「いやー腹一杯。うまかったなー、恭弥」
「太るよ」
「大丈夫だって運動してるから。うん、でも今日はちょっと食いすぎたかな」
「そうだよ」
 いいながらも、自分も食べ過ぎてしまった自覚はある。夏休みを利用して我が父の「シマ」であるイタリアを訪れて二日目。彼の城で食料提供に従事しているシェフは優秀で、何を食べてもとんでもなくおいしかった。しかも、イタリアの夕食の時間は遅めで、空腹も相まってとんでもなく箸が………いやフォークが進んだ。正直に言えば不満はないではない。多くは国籍の違いによる物だ。ボスの息子である自分に気を使ってくれているらしく、今日は和食らしき物をメニューに加えてくれた。実際そろそろ醤油や鰹節を由来とした味付けに懐かしさを感じている身としては、その心遣いはとてもありがたいものだ。そう、正しく和食を再現してくれるのならば。だが、今夜メインとして供された「肉じゃが」は、多分「牛すね肉のトマト煮込みじゃがいも添えなんたらかんたらキャバッローネ風」だとかいった名前がついていた方がしっくりくる味つけであったし、味噌汁はどこかコンソメの香りがした。これでおいしいと感じさせるのだから、プロとはさすがすごいものである。
「さてと………どうすっか」
 二人の部屋に入るなりディーノはそう零して、雲雀は思わず苦笑した。扉の向こうから一転して、ピンクで、おもちゃ箱をひっくり返したみたいな部屋だ。
「仕事は?」
「ないって。ていうかオレはまだ休みなんだぜ! ロマがもしかしたら後で確認して欲しい書類を持ってくかも、とはいってたけど」
 休みが貰えただけで僥倖であります、とでもいいたげだ。ちょっとかわいそうに思えなくもない。
「戦う?」
「戦わねーよ!!………まったく、この戦闘狂め」
 父親ぶって重々しくマフィアのボスがのたまう。いや、そういえばもう、本当に父親なのだ。今日の午前中、二人して書き込んで提出した書類。あれだけでいまやもう、二人は家族である。
「じゃあなにするの?」
 夜中は戦いたがらない父の嗜好は知っているので、あわよくばといってみただけだ。取りあえず雲雀は要望を聞いてみることにした。
 大体夜はまだまだこれからという時刻で、なにかやることがなければ、暇で仕方がない。数日前、まだ南の島に滞在中の日々は、そんな不満なぞ思い浮かびもしなかった。朝起きたら戦って泳いで戦ってスイカ割って泳いで、夕食を食べて少し花火をしてからシャワーを浴びたら、眠くて眠くてもう一分だって起きていられなかったのだ。そして、イタリアに着いた昨日は、旅の疲れもあって二人して早々に就寝してしまった。だが今日は、ディーノの方は一応休日ではあるものの、部下から報告だの相談だのを代わる代わる受けている様子だったから、一日戦ってはいない。雲雀の方もそれどころではなかった………なんていうことをいうと、人のことを戦闘狂だなどという失礼なマフィアのボスが驚いた顔をするかもしれないが事実である。なんといっても、ここは新しく自分の家になるのだ。「家」というよりはどう見ても「城」という感じだが、まあいい。とにかく新しい自分のテリトリーである。隅々まで探検し、細部に至るまで点検するのは当然のことである。侵入経路にセキュリティ。正直近くにいる四、五人を咬み殺して壁をぶち破れば中に入れてしまうような、脆弱な警備の場所も少なくない。夏休み中はここにいる予定なのだし、きっと何度か襲撃を受けたりするのだろう。腕が鳴る。
 そんなわけで、まだ全部は終わっていないけれども、この城や庭をあちこち見て回って一日を過ごした。なかなかに興味深かったが、ここ数日に比べれば、随分と歩いたものの殆ど疲労していないといっていい。少なくとも午後九時過ぎの今、さっぱり目がさえてしまっているほどには。
 そんなわけで自分とは違い、真っ当な家庭生活のあれこれについてはオーソリティといってもいいであろう父に質問してみたわけだが、どういうわけだか困惑しているかのように小首を傾げている。それでかわいいと思ったら大間違いである。かわいいけど。
「え………やっぱここは、かぞくだんらん、とかじゃね?」
「団欒。つまりなにするの」
「え? ああ、ちょっと待ってろ!」
 ぱたぱたぱたと、無駄に広い部屋を横断して本棚に駆け寄った父は、小さな辞書を手にして戻ってきた。
