ふわり、と風が動く気配がして気づくと僕の首にはマフラーが巻かれていた。紺地に緑と白のタータンチェックのもの。いやどんな柄だろうと素材だろうとどうでもいいのだ。認めがたいが一瞬呆然として、だがすぐに我に返った。振り向くと得意そうに笑っている金髪がいる。
「いつきたの」
「いまさっき」
 
音の響く階段と、とんでもなく騒がしい人。それらが合わさって僕が気づかなかったのだからこれはもう意図的だ。屋上への扉をそうっとそうっと、わくわくと開ける姿が目に浮かぶ。だがそれにしても失態だ。校門の前に止まる派手な外車が見えなかったから気が抜けたたのかもしれない。今日は終業式で既に生徒の姿はなく僕はぼんやりと少し遠くに見える夜景を眺めていた。小さい町だかそうそう派手なものでもない。一ヶ月ほど前から地元の商店街主催で黄と青に輝くようになっていて、当日になったからといってなにが変わるわけでもなく健気に瞬いている。
「いけねーなあ恭弥。警戒が足りなさ過ぎじゃねぇか?」
「誰が」
 にこにこと如何にも嬉しそうにいうものだから笑ってしまう。一応は自称家庭教師のくせにそれでいいのか。
「恭弥が。……怒るなって」
「怒ってないよ」
「ほう。やっぱ薄着でいるしなー」
「こういうの、いらないっていった」
 やりそうなことは予想がついて、釘は打っておいたはずだ。なんだかんだと理由をつけて彼は物を押し付けてくるけれど、マフラーくらい家に帰ればあるし、現金でもらったほうが余程いいくらいだ。
「そういうと思って。大体実用品にしたんだぞ」
「……大体って。他に何があるの」
「見たいか?」
 たかたかと走って、ドアの脇においてあったボストンバッグを抱えて戻ってくる。多分こういうのは明日やるものなのだろうと思うのだが、見せたくて仕方がないのだろう。ぴりぴりと真っ赤な包装紙を破いて、全く誰のプレゼントだかわかったもんじゃない。
「荷物が増えたから後はホテルに送っちゃったんだけどさ。これは壊れ物だから。オレが持ってきたほうが安全だと思って」
「……あなたって失敗するほうに失敗するほうに向かってる気がする」
「えーなんだそれ。……はい、きょうや」
「うん」
 笑顔で渡してきたから、奇跡的に無事だったらしい。受け取ったのは大きな、両手で抱えるくらいのスノードーム。
「並盛に雪は降らないって、……いってたから」
「……ああ」
 そういえばそんな話をした覚えがある。遠い国からしょっちゅうオレオレ詐欺みたいな口調で電話を掛けてくる人に、まずは名前を名乗って天気の話し位するものだと戯れに諭したのだ。てっきり今日はこっちはいい天気だとか何とか、そんな話を聞くようになるのだろうと思っていたら、毎回律儀に天気予報を伝えてくるようになった。日本の。多分パソコンだとかでイタリアにいても調べることが出来るのだろう。明日は傘を持ってけだとか厚着をしていけだとか。まあ便利といえなくもないのでそのままにしてある。で、その日は夕方から雨だろうと伝えた後に、「でも寒いから雪になるんじゃねぇかな」と付け足したのだ。後ろの部分だけ、気象庁ではなく彼のいい加減な予報だとわかったから笑ってやった。もっと北の地方ならともかく、並盛では十二月に雪が降るなんてことはないと。じゃあホワイトクリスマスが無いのかとか、ロマンチックじゃないだとかぶつくさいっていて、僕の町にけちをつけるのかと腹がたったけれど、まあキリスト教徒にはキリスト教徒のクリスマス観というものがあるのだろう。彼の国ではカトリックが大半を占めると聞いている。
 
