「………寝たか」
 肩に掛かる重みが増し、規則正しい寝息が聞こえてくる。おまえはパブロフの犬かと突っ込みたいところだ。今はまだ夕刻で寝るには早い………いや、我が子ならば僕なら寝たいときに寝るよだとかいいそうだけど。正直まことに羨ましい生活形態である。
「んん………ん」
「おおっ…と」
 むずがるような声を漏らした雲雀の頭が滑り落ちそうになるのをとっさに支えた。そのまま、また危険なことにならないようまんまるい頭をゆっくり、ゆっくりと自分の膝の上におろして、そこでディーノは思わず悲鳴をあげそうになった。ミスった。なんだこれ膝枕だ知ってるそれ知ってる。
「いや落ち着けよ」
 正直このところ、何度自分にいい聞かせたかしれないアドヴァイスを、ディーノはもう一度自分に向けて囁いた。膝枕だからなんだというのだ。必要なのは平常心だ。
 いつだって寝つきのいい我が子が、絵本一冊分の分量にも満たないおはなし………というかあれだ我が黒歴史…を話して聞かせるだけですやすやと眠ってしまうのことはよく知っている。たぶん彼からしたら緩いことこの上ない戦いの話であるせいだろう。あの頃は正直死活問題だったのだけれど、今思えば、狼なんて怖くない。怖くないったら怖くない。後ろで見張ってた家庭教師の方がよっぽど怖い。
 はあ、と大きく息を吐き、目を閉じてその怖い存在の姿を思い浮かべる。ボルサリーノ、つぶらな瞳、凶々しい笑み。よし落ち着いた。オレは冷静だ。
「んんん………でぃ、の」
「へ、や、うわ、きょ!」
 舌足らずの寝言がきこえて、ディーノはもうちょっとで叫び出しそうになった。冷静? 何それピッツァよりおいしいのですか。
「オ、オレの夢みてんのか…?」
 もちろん返答はない。それでもまるで心臓か肺をきゅっと直接握られたみたいな心地がして、人間というよりはハリネズミかなにかみたいなピッチの鼓動がとんでもなく盛大な音を立てているのが聞こえる。
「………………………かわいいなぁ、おまえ」
 漏らした呟きは、自分でも滑稽に思われるほど重々しく、落胆の色をまとっていた。いや違う。息子がかわいいことはいいことだ。何だってかわいくないよりかわいい方が決まっている。かわいいは正義である。もちろんそうだ。ただそれだけのことで、毎度毎度混乱してしまう自分がおかしいのだ。つまり落胆しているのは自分自身に対してで………ディーノは重々しい溜息をついた。雲雀がかわいすぎて困ると、アメリカ滞在中酒の力を借りて部下に相談してみたりもしたのだけれど、「へぇそりゃあよかったなぁ」とものすごく気がない様子で相槌を打たれて終わった。その上「それはそうとところで」と即座に別の話題を提示され、とても長々しく愚痴を言える雰囲気ではなかったのである。
 いや、部下の気持ちもわからないではない。自分だって子煩悩で通っているボノかイワンあたりに娘が愛らしくってどうこう、みたいな話を聞かされたところで、そうそう親身に拝聴してやれるかと問われれば答えはNOである。別に子ども嫌いではないし、シマでの祭りやら何やらで顔をあわせればかわいいなとも思うのだが、世界一の美人になるに違いない、今だってすれ違えば馬鹿どもが皆振り返るんだぜとかいって相槌を求められると流石にどうかなと思うわけだ。うちの子は世界一かわいいけど。振り返るどころか、むしろオレは常に目をそらせないけど。というかそんなことは親として当たり前で、今さら聞かずともわかりきっていることで、だからこそ問題なわけだ。
「………って問題ってなんだよ」
 思わずこぼす。まったくかわいいは正義であるというのに。そうだ。正義なんだから問題なんてない。何もない。
「んー………」
「きゃ」
 もぞもぞと雲雀が身をよじって、思わずディーノは小さな悲鳴をあげた。ああちくしょう認めよう。問題だらけである。たぶん、こんなふうにディーノが変になってしまったのは、この前遊園地に一緒に行ってからだ。なんでだろう。実際、思い返せば以前から雲雀のことはとてもかわいいと思っていたけれど、今はもう、何もかもがかわいらしくきらめいてみえる。いやそれだけだったら問題ない。ようやく自分にも審美眼が備わってきたのだなあと誇らしく思うだけである。成長する一瞬一瞬がかけがえなく美しくて、見逃せないと思うと同時に胸が痛い。それだって、父親としてごく当然の感傷であるはずだ。だけれどもこんなふうに、彼のことをみていると