「えーと、うん、つまりな、集まって楽しく過ごすこと、らしい。いやー、恭弥に日本語教える日が来るなんてな」
 群れてるね、とか楽しく過ごすなら戦ってもいいじゃないかとかいいたいことはいっぱいある。というか、具体的な意味がわからなかっただけで、「団欒」って単語も知らないわけじゃない。
「じゃあつまり何するのさ」
「ん? だからつまり二人で楽しく………………戦わねえよ?」
「………」
 二人の楽しい団欒の過ごし方に、まず手あわせを思いついたらしい父は慌てたように手を振った。仕方のない人なのだ。素直じゃない。
「いいけど。じゃあ何をするの」
「うー………んと。あ、それはほら、テレビをみたり、とか!!」
 エウレカ! とでも叫びだしそうな様子でディーノが提案を口にする。そういえば確かに、家族は集まってテレビを見ている気がする。なんとなく。
「テレビ。あるの?」
 そしてなんとなくテレビがなさそうな部屋である。ピンクというきらびやかなファクターを無視すれば、家具から何から、百年かそれ以上昔の物ばかりなんだろうなという感じのインテリアでまとめてある。所謂団欒っぽい、丸い卓袱台だとか傘の付いた電球なんてものが存在しないのは当然として、気づかなかったがテレビも見かけた記憶がない。
「もちろんあるさ、まかせとけ」
 だが、得意気にディーノは胸を張って、そしてなにやら小さなリモコンを操りだした途端、壁面に備えられたキャビネットの扉が、低いモーター音を奏でながら左右に開いて、雲雀は思わず口をぽかんと開けた。まさかこんなところにこんな巨大なテレビが隠されているとは思いもよらない。というかなんで隠されているのだろう。やっぱこう、マフィアたるもの、平和な堅気の娯楽になぞうつつを抜かさないぞ的な。
「よーし、じゃ、みようぜ」
「何見るの?」
「ん? オレも普段みねーからなぁ。まぁなんか適当に」
「僕イタリア語もイタリアの芸能人もわからないんだけど」
「………………」
 もともと日本でもそうテレビを見ていたわけではなく、ニュースとか、地元局で並盛が特集されると聞けばチェックするくらいのものだったのだが、それでも流行ってる番組とか芸能人とか、そんな情報を全く知らないわけではない。そういった事柄に興味がある盛りの中学生が集う学校にいれば、なんだかんだで耳に入ってくるものだ。だが、イタリアの番組となっては理解できる気がさっぱりしない。
「…ちょっと待ってろ。確かDVDが」
「あるの? 僕もそれ」
「いや! ちょっと待ってろ!」
 ばたばたとディーノは隣室に駆け込んで、DVDがまとめてしまってあるキャビネットの扉を開けた。マフィアのボスであっても二十二歳の健康的な成年男子であれば、息子にはみられたくない趣向の映像作品の一本や二本や三本………いや四本や五本や六本や七本や八本や九本………一本足りない…いやあった! ディーノはそれらをまとめて、クローゼットの奥に放りこんだ。これで安心である。
「えーと………日本の映画、とあれ?」
 元家庭教師が日本に渡る話が浮上した際、まとめて十何本かそこら購入した記憶がある。いずれ日本語が必要になるであろうと見越し、勉強に使えるのではないかと考えたのがその理由だ。もともと日本語は習得してはいたのだが、如何せん使う機会が少なく復習の必要性を感じていたのである。だが背表紙を舐めるように確認しても、日本語らしいタイトルは見当たらなかった。そういえばあの頃は別邸に滞在していた時期ではなかったか、と思いついて暗澹とする。仕事の関係であちらこちら居場所を移していたので細かい記憶が定かではない。
「うわやべー………あ、あっ、た?」
 隅の方に数本だけ見つけたそれは、だからといって救いにはならなかった。シマの近くで行われた映画祭に顔を出さざるを得なくなり、そこで賞をとった、日本ではコメディアンとしても活躍しているらしい監督の作品のDVDを購入した、そうだ、よく覚えている。そこに表現された、ジャパニーズマフィアの世界の抒情的で静謐といってもいい孤独は、堅気の人間に何がわかるのだと笑い飛ばしてもいい筈なのに、どこか惹きつけられた。
