてみせた。油断すると泣いてしまいそうで、いい歳をしたマフィアの男がこれではいけない。
「ねぇ」
「ん? どうした」
「安心しなよ。君たちのボスは、絶対僕が幸せにしてみせる」
「………………そうか」
「うん」
「そうか。ボスを頼んだぞ、恭弥」
 素直に頷くマフィアのボスの妻に、うやうやしく古びた帽子をかぶせてやった。まるで戴冠式のようだ、と密かに思う。そうだ、彼になら任せられる。我がボスを。
「任せておきなよ」
 こんな子どもを頼もしいと思う日が来るなぞ予想だにしなかった。イワンは思わず苦笑する。きょうは真夏日。日差しは強く、草花だって萎れて項垂れていることだろう。それでもこの古びた、幼いボスがかぶっていた帽子が、この子どもを守ってくれることを確信しながら、イワンはクローゼットのドアを閉めた。









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