「んん…」
「きょうや…」
 さらりとした頬を撫でる。そのラインが僅かにほんの僅かにシャープになった気がして、ディーノは眉をしかめた。たった一週間かそこら留守にしただけだ。たぶん、気のせいなんだろう。でも、たとえ少しの時間でも、大人になっていく彼を見逃してしまったなんて、寂しいような、悔しいようなそんな気持ちになる。家族になる前は月に一二度日本に行ければいい方で、もちろん会いたいだとかそういうことは考えたりしたけれど、こんな風にどうしようもない焦燥に駆られることなんてなかった。これが父親らしくなってきた、とそういうことなのだろうか? わからない。ディーノにはわからないけれど、何かがおかしいような、根拠のない不安が胸の内にある。
 木の葉の音でも起きるはずの人の、ちんまりとした鼻を撫で、顎先をくすぐった。かわいい。あの魅力的で力強い、チンピラくらいなら軽く射殺せそうな瞳が見えない分、その整った顔の造作だとか、思春期の子どもの物とは思えないほど滑らかで吹き出物一つない肌に目がいった。ああでももう寒いせいだろうか、少し口唇が乾燥して
「あ……んん、だめ、でぃー」
「へ? ええっ?!」
 驚きのあまり、ディーノはがちりと岩のごとくに固まった。気づけば視線の先数センチのところに、薄く開いているかわいい、ちょっとばかり乾いた口唇がある。やましい。いぃいいいいいいいややましくない。父親であれば息子の体調を心配するのは当然のことで、なにもおかしなことなんてない。
「だめ…そこ、ああ、ディー…ノ」
「え。ちょ、おい、恭弥!?」
「そこ………………」
「そこって!! いやおまあれだあれだオレはおまえの父親で」
「そこ…ああ」
「だからほらそのあれだその」
「そこだよ、いけ! しっぽを…ひっぱって………咬み殺せ!!………………あれ?」
「その、オレは父親で………………………………うん、あれだな、きょうや」
 ぱちぱちと瞬きをする真っ黒い瞳をみて、ああやっぱり起きている方がかわいいなと思った。とはいえ、とはいえだ。
「おまえ………どんな夢みてんだよ…」
「ん? ………うん、小さいあなたと狼を咬み殺してまわって。あなたしっぽだっていうのにへなちょこだから髭ばっかりねらうんだ」
「ああ、うんそうですか」
「あなたは?」
「ん?」
「なにしてたの?」
「………………え?」
 そこではたとディーノは自分の体勢に気づいた。膝の上に頭を乗せた我が子の顔。自分の頭はそれにあと数センチの位置にある。
「え? いやその」
 やばい。いいわけできない。いやいいわけすることなんてなにもない、ただ自分は雲雀の口唇がちょっと荒れてると思ってそれで
「寝てたの?」
「え?」
「飛行機じゃ寝れなかったんじゃないの、すごく群れてるものね」
 いやそれおまえだけだから。だがふわあと大きくあくびをしながら、雲雀は心得たように頷いた。
「お、おお。実はそうなんだそれで………」
「そ」
 がじ。
 やばい、と気づいたときには雲雀は上半身を心持ち浮かして、ディーノの口唇に咬みついていた。いやまていやまていやまて。
「きょう………ひ、たいって」
「んむ…む?」
 慈愛あふれる我が子は、ディーノが痛みを訴えながら身を捩ると、困惑したように首を傾げた。ちなみにディーノの口唇はくわえられたままだ。つまり捻れて更に痛いというか確実に血が出てる気がするんですが恭弥さん。
「ん…ひた…」
「ひたい?」
「ん、ひたいって」
「ひかたないひとらね」
 ぷは、とキスの仕方も知らない子どもは大きく息を吸い込んだ。さっきまで乾いてた口唇が赤く塗れているのをみて、ディーノはもう少しで飛び上がりそうになる。
「しかたないひとだね」
「いやいいなおさないでもいいんだけど………って、てかきょうや!!」
「しょっぱい」
「!」
 べろりと口唇の端を舐められて今度こそ飛び上がった。ひたい。それ、たぶん血だ。