 だがそれはそれとして、件の暴力シーンは本職の筈のファミリーの人間たちを持ってして眉を顰めさせるものだったのだし、元へなちょこのマフィアのボスともなればいうまでもない。少なくとも幼い子どもに………戦闘狂である子どもに見せたいものではなかった。夕食の際、セキュリティはどうなっているのかだとか、武器庫はどこにあるのかだとか興味津々といっていい表情で質問されたのだ。まだまだ教えたい話ではなく、誤魔化すのは大変だった。こんなものをみせたら、あれこれ聞かれるに決まっている。
「跳ね馬?」
「あー、いや、うん、ちょっと待ってろ!」
「どうしたの、なかったの?」
「や、これとか! いいんじゃないかって思うんだけど」
「ふうん?」
 待ってろといって待つ筈のない息子が顔をのぞかせ、咄嗟に掴んでみせたDVDを見て眉を顰める。
「だから僕はイタリア語は」
「わからないっていうんだろ? 大丈夫だってオレが同時通訳してやる」
「ワオ、あなたそんなことできるの」
「たぶん? いや、うん、がんばるから! ちょっと変でも想像力を駆使して頑張ってくれ」
「あなたが頑張りなよ」
 それはもちろん。選んだ、というか掴んだのは明るくお軽いアクションコメディで、我ながらくじ運の良さを讃えたいところだ。もちろんホラー映画だとかを見て、怯える息子の肩を抱いてだいじょうぶちっとも怖いことなんてないんだぜと励ましてやる頼りになる父………つまり自分のことだ………というのも、なかなかに魅力的なシュチュエーションではある。だが今日は二人して初めて映画を見るわけで、まずは楽しい記憶だけを持って欲しいところ。昔一度見たきりだけれども、確かアクションといってもぱんと撃たれて血も出ずばたんと倒れるみたいな、変質者や悪人は皆捕まるか死んで、あとは全て幸せ笑ってハッピーエンドなお話だった筈だ。
「よーし、まかせとけ。あ、多分別邸の方にな、日本の映画も置いてあると思うんだ。明日誰か取りにやらせるから」
 DVDをセットし、力強く頷いて見せる。自慢のAV機器である。子どもの頃から映画を観るのは好きだったが、マフィアのボスともなると、オペラの初日にプラテアで得意気な顔をしつつ社交に励む時間はあっても、火星人が襲来してどうこう、みたいな映画を観るために地元の映画館に足を運ぶことすらなかなか許されないものなのである。そんなわけで、ずいぶんこだわって自宅で鑑賞できる設備を整えたわけなのだが、正直にいえば宝の持ち腐れといわれても文句はいえない。忙しない日々が続くと正直買ったばかりのDVDより、ベッドの方がずっと魅力的に見えたりもするものだ。
「ずいぶん昔の映画だ。恭弥は観てたり………しねぇよな。日本じゃあんまりイタリアの映画とか取り上げられねぇだろ?」
 全くという訳ではないだろう。というかそもそもそういう類の映画ではない。当時だって殆ど話題にならなかった筈で、ディーノが購入したのは、ただ単に感傷というか、初めて映画館に観に行ったのがそれだったからだ。一人で。まるで大人になった気分でポップコーンを買った。よく覚えている。それから半年もしないうちに、そんな子供っぽい自由すら許されなくなってしまったけれど。
「知らない。………っていうか、映画とかあまり、観ないから」
「そっか。でも、けっこう、面白いのは面白いぞ。うん、面白いのはだけど」
 無理強いはしたくない。そんなわけで、我ながら訳のわからない言葉でディーノは勧めてみせて、そんなことをしているうちに、今は昔の、だからこそ面白い気がする予告編が終わっていた。
「あ、はじまったな」
「そうだね」
 音楽に合わせて、雑踏や街並み、旧市街なんぞの凡庸なカット。バールの看板、あまり繁盛していない店内、退屈そうにバーボンをきこしめしている男の横顔のクロースアップ。男はゆっくりと煙草をふかし、新聞を広げる。そういえば主人公は無口で口下手な性格という設定だったっけとぼんやりと思いだし、ディーノは思わず息を吐いた。しかも中盤からはアクションシーンが山盛りの筈で、台詞よりは拳銃の方が饒舌なことだろう。臨時の同時通訳者としてはかなりの安心材料だ。
「やあ、ひさしぶりだな、キアーラ。相変わらず美しい。街の人間の半数があんたのことを考えて夜も眠れないらしいじゃないか」
 ………まあイタリア男の口下手なぞこの程度である。
