「なあロマ、ちょっとゆっくりやってくれるか?」
 汗と埃で額に貼りついた髪を髪を整えてやりながら運転席の部下に声をかけると、もうすっかりわかっていたみたいに、低く抑えられた声での応答があった。バックミラーで見えていたのかもしれない。
「おう。なんだ坊主、寝ちまったのか?」
「ああもう、ぐっすりだ」
 ホテルまでの道はそれほど交通量も多くなく、オレの趣味とはちょっと違うが仕事上の都合で度々使っている黒塗りのベンツは、ちょっとしたマラソン選手なら楽々かわしていきそうな速度で走行しながらも、クラクションを鳴らされることも追い越されることはなかった。これがイタリアならまったく考えられないことで、日本という国は本当にマナーを守る素晴らしい国柄である。
「てか並盛だからか? なぁ」
「むう」
 思わずぷくぷくした頬をつつきそうになって、しかも返答があったものだから、オレは今にも飛び上がりそうになった。
「って寝言かよ!」
「ボース、おとなしくしろー」
「お、おお」
 冷静な突っ込みが入って、オレはなんとか平常心を取り戻した。かわいい弟子の眠りを妨げるのはよろしくない。たっぷり手合わせをしてやったから、さぞ疲れているのだろう。てかオレの方が
「つかれたー」
「おいおい、大丈夫かボス」
「え? いや大丈夫だぜ? ただ日本来てすぐ商談だったしな。気疲れしちまった」
「あんたがそういうキャラかよ…」
「ん? どうした?」
 一カ月ぶりの渡日。本国にたまった仕事は何とか片付けてきたけれども、日本についてからがまた強行スケジュールだった。後に回したなんてばれたらきっと鬼のように怒る元師匠に挨拶にいって、その後で取引先を数軒回ったのだ。新しい話も進んだので、全く無為ではないけれども、困るのがどの会社も日本に来たばかりのマフィアのボスに日本文化を開陳しなければならないという使命感に駆られているらしいのだ。時間の都合ですべて午後になったのがまずかったらしい。料亭を用意してあります、芸妓を呼んであります………正直興味がないわけがないわけで、後ろ髪をひかれない筈もないわけで、だが約束一つしてないけれどもオレには弟子が一人いて、普段はオレの勝手な都合で一緒にいない分、空いた時間が一分一秒でもあれば相手をしてやりたいとそう考えているわけで。すまないと心の底で謝りながらいやそれにしちゃみんな満面の笑顔で送り出してくれたけれどもそんな感じで、取引先を後にする度に部下を二三人残してきた。薄情な上司であると糾弾されたって文句はいえない。
 そんなわけで何とか辿りついた並盛中学校。その屋上。オレは弟子に強請られるまま手合わせをしてやった。
 いやそのことに不満はない。日本に来た時点で予測していたことでもあるし、また彼を鍛えることはオレの役割でもある。それに、狭い機内やビジネスの場で、身体をまともに動かせない時間が続いていたから、単純に汗を流すのも悪くないと感じたりもした。だが、ひとたび手合わせが終われば、いつもいつもの質問コーナーのお時間である。
 以前、二人で修行の旅に出た頃から、彼はまるで子どものような好奇心を湛えて、オレにさまざまなことを聞いてくるようになった。ああ、これでオレを師匠だとは認めていないだとかいうのだから、どうしようもない。だがそれが多分彼からしたら本心なのだろうことも、オレは知っている。
 つまり彼はオレを試しているのだ。オレが質問に答えられるか。いやそれともただ単に、彼に嘘をつかないか、ということだろうか。信頼に足る人間であるかどうか。そしてなんとも困ったことに、オレはそれが嬉しくて仕方がない。恭弥がオレに試練を与えるというならば、オレはバリネズミの皮衣だって雲雀の子安貝だってなんだってみつけてきてやるし、そのチャンスを与えられたことに喜びを感じることだろう。だが、オレの意気込みに反して彼の質問は殆どがあまりに他愛なく、その癖時折、何も知らないからこそ他意なく踏み込んだことを聞いてきたりもするのである。基本的には戦いに関することで、どんな敵と戦ったのとかどうやって勝ったのとか、だからああ恭弥らしいななんて油断していたらいけない。なんでトンファーじゃなくて鞭を使うのだとか、どうしてそんなにあなたきらきらしてるのだとか、なんであなた先生とかいうくせに毎日僕と戦わないのとかなんでなんでなんでどうしてどうしてどうしてこの子はこんなにかわいいんだろう?