「ディーノ」
「お、おおおおおおおおう、なんだ?」
「おはよう」
「………………………お、おはよう、じゃねぇ! だだだめだっていったろ?!」
「なにが?」
 他愛もない様子で問いかけられて言葉に詰まる。だってなにがって、たかがキスだ。それもこれ以上はないってほど子どもじみたキスである。こんなことで大騒ぎするディーノの方がおかしいのかもしれない。
「だ、だから、あれだ。前もいったろ。例え挨拶でも、親子で口唇になんてキスしちゃいけねぇって…」
「よそはよそうちはうちだよ」
「そういう問題じゃなくてだな」
「それに普通はするっていってたよ」
「誰が!」
「あなたの部下が」
「ほんとかよ。誰がいってた? 恭弥、いってみな」
「………ひみつ」
「ひみつって………ああもう、きょうややめなさい!」
「む」
 小柄な体を半回転させて後ろから抱きかかえる。隙あらば口唇を奪おうとする我が子の攻撃を、頭を左右に動かして避けつつ深刻な会話を続けるのは、かなりの困難を伴う。
 別にディーノだって殊更に犯人探しをしたいわけではない。だが、子どもにいい加減な法螺話を吹き込むなんて許されないことだし、もし本当にディーノが知らないだけで、一般的に何割かは家族間でも挨拶で口唇にキスをしているとしたら、それもきちんと把握しておきたい。いや別に取りあえずお墨付きを貰ってキスしまくりたいとかそういう話ではなく。
「あ、もしかしておまえ、名前知らない奴だったんだろ。どんな奴だった? ほら、特徴だけでも」
「ばかにしないで」
 華奢な肩に顎を乗せて、両手をつないだ。このまま好き勝手に腕を動かしたりしてみたいところだけれども、そうするとほぼ確実にご機嫌が損なわれるであろうことは、既に経験から学習済みである。ぐりぐりと自由人なわりに凝っている部分に顎を押しつけてやるだけで我慢してやる。
「えー? してねえって。なあ、恭弥、ほらどんな奴だった?」
「わりと太ってた」
「………………………そうか」
 その情報である程度の年齢以上のイタリア男性の集団の中から正解を見つけ出せると思う方がおかしい。ディーノはとりあえず諦めた。あれだ、重要なのはそこではない。
「とにかくだな、誰がいったんだとしてもあれだ、そういうのは駄目だ。ほら、その、風紀が乱れる」
 ことはない、と続けたいところである。だってたかがキスで、それにディーノの感情はもっと真摯で純粋で真面目で………とにかく風紀がどうとかそういうこととはまったく無関係の事柄である。もしも他の誰かから今の自分の台詞をそのまま向けられたなら、即座に手袋を投げつけてやったろう。侮辱するなと殴りとばしてしまったかもしれない。だってうちの子はちょっとばかり戦闘狂なだけでかわいくていい子で、風紀を乱すようなこと、絶対にする筈なんてないのだ。
「しらない。ねぇ、おなかすいた」
「ん。ん? もう、そんな時間か」
 窓の外に視線を向ければ、もうすっかり暗い。いけない。なんといっても我が子は育ち盛りである。おなか一杯食わせてやるのは父として重要な使命だ。
「何作ろうか………てか、今から材料買いに行くのもなぁ。どっか食いにいくか?」
 マンションのすぐ近くにスーパーがあるのだ。空港帰りに寄れば良かったのだろうが、荷物もあったし、それ以前に買い物のことなど頭から抜け落ちていた。不覚である。
「材料ならあるよ」
「え?」
「昨日、いろいろ買っておいたから」
「………………」
 我が子は自分のために天が遣わした天使なのではないかと思うのはこういう時だ。不在の間の生活費は勿論渡してあったけれども、何といっても相手は子どもである。日本に残っているファミリーもいることだし、突然必要なものがあったらそっちから貰えといい置いて、余り多額の金は渡さなかった。そのかわり余ったらお小遣いにしなさいといった記憶もある。「けち」とかいわれたけど。いやでもおまえなんでいつも金の単位五万なのというか、いくらなんでも一日五万は無茶予算だろというか。そんなわけでごくごく現実的な金額でお渡ししたので、残った金はたかがしれているし、菓子でも買うか、それとも風紀の金として使われているとばかり思っていたのである。