 薄暗い店内に颯爽と入ってきた美女は、当時かなりの人気女優で、短い黒髪、猫のような瞳、丈の短いワンピース。
「あなたこそ相変わらず上手ね。それより知ってる? 明日の………どうした恭弥?」
「くっ………ふふっ…!」
「いやマジでどうした、恭弥!」
 息子が身体を折って咳き込みはじめて、ディーノは慌てた。抱きしめたい気持ちを抑えて、背中をゆっくりと擦ってやる。根っから頑丈な性質の自分は、こんなときどうすべきか判断するのも覚束ない。
「どうした、大丈夫か」
「あ、あなた」
「きょうや」
「あなた、どこから声出してるの………?」
 苦しそうに、ああ苦しそうに咳き込みながら雲雀は笑ってかような質問をした。元気だ。
「………いやおまえな」
「上手ねって………上手ねって、ふ、ふふ」
「………」
「ね、ほら続きなんていってるの? しゃべってるよ」
 見れば話はすすんでいて、ヒロインが何ごとかまくしたてている。新人記者である彼女はこの町の実業家のスキャンダルを掴んだと確信していて、夜中に尾行だのなんだのをやろうと目論んでいるらしい。密かに彼女に惚れている男はそれを必死で止めようとしていて、だが放っておいてと肘鉄を食らう訳だ。確か話は二転三転して、要人のスキャンダルの筈が某国のスパイがどうこう、みたいなオチだった筈なのだが、正直記憶は定かではない。
「だから、この男は元警官で、あんな治安の悪いところふらふらするなんてとんでもないっていってて、だ、あのお嬢さんは………恭弥?」
「………」
 我が子は明らかにムスっと拗ねた顔をしていて、思わずディーノは嘆息した。
「………わかったよ。…だめだ、君はオフィスに戻って自分の仕事をするんだ、「街のかわいいワンワンとニャーニャー」の記事を書かなくちゃならないんだろ?」
「ふふ」
「知らないわよ、市長さんのペキニーズは可愛かったかい? あれは犬じゃなくて悪魔よ、あいつがいうこときかないから私は………おーい恭弥画面みてるかー?」
 お楽しみいただけているのは幸いだが、明らかに雲雀は画面よりも、ディーノの方に注目している。出会ってばかりの頃に比べれば格段に打ち解けてくれるようになったとはいえ、雲雀は笑顔を大安売りでみせてくれるようなタイプではない。それが、ディーノの一挙一動に反応して楽しげに笑ってくれるのだから、嬉しくないといったら嘘になる。日本の歌にもあったはずだ。ほら、君が笑ってくれるなら僕はピエロだかポプラだかにでもなるだとかそんな。そんなわけで、息子が喜ぶならこれくらいという気持ちではあるのだが、それはそれとしてそろそろちょっと恥ずかしい。ヒロインは先ほどから、怒り狂った女性の多くがそうであるように息もつかずにまくしたてていて、甲高い声を出し続ければ喉も渇くし、主人公の困りきった顔からしても、ここは笑うところじゃないんだぞといいたい。いや、こんな役目を担っていなければ、多分笑うべきシーンなのかもしれないが。
「お茶のむ?」
「あ、サンキュ。………ビールあるか? 恭弥もコーラでも飲んだらどうだ。多分入ってるぞ」
「なんで?」
「なんでって………なんか映画館っぽいだろ」
「そう」
 素直な息子は備え付けの冷蔵庫からビールとコーラを運んできてくれた。渇いた喉に炭酸の刺激は心地よく、非常においしい。というか、画面が回想シーンに入って会話が少なくなった途端明らかに興味を失っていませんか。
「なあ、恭弥おまえな」
「なに。まだ喉痛い?」
「いや………あんがとな」
 清らかな子どもの気遣いに胸が痛くなりそうだ。ディーノは鼻をすすって、画面に集中すべく己を叱咤した。
「え? 泣くようなシーン? 今」
「いや大丈夫だ………きゃあ来ないで! やめて、大人しくしててよ」
「ふふ」
 多分笑うようなシーンだ、息子の笑いの理由がなんか違う気がしないでもないにしても。
 噂の悪魔もといペキニーズのアナスタシオ君がヒロインに吠えかかっていて、彼女はきゃあきゃあと右往左往している。確か、追いかけられて逃げ込んだ部屋で、ヒロインは市長と何某の怪しげな会話を盗み聞きする羽目になった筈だ。だが今のところ音声はわんわんときゃあきゃあ。同時通訳者の仕事は少なく、だがみれば雲雀は気づかないうちに画面への興味を取り戻していたようだ。悪魔が吠えたり跳ねたり駆け回ったりしている様を目を細めて眺めている。