「そーれは俺に聞かれてもわかんねぇなぁ、ボス」
「ってロマ!! 聞いてたのか?!」
 思わず身体が跳ねる。全部口に出していたりなぞしたのだろうか。相当恥ずかしい。
「聞いてるこっちが恥ずかしいぞボス」
「え? いやその………わりぃ」
 あれオレなんで謝ってんだろとか思いながらもつい頭を下げた。長年マフィアのボスなんぞやってると身につく条件反射である。
「ああまあ俺はいいんだがな。若いもんの前とかじゃなきゃ。だがあんた………」
「あ、うん、すまん」
「なんでそこまで口にしといてわからねーでいるんだ?」
「ん? どうしたロマ。おまえまで恭弥の口癖がうつっちまったのかよ。
 
思わず笑う。なんでなんでと口にする幼い弟子はかわいくても、四十近い歳の部下同じことをいったとなるとそうかわいいとも思えないが、もちろん口にはしない。オレは空気の読めるボスである。ああもちろんわかっているとも。なんでもなにも、恭弥は弟子なんだからかわいいに決まっている。ただオレは今まで弟子なんて持ったことなぞなかったから、まさかこんなにかわいい存在だとは予想だにしていなくて、ちょっとびっくりしているだけなのだ。
「………ボス」
「なんだよ、わかってるって。恭弥は弟子なんだから、かわいくてあたりまえ、だろ?」
「………なんで」
「あ、きょうや。おきてたのか?」
 寝ている間もオレに質問をしていたのだろうか。舌足らずな疑問符を落としたままぱちぱちと瞬きをしてみせた我が弟子は、しばらくぼーっと空をみつめたあと大きく眼を見開いた。
「もない」
「きょうや? なんだよ、オレに聞きたいことがあったんじゃねぇの?」
「なんでもない。あなたに聞くことなんて何もないよ」
「恭弥。それはないだろ。オレはおまえの先生なんだぞ」
 しかもさっきまでこの子はなんでなんでとオレを質問攻めにしていたのだ。いくらなんでも気まぐれにも程がある。オレはつい微笑んで、その丸っこい頭を撫でてやろうとすると、ぴしりといきおいよく手を叩かれた。地味に痛い。
「きょうや」
「知らない。あなたのいうことなんて」
「おまえ………なにいってんだよ。オレはちゃんと、いつも正直に質問に答えてるだろ?」
「本当かな」
「な!!」
 ふんと鼻を鳴らす幼い様子に息を呑んだ。
 オレは彼に嘘をついたことは一度もない。もちろん、数え切れないほどの質問の中で、率直に答えられないものなどいくつでもあった。オレはマフィアのボスで、後ろ暗くない部分を探す方が難しいような人間である。だが話しにくいことは話しにくいといったし、そうさせる理由が明かせるものであるなら明かしもした。オレは正しい人間とはとてもいえないけれど、せめて恭弥の前では正直でいたかった。勝手な話だと思われるかもしれない。だが実際、恭弥と一緒にいる時オレは、まるで子どもにかえったみたいに嘘のない態度をとることができた。そこに気負いも策略もない。
 実際の状況を考えれば、オレが恭弥の家庭教師になる話が出てきたのはマフィア同士のパワーバランスの問題が大きく絡んでいて、だけれどももし恭弥に問われれば、おまえの先生になったのはただ強くしたかったからだとはっきり答えることができる。今やそれがオレの本音だった。恭弥と同じ武器で戦わないのはオレは子どもの頃から使っている武器が一番慣れているからだし、きらきらして見えるというならそれは金髪が光を反射しやすいせいだし、毎日戦ってやれないのはオレがマフィアでイタリアに本拠地があるためだ。何度となく繰り返された質問。オレはこの子どもを納得させるべく答えを探して、そしてなんとか見つけ出すそれはいつも、オレ自身が驚くほど真摯だった。敏い子は、オレがわざわざ触れずに済ましたくだらなく汚い事情に気づいていたのかもしれない。どこか納得しきれないみたいに首を傾げて、ああでも絶対、ふうんって小さく頷いてくれたのに。
「別に疑ってるわけじゃないよ。でもあなた何もわかってないんじゃないの」
「………………………何を?」
 はぁ、と思わせぶりな溜息が聞こえた。ってか重なって二つ聞こえたような気がするのは錯覚だろうか。我が弟子は腕を組んで、これは教えてやろうかなどうしようかなという態度である。なんでさ。
「別におかしいことじゃないよ。僕も今気づいた」