「あんがとな」
「ん」
 照れたように俯く様子も微笑ましい。本当に自分にはもったいないくらいできた子どもである。一日たった二万できちんとやりくりしてしまうなんて、もしかしたら天才かもしれない。獅子が我が子を谷底に落とすような心持で厳しい態度をとったけれども、正直心配で仕方がなかった。残った部下が万事差配してくれることはわかっていたが、それとなく頼んだときだって、そりゃあいつは子どもかもしれんがこうなったらぽんと家計をまかすくらいの度量はみせといた方がいいと思うぞボス云々と、自分なんぞよりよっぽど肝が据わりきったことをいいだして、驚いたものだったのだ。いやわかっている。うちの子は金銭感覚のしっかりした真面目な子だ。とはいえいきなり多額の金を預けたりなぞしたら、ちょうどいいから資金運用に株がどうとか、下手したら風紀委員会のためのアジト建設がどうとかいいだしかねない子である。ていうかいわないで断行しかねない子である。いやキャッバローネの財源とディーノの財布はイコールではないし、流石にちょっとしたビルか何かならともかく、アジト建設は無理かなとは思うのだけれども。
「じゃ、じゃあさっそく作るか! 今日も鍋か?」
 秋になりめっきり肌寒くなった頃、かわいらしい小鳥の絵が蓋に描かれた土鍋を購入してからこちら、夕食のメニューはかなりの確率で鍋である。「鍋」と一口にいってもつまりは煮込み料理であるというだけで、具も味付けもかなりフレキシブルであり、つまりはそうそう飽きるものではない。一週間海外にいて和食を懐かしんでいた者としては尚更である。いやオレイタリア人なんだけど。
「うん」
「鍋はいいよなー。体が温まる」
 故郷の家に常駐している料理長をどうこういうつもりは全くないが、豪勢なフルコース、絶妙なタイミングで運ばれてくる一皿一皿よりも、息子と囲む小さな鍋の方が芯から体を暖める。不可思議ではあるが厳然たる事実である。
 たぶんあの、テーブルの上のコンロの小さな炎のおかげだろう。火力としては大したものはないものの、ヒーターや暖房と、目の前の炎では大きな違いがある。そう考えて、だがディーノが思わず思い浮かべたのはあのコンロの火ではなかった。
 いつだったか自分の周りで燃えさかった火だ。熱くはなかった。むしろ、熱かったならもっと何かが変わったのではないかと思う。
 ただそのあとしばらくして、ディーノは自分の中にまだあの火があることに気づいた。普段はまるで燠火のような、ちろちろと燃える冷たくて熱い火だ。それは時としてディーノを熱くし、時としてディーノを冷やした。もはや自分の一部であるようで、どこか違う。この感覚はなんと説明すればいいかわからない。
「水炊きだよ」
「あ、ああ」
 雲雀の一言に、ディーノのぼんやりとした思考は断ち切られた。ああそういえば、鍋の話をしてたっけ、と思う。エプロンを身にまとった我が子は、いつもながらとんでもなくかわいらしい。
「水炊き。あなたコンロ出してきて」
「ん? ああわかった…けど」
 首を傾げて、今一度息子に告げられたメニューを反芻する。水炊き。ああなるほど水炊きな、水炊き………ってちがう。それは違う。
「早くしてよ」
「いやだって、そりゃいいけど………お湯?」
 水を温めればお湯になる。五歳児だって知っている科学の基本であろう。とはいえ、とはいえだ。
「きょ、きょうや!!」
「ん?」
「ごめん!! ごめんな、恭弥。オレ、けちくせーこといって………日本の物価のこととか、ちゃんとわかってなかったのかもしんねぇ」
「なにが?」
「充分足りると思ってて………いやいったろ、足りなかったら残ってる奴らにいえって」
「?」
「…違う、そうじゃねぇ。おまえがそんな弱音をいう筈ないよな」
「だからなにが?」
 そういえばさっきも、ちょっと頬がシャープになったかななんて思ったりもしたのだった。気づいてみればなんとなく、そうそこはかとなくこう微妙に華奢になった気がしないでもないような気がしないでもないかもしれない背中を掻き抱く。その途端腹の底からぞわぞわと駆けあがってくる感触があって、ディーノは大きく首を振って何とかやり過ごした。