いつの間にか後ろに回った彼が鞭を使うために硬く大きな手を僕のそれに重ねて、抱えたものをゆっくりと左右に振らせた。銀の雪が舞い上がり、そして降り積もる。
 愛と寛容。クリスマス時期には慣例のように駅前で街宣車がなにやら説法をしている。並盛は僕のものだが、残念ながら法治国家の枠内でもあり、つまりは宗教の自由が認められている。咬み殺さなかったが咬み殺さなかっただけで寛容を強要されている気がした。愛と寛容。多分ディーノは当然のようにそれを信じているのだろう。つまらないな、と思った。僕は寛容になんてなりたくないし、愛なんてずっと知りたいとも思っていなかったのだ。ああでも
「いいもんだろ? ホワイトクリスマスっていうのもさ」
「……うん」
 判る気がする。
「綺麗だろ?」
「当然だね」
 背後で笑いをこらえている気配がして、僕までなんだか愉快になった。気づかないとでも思っていたのだろうか? 校舎裏の欅や桜に小さな、本当に小さな赤いリボンが飾られているだけで、あとはもうそっくりそのまま、並盛中学のミニチュアだった。数えてみたけれど柱や外階段の数も同じで、窓にはとても薄いガラスが張られ、透けて見える限りではちゃんと机や椅子が置かれている。
「すごいね、これ。どうやってつくったの」
「うん!」
 ぎゅうっと腹の辺りにしがみついてくる腕に構わず、もう一度ドームを振った。ふわふわ、銀の雪が降る。
「草壁にー、航空写真とか設計図とか借り」
「へえ? 危機意識がなってないね。あとでいっとかないと」
「や! 無理やり! オレが無理やり借りて!!」
「ふうん。なら仕方ないか。拷問でもしたの?」
「するわけね、……いや! したした! 超した!」
「つまらないな。僕も混ぜてよ」
「おまえなー。このやろー」
 冷たい手が僕の頬をぐにぐに揉んだ。寒いのに暑くて、僕の頬は火照って仕方なかったから、大人しくされるままになってやる。
「……なあ、恭弥」
「ん?」
「二人きりなんだぜ?」
「どこが」
 こんなやわなものを壊さずにもってきた時点でわかっている。彼の影になって見えないが、多分階段のあたりにいつもの部下が暇そうに突っ立っているのだろう。
「ほら。わかんねぇ?」
「……ああ」
 これもまた気づかないわけがない。同じ縮尺で作ったらわけがわからなくなると考えたんだろう。ちょっとした小型怪獣みたいなサイズの金髪の人形と、それよりは少し小さな黒髪の人形が屋上に並んで、校庭に積もる雪を見ている。もう一度振る。ふわふわ、銀の雪。
「ふたりきり」
「うん」
「あなたはそういうの、嫌なんじゃないの」
 いつだって群れずにいられない、厄介な人だ。そういってやると小さな溜息が耳を擽った。
「そりゃあ、本当にこの世界で二人きりになったら困ると思うぜ。寂しいし、人と関わるのも重要だ。お前だって咬み殺す相手がいなくちゃ嫌だろ?」
「僕はあなたとやれればそれでいいよ」
 ああ、へなちょこだからやれなくなるのか。まあそれでもいい。
「……ワオ。うん……でもなー。でも、うん、でもな」
「……でも?」
「これが完成して、届いた時な」
「うん」
「なんか、すっげーな」
「……」
「すっげー羨ましいなって思っちまったんだ」
「駄目だね」
「ああ。そうなんだ。駄目なボスなんだ」
 腹に張り付いている無駄に大きな手をはがして、ドームに寄せる。全て任せた時点で、おおっとか声をあげているんだから全く彼のいうとおりだ。後ろに手を伸ばして、頭をぐしゃぐしゃ撫でてやる。
「来年には降るよ」
「ああ」
「遅くとも一月末にはね。すごく降る。つもるよ……何笑ってるの」
「や、かわいーなと思ってな。来て欲しいとかいえねぇ?」
「いえ……いわない。あなたが来たいんじゃないかと思っただけ」
「そうだな。来るよ来る来る。年明けすぐは忙しいけど、二月くらいには」
「そう」
「楽しみだな!カマクラとか!雪合戦!」
「負けないよ」
「日本の雪は滑りやすいからな。気をつけろよ」
「何それ。負けた人は雪かきだよ」
「えー……まいっか。負けねーぞ。約束」
 約束、と僕は頷いた。指は絡められないから、二人でドームを持って振った。ふわふわ、銀の雪。
 来年になれば、並盛にも雪が降る。ふわふわ、こっちは白い雪だ。汚れた空気を吸い取って、それでも白い雪。人形ごときを羨むなんてプライドが許さないから、そのときはディーノと二人して、屋上で雪が降るのを見てやろうと思った。





 食事をして、それからいつもの彼の宿泊先であるホテルに向かう。車は裏門のほうに止めてあった。群れているのが嫌でも予想がついたから、提案されたイタリアンは断った。ディーノは予約が、とか部下に行ってもらうかとか一人でわたわたした後、交換条件だといった。食事は寿司。でもホテルに行ったらシャンパンを飲んでケーキを食べる。
 甘いものは嫌いではないので了承した。多分ディーノとしたら、どうしてもクリスマスっぽいことがしたいのだろう。明日になれば日本では投げ売りされるだけのホールケーキが、彼にとっては何か……例えば年越しそばとか御節みたいに欠かせないものなのかもしれない。街でもホテルのロビーでも、ツリーが飾られ電飾が瞬いていた。とりあえず賛美歌ではないことだけはわかるクリスマスソングも流れ、サンタの格好をした女がケーキを売っている。僕にだって群れた、おかしなやりようだということはわかるのに、この人はどんな風に考えているのだろうか。
 エレベーターで最上階に上がり、そこは流石に何も飾りつけなどされていなくてほっとする。冷えたな、などと僕を擽りながら彼が不器用に差し込むだけのキーにとんでもなく手間取ってドアを開けるのは、部下が食事に出ているからだ。
 やっとドアが開いて唖然とした。ロビーのほうがまだましなくらいだ。部屋中にライトがちかちかと瞬き、金銀のモールや鈴が垂れ下がっている。並盛では一番いいホテルのはずだ。ディーノは何度も利用していて、彼がイタリア人だってことくらい知っているはずなのに、なんでこんなにごてごてと飾り付けてしまったんだろう。
 リビングのテーブルの上にはシャンパンと、小型なホールケーキが既に用意されていた。それだけでやめておけばよかったのに。ダウンライトからリース、いやリースらしきものがぶら下がっていた。
 僕は詳しくないが、クリスマスリースっていうのは大体緑色でこう、ヒイラギかなんかで出来てはいなかったか。だがこれは単なる木の枝で、しかも丸い輪ですらなかった。無理やり丸く繋げようとしたものだから途中でボキボキ折れて、四角といったほうが正しい形態になっている。そしてその無理やり繋げた赤い紐に、これは天使だろうか、多分翼がついているから天使なのだろう、やたら不恰好な黄色い頭と黒い頭の木彫りの人形が首から結わえ付けられている。さっきリースらしきもの、といったが訂正する。まず間違いなく、なんか呪いの道具だ。
「ぶっっつ!! あっはははははは」
 咽たような笑い声がして振り向くと、ディーノが体を折り曲げて笑っている。それはそうだろう。日本でキリスト教はそう盛んというわけではないが、いまや国際社会だ。無知で滑稽な様に見えるのかもしれない。自分には関係ないといいたいが、ここは並盛のホテルである。居たたまれなかった。
「どうしたの」
 
