ヴァレンタイン・イヴ



「あーん。ほら、恭弥」
 食べるくらい一人で出来る。そういってやってもよかったのだが菓子で唇を擽られて、雲雀は渋々口を開いた。このままでは茶色い口紅を顔中に塗りたくられたみたいな顔になってしまうだろう。相手はとんでもないへなちょこだ。
 応接室は仕事の場所だ。それはもう疑いようがない。だがこの男が菓子を摘まんで見せるだけで、とんでもなく甘ったるい気分にさせられる。
 舌の上にチョコレートを配置していった指は既にそれで汚れていた上、あちこち粘膜を擽っていったから、咀嚼する前からなんとなく予想はついていたことだった。中味はヘーゼルナッツのペースト。そしていつも食べるチョコレートよりも、かなり甘い。ちなみに「いつものチョコ」とは日本の年号を掲げた企業のものでもなければ、お口の恋人だとか言い張っている企業のものでもない。雲雀の恋人だと言い張っている男の国のものだ。細かいことを聞いたことはないが、金だけは唸るほどあるらしい人間の買うものだから、それなりに高価なものなのだろう。なんだかんだといいながら、いつもついつい食べてしまう。だが今日彼が持ってきたチョコレートはいつもよりかなり甘く、かつ包装もいつもよりかなりおざなりだった。いや不味くはないのだが。
「どうしたのこれ?」
「土産。ブラジルの」
「ブラジル?」
「おう。バイオ燃料の工場を買収する話があってな。農場も一緒に。昨日契約してそれから日本に来たんだ」
「農場?」
「うん。活用してない土地もかなり残ってて。いくらでもやりようが。あんま交通機関が発達してないのがネックだけど」
 もいっこ、とまた持ってこられたので口をあける。ディーノは汚れた指をぺろぺろ舐めていて、子供みたいだとも思うのだが、もう今更だ。トンファーを振り回す気も失せた。チョコがとんでもなく甘いくせ、妙に後を引くということもある。
「砂糖黍で作るんだぜ。あ、恭弥食ったことある? 持ってくりゃよかったなー」
 躊躇いなく話すということは、きな臭い仕事ではないのだろう。雲雀は興味を失い欠伸をして、だがふと気づいた。そうそう危ない話ではなくとも、ディーノは仕事の話はあまりしない気がする。
 全くというわけではない。将来的には雲雀が同じ職種につくものと、ディーノはもう頭から決め込んでいて、だから時には説教込みで仕事の話を聞かせることもないではなかった。雲雀からしたら異国の話で、血生臭い展開の一つもなければつまらないことこの上ない。適当に聞き流していたけれど、そういえばこんな無造作に、内幕を話すことは少ないのではなかったか。何か隠そうとしている? 思い返せば彼が現れたとき、顔を覗かせたのはいつもの部下ではなった……気がする。
 とはいえいつもの団体行動御一行様で、目にするのは初めてではない。大体そこまで引き連れて動かなければならない位なら、狙撃されて死ねばいいのだ。自分で自分の身も守れないなんて単なる馬鹿だ。守りたい者を山盛りいっぱい抱えていなければならないなんてお話にもならない。単純な連鎖反応で、自分がいなくなれば一蓮托生な部下ばかりなのに、そんなことも想像がつかないらしいのだあのへなちょこは。
 思わず怒りがこみ上げて、だが何とか冷静になる。そう、いつもの部下ではない。代わりに来たのは頭頂部のみに髪を生やした男だ。名前は聞いた気がする、が思い出せない。
 遺憾なことにここ最近変な髪型の人間は見慣れている。それもこれもあの草食動物の所為だ。自分のように短髪にするか、そうでなければ整髪剤ですべてまっすぐ固めてしまえば何の問題もないのに、個性を主張しようと、やたら某果実を連想させる髪型にしたがるのだ。あの部下も多分それだ。だがその上司のほうがよっぽど派手派手しい。髪型自体はそう奇抜なものではないけれど、とんでもなく色が派手だ。きらきらして人目を惹いて、そのまま離さない。いつもの部下は流石それをわかっているのか、無駄に髪型で目立とうとすることはなかった。何があったのだろう。