「腹減ってんだろ? お湯なんかじゃだめだ。水にはカロリーなんてないんだからな」
「………………それはそうだね」
「おう。わかってくれたか。じゃあ別の」
「鶏の鍋だよ」
「ん。今から買いに行くか」
「違う、骨付きの鶏肉の鍋を水炊きっていうんだよ。材料はもうある」
「へ?」
 じわじわといわれたことを理解する。力いっぱい抱きしめた相手に、ぽんぽんと宥めるように背中を叩かれて思わず赤面した。ありえない。まったくありえない。だいたい鍋というものは大体において水を使用しているはずであり、このようなわかりにくい名称は迷惑千万ではないか。
「あなた、僕が水でおなか膨らしてるとでも思ったの」
「………おう」
「ふ」
「あ、笑うなよこのやろー」
「ぶ、ふふ」
 文句をいいつつもああこりゃだめだなと思ってはいる。なにしろ、見るからにツボに入った顔をしていた。
「ばっか」
「いやだってわかんねーだろ、わかんねーだろこれは」
「そ、れはそうかも、だけど」
「じゃあ水じゃねーんなら恭弥は何食べてたんだ? 昨日何食った?」
「お湯でもないよ」
「いやそれももうわかってるけど!」
 思わず唇を尖らせる。いくらなんでも父親のことを指さして笑うべきではない。
「ハンバーグ」
「ん? んー、そか。恭弥好きだもんなぁ。あ、で昼は何食ったんだ?」
「ハンバーグ」
「………あ、昼に食ったのか。じゃあ夜は?」
「ハンバーグ」
「………いやおまえ、それはやばいぞ脳年齢がほら………………………で、朝は」
「ハンバーグ」
「おまえなぁ、もう、そういうのはやめとけよ…」
 やっぱりか。これは明らかに賢い我が子の記憶力がどうこうという危機的状況ではなく、口煩いことをいう父親がいない隙に好物を思いきり食おうと思ったとかそんなところだろう。ディーノだって子どもの頃ロマーリオが出張だかでいないときに、料理長に強請ってピッツァばっかり作ってもらった記憶がある。すぐばれたけど。しかも飽きたけど。
「もうやらないよ」
「ん? そかそか。うまかったかー」
 わかってくれたならいい。それにまあ一日二日なら、おいしいものを好きなだけ食べて楽しむのだってそう悪いことじゃない。
「あんまり?」
「なんだよそれ。飽きたんだろ、しかたねぇなあ」
「違う」
 ぷんぷく膨らんだ頬をつついてやる。まったくしっかりしているかと思えば、これだから、まだまだ放っておけない。
「じゃあなんだよ。ん?」
「………しらない。ねぇもう、おなかすいたってば」
「え? わ、悪い!!」
 そういえば食事の支度をしようという話だったのだ。ディーノは慌てて立ち上がると棚からコンロと土鍋をとりだした。
「鶏肉をね、水から炊くから水炊きなんだって。それでポン酢で食べるんだ」
 雲雀は冷蔵庫から材料を取り出している。まあ改めて説明を聞いても、まだそれが「鶏肉」の鍋である必然性は見当たらない気がするのだがそれはそれとして。
「そりゃうまそうだなぁ………………って、あれ? あ」
 何かそれ聞いたことある気がする。記憶をたどって、ディーノははたとおもいだした。
「なに」
「ああ、あれな! 水炊きだろ、水炊き!!」
「だからそういってる」
「前にテレビでやってるのみた! なんだよあれだろ、博多の料理だとかで」
「そうそれ」
 随分前に旅番組か何かで見た記憶がある。日本に初めて来た頃は、とりあえず耳から慣れようとテレビやラジオをつけはなしにしていたから、その頃にでも見たのかもしれない。なんか白っぽい色の鍋だった気がする。
「だろ? 思い出した思い出した。コラーゲンがたっぷりでお肌にとってもいいんですー…」
 ってリポーターの女の子がいってた、と続けようとしたところで、ディーノは白菜を切り分けていた我が子が、まるで宇宙人でも見るような表情を浮かべているのに気づいた。ていうかその包丁は取りあえずおろしなさい。
「あなた男のくせにそんなこと気にするの…?」
「へ? ちょ、おいおい」