「アナスタシオって名前には復活って意味もある」
「なに? 今誰も喋ってないよね」
「ああ単なる説明だ。あとペキニーズって誰かに似てるよな、って」
「誰に?」
 ぽかんと口を開けた我が息子はどう見ても何もわかっていない。ディーノは小さく息を吐いた。どう考えても思い違いで、自分が勝手に気を揉んでいるだけである。嫉妬なぞ大人げない。それに、画面の中の犬は、まあ画面の中にいると思えば可愛いといえなくもない。明日にでも、動物もののDVDを入手するよう手配しよう。
 回想シーンは終わり、ヒロインは主人公のアドヴァイスに聞く耳を持たず、市長の尾行をすべく怪しげな倉庫街を歩いている。忍び寄る長い影、足音。ナイフが月光を浴びてきらめくショット。おおげさに緊迫した効果音。
「あ!」
「あー………捕まったなー」
 予想通り、ヒロインは怪しげな男に羽交い絞めにされている。とはいえ雲雀は純粋な驚きを露わにしていて、擦れ切った大人としては微笑ましくて仕方がない。
「あいつ、マフィアなの?」
「え、や、違うぞ、スパイだスパイ!」
 まだ明らかにされてない展開を教えるのはいかがなものか。とはいえ思わずディーノは突っ込んだ。てかなんでそう思った。
「だって黒い服着てる」
「見た目で人を判断しちゃいけません!」
「スパイが黒い服着てたら駄目だろ。見るからに怪しいじゃないか」
「え、怪しいってなんだ怪しいって」
 部下たちは基本黒づくめの服装をしているがさっぱりまったく怪しくなぞない。だいたいコメディなのだからスパイがスパイらしい服装をしているのは当たり前で、背中に「007」とか刺繍されてなかっただけでも幸運と考えるべきである。
 だがいいあっているうちにも話は進んでいて、ヒロインは倉庫の奥に引きずり込まれていた。そこでディーノははたとこの先の展開を思い出した。
 この手の映画にありがちな、お約束のお色気展開だ。ヒロインが悪漢に脅され、ピンチに陥る。子どもの頃観た筈の自分がさっぱり忘れていたのだから、大したものではない。少なくともレイプはされていない。服がナイフでちょっと切られて、ヒロインの露出度があがったよね、くらいのものだった気がする。そこらへんで激高したヒロインが男の急所を蹴りあげ、しかも後から追ってきた主人公が誤解して、顎に思いきりアッパーをくらわす、というオチであった、そうだ。だが今のところ、某国のスパイは職務を放りだしてヒロインに性質の悪いセクハラ発言を繰り出している。
「ねぇ、あいつなんていってるの?」
「え、や、その! な?」
 こんなシーンで馬鹿な悪役がいう台詞なぞ、わざわざ訳してやる必要もない。くだらないものである。ていうか、ちょっと考えれば想像がつくだろう、といってやろうとしてディーノは言葉に詰まった。自分を見上げる我が子の瞳はあまりにも澄んでいて、本当にわかっていないのかもしれない。だとしたらこんなこと教えてやりたくない。
「なに?」
「だから、その、な?」
 適当な、性的な意味を持たない脅し文句をあてても、なんとか誤魔化せるかもしれないとは思う。男の声音は明らかな恫喝で、例えば「どカスがかっ消すぞっていってるんだよ」といっても、大して不自然ではないかもしれない。だが嘘を教えることにはどうしても抵抗があった。素直で賢い子だ。こんなやり取りを覚えていて、後でディーノの預かり知らぬ場面で口にしてしまわないとも限らない。
「だからなに」
「だからその」
 思わずぎゅうと細い身体を抱きしめる。恥ずかしくて、とても顔を見ていえる気なぞしない。男の下卑た台詞は画面から顔を背けたままでも聞こえてきて、ああちょっとは自重しろといいたいところである。
「だからその、恭弥」
「うん」
「そんないやらしい顔をして、俺を誘っていないって言ったって誰も信じやしないぜ………ってうお、なんだ?!」
 がたがたがたっと、とんでもない音がして、思わずディーノは視線をテレビに向けた。だがディーノの…いやスパイの股間は未だ被害にあっておらず、脅迫のシーンが続いている。
「あれ………なんだ、びっくりした」
「あなたの部下じゃないの? 書類持ってくるとかいってたじゃない」
「あ、そか。ごめんなちょっと待っててな」