 もう一つ口の中に放り込まれた。指に噛み付いてやる。甘い。
「ロマーリオは?」
「え? ……お前あいつの名前知ってたのか?」
「何あなた。とうとうあの人を国に帰したの?」
「ちっげーよ! 違えよ。なんだよ、出身地まで知ってんのか。仕事が忙しくてな。あいつはイタリアにいる」
「ふうん」
「……ほんとはそうでもないけど」
「どっち?」
「やっぱさ、…………連れてったら里心がついたと思う?」
 質問した人は今にも泣きそうな顔をしていた。馬鹿だ。こんな馬鹿置いておけるわけないことぐらい雲雀にもわかる。自棄になったみたいに包装紙を剥いている手を掴んで舐める。部屋の空気は甘ったるく、舌にもまだ味が残っていた。口中にあるのは無骨な男の指なのに、チョコレートの味がする。
「このチョコ僕はもういいから。食べさせてあげなよ、いっぱい」
「……うん」
「怖かったの?」
「怖かったんだ」
 髪を梳いてやるとしがみついてきた。かわいいといえなくもない、気がする。
「大丈夫だよ」
「……おまえなー、そう簡単な話じゃ」
 おまえに何がわかるんだよ、とそういいそうな声音だった。腹立たしくならないはずがないのに、愉快な気分のほうが先にたつ。わかるんだよ。わかるんだ。
「だいじょうぶ」
「……ほんとに?」
「ほんとに。あなたはいつもどおり能天気に笑ってればいいんだよ」
 しょんぼりしている人の鼻をひっぱってやる。どうだろう。へこんでいればへこんでいるだけ、妙に奮起して励まそうとするかもしれない。考えて苦笑する。あの部下がどんな行動をとるかなんて、予想がつくほど親しいわけでもない。いや、どんな相手でも細かい感情の機微など雲雀にはわかるはずもなかった。だからこれは多分、雲雀がしてやりたいことだ。
「恭弥……おまえオレの国はどこか知ってる?」
「……」
 だが馬鹿も度を越すとかわいくない。あれだけしつこく話しておいて何を。いったい自分をなんだと思っているのだ。どこの国が一番ダメージが強いだろう。地理的にも遠くて、且つイメージが遠い国。アジア、中南米、アフリカ。
「なあ」
「アフガニスタン」
「え、いやなんでそこ」
「バーレーン」
「だからなんでそのへん」
「前に石油で儲けてるって」
「いや確かにいったけど! 油田は持っておりません!」
 必死で否定する様に苦笑する。本当に彼の国すら知らない状況ならよかったのだ。曖昧なイメージのみの国。個性も判別し得ない、一山いくらの部下たち、なら。いくらでも。
「きょうや」
「うん」
「あんがとな」
「……うん」
「明日はちゃんとイタリアのチョコも用意してあるからな! 楽しみにしてろよ」
「……え?」
 満面の笑みは本気らしい。大体この男は限度というものを知らない。
「いらない」
「え! きょうやー」
「お菓子とかもういい。っていうかなんでチョコなの?」
「おっまえ! それで青少年か? 喜べよ」
「もう飽きた。しばらくいいよ。甘いものは」
「え? 本気で判ってねぇ? 恭弥好きだろ甘いもの」
「塩昆布なら食べたい」
「いや確かに黒いけど! っていうかそれ今食いたいものだろ!」
 しかも全くわかっていない。またこうやって口に運んでくれるというのなら、一粒くらい食べるのも吝かではないのだ。今日だってとっくに許容量は越えていたというのに、ついつい食べ過ぎてしまった。腹がくちくなって必然的に眠い。雲雀は欠伸を一つすると、頭蓋を椅子の背にもたせた。
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