「「今かよ!!!」
 
それにしちゃ偉そうな態度に思わず突っ込む………と、そこでも自分の声に重なったもう一つの低い叫びが聞こえた気がして、オレは目を見開いた。
「え、ロマーリオおまえ…」
「いやその、つい、な。すまん」
 
運転席の部下は、後ろからでもわかるように大きく手を振って見せた。全くできた部下で、だがかように発言するということは、彼は既にボスであるオレの問題点を把握していたということだろうか。
「じゃあ君が説明しなよ」
 なんでだよ、と突っ込みたくなるような結論を口にして、恭弥は大きく胸を張った。かわいい。だが部下はそうは思わなかったらしい。まるで首を絞められたような声を発したままブレーキを踏んで、こっちの方が死ぬかと思った。
「ちょ、坊主、それはなんつうか………あれだ」
「なに」
 すぐにそれなりの速度で走り始めた車内とは思えない程、恭弥の姿勢は縦揺れにも横揺れにも対応して美しいままで、澄んだ視線を、疑問を纏わせたままバックミラー越しの部下に向けてみせた。横から見ているだけでもオレにはわかった。その透明な瞳をオレは何度となく見ているからだ。
「恭弥。ほらそのあれは………あれだろ」
「だからなに。答えなよ跳ね馬」
 みなれた、だけれども見るたびに息を呑む程美しい瞳が今度こそ自分に向けられて、オレは当惑した。なにってなんだ、その、それはあれだ。子どもの頃からつきあいのある部下だが、このかわいい子の質問に渋った理由なぞ、わかるはずもない。
「あー………そのそれはだな」
「それはだな、坊主。そのあれだ。そういうことは若いもん同士、な?」
「なにそれ」
本当になにそれだ。だが質問に答える役目を訳がわからないまま奪い取ろうとした上司のことなぞ歯牙にもかけず、ロマーリオは重々しく説明をする。
「ほらつまり………ああ、つまりおまえさんもな、なんでなんで聞いてばっかいねぇでたまには」
「いや、気にすることはねーんだぜ、恭弥。オレはおまえの先生なんだからな、何でも聞いてくれて」
「別に」
「………ボス」
「あいやその」
 沈痛に、窘める声をかけられて我に返る。あんまり部下が口幅ったいことをいうのでつい割り込んでしまった。我ながら大人げない。恭弥が質問ばかりしてくるからといって、全く手を焼かないといっては嘘になるけれど、それにこたえるのがオレの仕事でその役目を放りだすつもりはない。だけれども恭弥がオレのいうことに疑いがあるというなら、誤魔化さずに話を聞いてわかりあわなくちゃいけない。
「その、でもオレも知りたいな、恭弥」
「だからな………」
「にってそりゃ、教えてくれってことだ。ほら、今日だけはおまえがオレの先生になってくれよ」
「………先生」
 かわいそうに聞きたい質問も引っ込めようとした素直な子に、できるだけ優しく促してやると、ムスっと曲がっていた赤い唇がうずうずうずと動いてああもうかわいい思いきりしゃぶりついてキスしたい………………………ってあれ?
「しかたがないね」
「ひょっえっ?! て、え、なっ!」
 今オレ何考えてた。かわいい唇がまたちょっと尖ってみせて、オレは慌てた。おおいに慌てた。
 なにあなた、聞きたくないの」
「いやっ聞きたい、聞きたいぜ。先生、教えてほしいな」
「ふうん、まあそこまでいうなら」
「ああっ! ボス、坊主ほらあれだ、もう着く、ホテルに着くぜ!」
「え?」」
 はた、と二人して固まって、窓の外に視線をやれば確かに泊りなれたホテルに程近い風景が流れている。我が部下は最後の最後に思いきりベンツを加速してみせて、数分とかからずロータリーに滑り込んだ。
「いいか、そういう話は部屋に入ってからしろよ、ボス。部屋に入ってからだ。間違ってもロビーなんかで話し込むなよ」
 俺は車を止めてくるからなと、いやに真剣な顔で部下は忠告してくれた。確かに定宿であるとはいえ、不特定多数の人間が行きかう場所である。一応はマフィアのボスがロビーだのなんだので部下もつれずに長居するのは、好ましくないのかもしれない。おとなしくうなずいて、オレと恭弥は車を降りた。









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