 何とも前時代的な、性差別的なものいいである。とはいえ息子は、少々華美な服を纏うことですら風紀が乱れると見なしたりもするきらいがあるほどなのだ。男子たるもの男らしく学ランを着こなすべし、とか本気で考えていそうな気もする。というかたぶん今気にすべきは雲雀の男女観やみだしなみへの意識ではなく、父としての威厳である。
「別にそこまで気にしなくてもあなたじゅうぶん」
「違うって、そうじゃなくてだな、ほらあれだ」
 それはマフィアのボスとして、出会った頃なぞいつだってどこだって制服姿だった着たきり雲雀に比べれば、身なりからなにから気を使っている。自分のような若輩者がみすぼらしい格好をしようものなら、舐められて終わりである。とはいえ、とはいえだ。何と説明すればいいだろう。息子に対して見栄を張ったって仕方がない。自然体の部分で評価して欲しいとも思う。だがその一方で御洒落で格好いいと思っても欲しいし、でもそんな浅薄で上っ面な見た目を気にしているとか思われたくない。父親の感情というものは非常にナイーブなのである。
「なにさ」
「コ、コラーゲンって大事なんだぞ。肌だけじゃなくて、関節とか、他にも」
 そんなで捻りだした反論がこれだ。あくまで健康面の効果を期待しているのでありますというスタンス。というか別にオレ、よく考えたらテレビでいってたって思いだしただけなんだけど。
「言い訳だね」
 ワオ、一刀両断。あ、今いったのは勢いよくぶつ切りにされたかわいそうな鶏さんのことではなくディーノの意見である。
「違うって、ほら冬だから空気が乾いているし、取っておいた方がいいんだ。恭弥だって口唇が乾燥してるし………あ」
 忘れよう忘れようとしていたのに、自分から話題にしてしまうなんて本当に馬鹿である。途端にさっきのあの感触が蘇って、ディーノはつい容器から出したばかりの豆腐を握りつぶした。今自分はきっと、とんでもなく赤い顔をしていることだろう。
「………あなた」
「え? なななななななんだ?!」
「僕の口唇が乾いているから、キスしたくなかったの?」
「ななななななん………………………………はい?」
 いっていることがさっぱりわからない。本気でわからない。大体何度懇切丁寧に説明してやったかしれないのにわかってなかったのおまえ。だが、雲雀はもうすっかり納得した顔で、そうかどうりでなるほどねと一人でうんうん頷いている。
「あのなぁ、おまえ」
「手洗って」
 あ、と握りつぶした豆腐を見、食べられなくもないと判断して土鍋に放り込み手を洗う。日本に引っ越したばかりの頃は、もっと悲惨な状態の豆腐をいくらでも食べたものである。いや、いまは豆腐どうとかいっている場合ではない。
「あのなぁおまえ、だからオレは何もしたくないとか嫌だとかいってるんじゃなくて」
「うんわかってる。口唇が乾いているからだよね」
 うんわかってねぇ。さっぱりわかってねぇ。
 だが、そこでディーノは気づいた。もしかしてこれはチャンスなのではないか? 雲雀を傷つけず穏便に何もかも冬のせいにして話をそらすことが可能なのではないか?
「いやーそうなんだ。乾いてるからな。ちょっと乾いてるとなぁ。あー、うんほんと、すげー残念だなぁ」
 我ながら完璧な演技である。ディーノはさりげなさを装って両手で顔を覆うと、指の隙間から我が子の様子を窺った。雲雀はまじめな顔で自分の口唇に触れ、何やら考え込んでいる。その背中がちょっと小さい気がしてディーノは内心焦った。かわいそうに。大体キス如きこの子がしたいっていうならいくらでも。
「…きょうや」
「わかった。じゃぁもう、ごはんにしようよ」
「え? あ、そ、そそそそそうだな!」
 いつのまにやら、もう準備ができていたらしい。大した仕事もせず、これは父の不徳のいたすところである。ディーノは慌てて土鍋をテーブルに運ぶとコンロの火をつけた。
 とにかく、たぶん一応納得してくれたらしい。これできっと少なくとも冬の間は乗り切れるはずだ。ディーノは安堵の息をついた。






















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