番犬



 待ちに待った夏休みだ。といってもオレのじゃない。オレの年下の恋人様のもので、だがあの学校第一の少年が「休みだ」というのなら、それはもうオレにとっても自動的に休みだとか休暇だとか取り敢えず浮ついた日々だということだ。
 というわけで最大事項だという並盛市での祭りが終わるなりイタリアに掻っ攫ってきた。何がというわけでかというと、前述のシンプル極まりない結論が、嘆かわしくもビジネスの場では全く通用しないということだ。しかも不況だというのにミラノ辺りに行けば日本人観光客が押し寄せているこの時期、緊急の商談があるので日本に二三週間滞在したいだとかいっても疑われるのがオチである。実際のところそこまで暇が捻出できるはずもない。イタリアにいる部下にも紹介したいと頭を下げ、ついでに涼しいところで手合わせをしようと誘いをかけ、なんとかこの年中無休で学校に張り付いてるような子どもを連れ出してきた。タラップを降りるなり気温について文句をいっていたが、地図を見れば判るとおり並盛よりも緯度は上なのであり、例年は凍えるように寒く今年は温暖化だとか天候不良だとかなんかそんな関係だという説明で、何故か納得したようだ。来年もこれで通用してくれるだろうか。
 表門から入り、愛車を屋敷の前に横付ける。助手席に回りドアを開けると、敷地内に入ったあたりからうとうとと舟を漕ぎ出していた恭弥は、ぱちりと目を開けた。
「なに。どこなのここ」
「どうした、寝ぼけてんのか? イタリアだぜ」
「知ってる」
「んー……オレんち?」
「おれんち?」
 やはり寝ぼけているらしい。あどけなく復唱する様がかわいくて仕方がない。どうにもぎゅっと抱きしめたくなる。
「目がまんまるだぞ恭弥。あ、暑いんだろ」
 エアコンが効きすぎていた飛行機の中からずっと羽織っていたカーディガンを脱がしてやる。その下に着ていたシャツもかなり生地厚で、罪のない嘘のつもりだったのだが、持ってきた服が全部この調子なら明日にでも買い揃えてやらなくてはかわいそうだ。
「ってあなたの家なの?」
「おお。すぐ案内するな」
「あ」
 カーディガンを畳みつつ頷いてみせると、恭弥が何かに気づいたように遠くを向いた。みると庭内を放し飼いにしているドーベルマン数頭が駆け寄ってくるところだった。
「あ、大丈夫だ恭弥、そいつらは」
「犬だ」
 含むように笑うと恭弥は体をそちらに向けた。きちんと訓練されてはいるが、図体も大きく勢いをつけて走っている。咄嗟にとめようとして、だが犬達は恭弥と目があった途端、ぴっと、笛の音でも聞こえそうな感じで動きを止めた。そのままお座りの姿勢をとる。ちょっと待て。
「恭弥、おまえそいつらをどうする気だ?」
 一通りの芸のバリエーションを恭弥が日本語で命令し、なぜか彼らが粛々とこなしていくのを目撃した後、オレは恐る恐る聞いた。いや、恐ろしいことではない。これはきっと、心と心で通じ合ったとか、なんかそんな心温まるエピソードなのだきっと。
「躾がよく出来てるね。悪くない」
「どういう意味だよ」
「怖くないよ」
「知ってるよ! ……怖くねぇよ!」
 だから怖いことなど一つもない。訓練された、しかも賢い犬種だ。しかも犬は序列を重んじるという話で、オレはこのキャバッローネのボスなのだ。そりゃガキの頃は追い掛け回されたりもした。だがそれも今にして思えば、訓練前の時期の仔犬がじゃれついてきただけの話なのだし、それも某家庭教師の企みあってのことだ。しかもその後どんどんとエスカレートしていったイヌ科に属する動物との修行に比べれば児戯にも等しい。怖くない。さっぱり怖くない。
「……あなたを守る役に位たつんじゃない」
「……おまえ、なあ。素直にかわいいならかわいいっていえよ。そんなに従えて」
「従えてない。あなたのものは僕のものだよ」
「夫婦の財産共有には異論はないものですが、二三確認したい事柄がございまして」
 さりげなさを装いつつ玄関の前に回る。いやこの不安は根拠のないものだ。だが一方でオレは直感というものが如何に重要かを知っている。
「僕のものは僕のものだけど」
「やっぱりか! いやそれはいいんだけどな、いいけど」
「夫婦じゃない」
「やっぱりか!! おまえそこは頷いとけよ」
「プロポーズされた記憶はないけど」
「なんでだよ! じゃあする。今すぐする。何度でもしてやる」