 ノックの音にしてはやけに騒がしかったなと思いつつ、ディーノは部屋のドアを開けた。だが部下の姿はそこにはなく、ただ書類が廊下に散乱していた。どうしたのだろう。
「仕事?」
「え? いやどうだろ、書類が置いてあったんだけど。明日でいいってことなんじゃねぇかな」
「ふうん」
「ん、ごめんな。中断しちまって」
「それはいいけど。あなたのとこ、セキュリティとかどうなってるの。書類をそこら辺に置いとくとかどうかしてるよ」
「え? いやいつもはこんなことないんだぜ。ちょっと慌ててたんじゃねぇかな」
「甘いよ。何かあったらどうするの。ちゃんと咬み殺さなきゃ」
 部下に対してそんな態度じゃいけないぞとディーノは苦言を呈そうとして、だが口にはしなかった。雲雀は心配げな表情を浮かべていて、それに気づかない顔をして煩いことをいうことなぞとても出来ない。そもそもこの子はこの家に着いてからずっと、セキュリティや武器の備えについて、気遣ってくれていたのだ。戦闘狂だからだとか、邪推していた自分が恥ずかしい。
「うん、そうだな。明日がつんと注意しとくな」
「絶対だよ」
「ああ、約束な」
 指きりして額をあわせる。ああ、自分はなんて、素晴らしい子に恵まれたことだろう。
「あ、そろそろ終わりみてぇだな」
 見れば、画面の中でも主人公とヒロインは抱き合っていて、お互いの愛情の確認作業に没頭している。多分数分もすればエンドロールが流れだすことだろう。
「ごめんな、ところどころ空いちゃって。わかりづらかっただろ」
「おもしろかったからいいよ。ねぇもう一本観よう」
「え? いやほらもう、遅いしさ、明日には日本のDVD、とってこさせるし」
 そろそろ日が変わる時刻である。いい子は布団に入ってしかるべきだ。
「じゃあもう一本」
「うー………どんなのがいいんだ?」
 我ながら甘い。ていうか、じゃあってなんだ。
「………女子がいっぱいでてくるやつ」
「………」
 これで我が子も成長したなあ思春期だなぁと勘違いできればよかったのに。ディーノは思わず天を仰ぎ、そして大きく息を吐いた。女子がいっぱい出てくる、そして父親の精神衛生上の問題からして、健全極まりない映画。思いつくタイトルからして少ない。尼さんが歌って踊るあれとか? いやミュージカルなんていくらなんでもハードル高くはないか。
「ねぇ、ディーノ」
「………うん、ちょっと待ってろ」
 いいだろう。この子が笑ってくれるなら自分はピエロにでもなんでもなるのである。このくらいの試練、乗り越えられない筈もない。


 翌朝、眠い目をこすりながらディーノは執務室へと向かった。雲雀はまだ夢の中にいて、だが自分は書類確認して指示を出さなければならない。そしてついでにがつんと、そうがつんと昨晩の不始末について注意してやろうと考えていて、だがドアを開けた途端、がつんと怒鳴りつけられたのは自分の方だった。どういうことだろう。
 寝不足でぼんやりした頭でも理解できたところによると、あんた恭弥に何やっているんだと、つまり映画をみせたことに憤慨しているらしい。際どいといえなくもないシーンはあの部分だけで、基本的には単なるアクションコメディだというのに、どうやら部下は勘違いをしているようだ。納得がいかない。
 とはいえ、ディーノが子どもの頃からの付き合いで、遺憾ながら遠慮なく叱られるのは珍しいことじゃない。取りあえずディーノは落ち着いてから説明しようと、はいはいと頷いて、返事が小さいとまた怒鳴られた。よくある流れだ。
 むしろ、それに対する反論として、「一晩中声をあげていたから喉が痛いんだよ」と答えた後の、対応の方が驚きであった。言い訳をするなボスと怒られるだろうなと思いつつもついつい零してしまったというのに、風邪をひいたとでも勘違いされたのか、オフィスチェアにはいくつもふかふかのクッションが乗せられ、あたたかいハーブティーが運ばれ、まだ休みなんだから持ってきた書類にサインだけしたら、今日はゆっくり休めと温かい言葉をかけられた。どんな奇跡であろう。とはいえ、ありがたいには違いない。かわいい息子が目覚めたら、今日は一日家族団欒をして過ごそうか。









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