聞いたのは意地だ。ほとんど。
「んー? っく。はは。部下の愛情に感じ入って?」
「……なにそれ」
「時間ねーのに飾りつけなんてしてくれたんだなーって。とんだサプライズだぜ」
「あなたの部下がしたの? 本当に?」
「うん絶対。他に誰がすんだよ。……うれしい?」
「うん」
 嬉しいというかほっとした。これはイタリアの趣味か。そうか。
「そっかー。じゃ、恭弥。座って」
「やだ」
「え、何でそこで反抗? 察してる?」
「何を」
 とりあえずこの人の部下の仕業だとして、こんな木屑どころかそのまんま落ちてきそうな物体の下のソファには座りたくなかった。絶対。
「きょうや。な?」
 ちゅ、と彼が目蓋にキスをする。反対側にも。くすぐったい。
「ケーキ食べるって。約束したろ?」
 もう一回。今度は頬にも。
「……」
 もう一回。
「ん。いいこ」
 鼻先と髪の生え際にも。
「ケーキ」
「ん?」
「ケーキ食べられないよ。離れて」
 もう一度頬に。そして耳に。……それは駄目だ。
「駄目じゃねぇよ? 恭弥」
「……だめ」
「駄目じゃねぇよ。これさ、ヤドリギ、っていうんだぜ」
 首筋に。
「……?」
「その下にいるときはキスされても文句いえねぇって風習があるんだ」
「……何それ。知らないよ。これリースじゃないの?」
「リース……うんまあ形がな、リースにちょっとにてるけど材料がヤドリギ……了解?」
「じゃない」
 顎先に。それから最初にまた戻るみたいに目蓋に。
「うん、やじゃないだろ?恭弥はキス好きだもんなー」
「や」
 ちゅちゅちゅ、と三回。くすぐったい。くすぐったくてなんかちょっと物足り
「うん?」
 このやろう。緩んでいる頬を抓ってそのままひっぱった。そのまま唇に咬み付いてやる。
「文句」
「ん?」
「いわないで」
「……いわねーよ」
 ぐいぐいと侵入してきたひどく熱い舌を軽く咬んで、それから吸った。歯列をゆっくりとなぞった舌先が口蓋の裏を掻いて、いとも簡単に力が抜ける。ちゅ、と今度は上唇の端を吸われて、睨みつける。
「……うん、わかった。もっかい」
 今度はもっと乱暴で、性急なキスを。飲み込めない唾液が首筋を伝って、それをディーノが舐めとった。シャツはもう肌蹴られている。
「……や」
「やぁ?」
「シャワー、浴びてな、い」
「オレは恭弥にキスしてるだけだぜ?」
 よくもまあ。彼の手はもう僕の下肢の辺りに伸びていた。もう一回首に。胸と鎖骨の辺りに。もう、抗えない自分を感じていた。熱が溜まりすぎている。もう一度。今度は唇に触れるだけ。
「全部だ、恭弥。全部キスしてやるよ。もうやだって、いうなよな」
「あなたもね」
 もう一度触れるだけ。だがすぐに耐え切れなくなって舌を絡めた。気持ちいい。全部。全部っていったのだ、彼が。だから全部。
 息ができなくなって咳き込むように体を離して空気を求める。目をやると、ぼんやり呆けたような顔が目の前にあった。
「どしたの」
「……しあわせ」
 何が。こんな風に追い上げられて、互いの欲望にはちきれそうになっているいま、それはない。耐え切れないほど吐き出したくて、仕方がない。甘い琥珀の瞳と、赤い、キスをした所為で赤い唇が目の前にあってそれはいまの僕にとって快楽と同義だった。もう一度。ああでも。
 そうか。そうなのか。蕩けた目をして、濡れた唇でディーノが幸せといった。それは多分嘘じゃない。弧を描いていた唇が、薄く開かれて近づいてくるので目を閉じた。そのとき僕は、僕がいま幸せだということに気づいたのだった。









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