 両手を掴み真摯な言葉を囁こうとした途端、ひどくうんざりとした表情を浮かべてくださった。いくらオレだって傷つくんだぞこの野郎。
「……あなたそんなに犬が惜しいの」
「違げぇよ!」
「じゃあどきなよ」
「ちょっと待て。ちょおっと待て」
 慌ててドアに張り付く。馬鹿みたいに重い樫板の向こうの人の気配が確かに感じられた。思えば敷地内に入って既に三十分近い。車が到着したのは既に知られているだろうし、部下達が揃って待ちかねているのだろう。恋人を連れてくると予告していたのだからそれも当然だ。だがいやしかし。
「あなたそんなに自分の部下を信用してないの」
「してるよ! ただオレはちょっと確認しておきたいだけで」
「じゃあ今すぐドアを開けなよ。あなたがファミリーに紹介したいってわざわざ連れて来たんだろ」
「そうだけど! いや待て。少し待て」
「なんなのさっきから。僕は犬じゃないよ」 
「知ってるよ! なあ恭弥、わかってるよな人間は犬じゃない」
「何いってるの。わかってるよ。あなたの部下は僕の犬じゃない」
「そうだよな。……うん、そうだ」
「あなたの犬だ」
「え、いやだから」
「一週間もあれば僕が完璧にあなたを守る不屈の軍団として鍛え上げて見せるよ」
「うわおやっぱり! いやあのな」
 数時間前のオレなら何を馬鹿なことをと笑って見せただろう。だがあの犬達の一応主人であるはずのところのオレにすら見せない絶対服従の姿勢はどうだ。そしてオレはもう一度、彼の口にした恐るべき言葉を反芻する。あなたのものは僕のもの。
「一糸乱れぬ動きで敵を駆逐する」
「……そうか」
「あなたも満足するはずだ」
「いやおまえ……オレの部下をリーゼントにする気じゃねぇだろうな……」
「そういえばあなた、この子たち断耳とかしてないんだね」
「え、だって痛えだろそんなの。かわいそうじゃねぇか」
「あなたらしいね。うん、僕もそう思うよ。人の都合で動物にそんなことをするのは間違ってる」
「恭弥……」
 きゅん、と小さな声で鳴いた犬の頭を恭弥は優しく撫でた。ああオレは間違っていたのだ。なんて優しい子だろう。
「あなたの部下たちって黒スーツってだけで結構違う型や店のもの着てるよね」
「きょ! ……いやそれくらいいいだろ、大人なんだから!」
「材質が違うから同じ黒っていっても、かなり違いが出るよね。統一感がない」
「いやいやいやいや」
「わかりづらいよ。不便だよね?」
 どう考えてもわかりやすい。普段から人の顔を覚えられなそうな奴だとは思っていたのだが。しかしこれは恭弥なりにオレを心配してくれたのだろう。うん、きっとそうだ。
「でも髪形を変えることは痛みを伴わないよ」
「……う」
 にぃっこり、恭弥が微笑んでオレの頭をなでる。きゅん、と今度はオレの胸が鳴ったのが聞こえた気がした。いや、違う。駄目だ違う。だが中学生ならともかく、いい歳した大人がリーゼントにすることには大きな痛みが伴うのだということをどう説明すればわかってもらえるだろう。
「ボォス!!」
 盛大な叫び声が上がって、驚いて振り返る。屋敷のドアと窓が次々と開けられた。とうとう待ちかねたらしい部下達が頭を出し、駆け寄ってくるものもある。「やけに遅かったな」「おお、かわいこちゃんじゃねぇか」などと、騒いでいるものもいる。オレは恐る恐る恭弥の顔をうかがった。今更だがうちのファミリーでは内勤の者にはそこまで厳しい服装規定は課していない。もとよりボスのオレが堅苦しい服装は好きではないのだ。大きな群れに驚いたように体を固めた恭弥が、ジャケットを着ていない者や、イタリア人らしい好みのネクタイを締めている者を見つけて目を見張るのをみて、オレは頭を抱えた。
「…………ディーノ」
「お、おお。なんだ?」
「安心しなよ。あなたの群れは僕がちゃんと躾直してあげるからね」
 トンファーが握られ獲物を視線を向ける、その寸前に優しげな笑みを浮かべた。もう一度きゅん、とオレの胸が鳴った。オレの中の犬が鳴いた。駄目だおまえら。おまえらのボスはもう駄目だ。
 だが暖かい歓迎の言葉を背に受けて、同時に力が湧いてきたのも事実だった。オレはオレのかわいいご主人様に歯向かうべく、鞭を握った。
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