「男同士でもキスしたりするの?」
 びっくり、とでもいいたげにこぼされて、オレは思わず固まった。場所は並盛で定宿のホテル。そのスイートルーム。初めて会った修行の頃から、ごく当然とでもいった風に便利な宿泊所として扱われ、今日だって当時のいざこざはとっくに終わっているにもかかわらず、悪い男に誘われた風紀委員長が当たり前のようにくつろいでいる部屋だ。いやいいけど。それでいいけど。
「おま………まだ『男同士でもセックスしたりするの?』とかならともかく…キスって! いやキスっておまえ」
 つきあって半年。つまりつきあってくださいといって別にいいよと返答を貰ってから半年である。その間、来日の度オレはずっと、この空気を読む必要性を認めない子どもとの間にいいムードを持ち込もうと最善の努力を続け………そして本日諦めた。無理だ。どんな口説き文句を並べても、ましてや限界まで顔を近づけたって、彼は目を閉じない。理由を告げずに目を閉じろといったって、「やだ」と一刀両断されるに決まっている。要望は明確に、簡潔に。即ち「恭弥とキスしたいので目を閉じてください」とついに、やっと、そう告げたわけである。正直勢いで告白した半年前より、余程緊張したといっても過言ではない。
 そして返答がこれだ。オレはひどい頭痛がして、思わず眉間を押さえた。これがセックスまでするとは思わなかったとかだったら、いやまあそれでもちょっとあれだけれども、まあ中学生なわけだし、雲雀恭弥なわけだし、そう驚きはしなかったかもしれない。体の構造が女性とは違うからできるとは思わなかった、うんまあ、徹底的に情報社会から逃れて生きていれば、そう考えることもあり得るかも。
「男同士でもセックスしたりするの?」
「………」
 これが自分の要望にこたえていってくれただけ、だったらよかったのに。先程よりも更に恭弥は目をまんまるくしていた。もうやだこの天使。
「するさ」
「するの。できるの?」
「できる。でもその、今はそういう話じゃなくてな」
 ほんの一年程前まで、出会った女性とその日にベッドまで向かったりしたことだってあった事実が今では信じられない。したいのかしたくないのかと問われれば身悶えするほどしたいが、いくらマフィアのボスでも、ここまで純粋無垢な子にじゃあやってみるかとつけ込める程非情にはなれないものだ。
「まあ、何ごとも本人の努力で克服できるものだよね」
「え? いやそういう根性論じゃなくてな」
「最近の医学は進んでるっていうし」
「外科手術に頼るって話でもなくてな、っていうかオレはそのまんまのおまえが好きなんだしそんなことさせるわけ」
「………え?」
「え?」
 嫌な沈黙が落ちて、オレは思わず大きく首を振った。いやそんなまさか。オレは肉体改造をする気はないですよ?
 たぶんこの子にはまだ性的な触れ合いは早いのだ。それはまあいい。マフィアのボスなんてやっていると、忍耐力には自信がつくものだ。ただ、まったく何も意思表示しないでいると、一生このまま、戦ってメシ食ってそれでいいって思われる可能性が。
「えーと、その、まあそれは先の話としてな、オレはその、恭弥とキスしたいなって思うんだけど」
「そう。すれば」
 そういわれてじゃあやってみるかといえるほど非情には………ってええええええ!?
「い、いいのか」
「うん。したいならすれば」
 何その寛容さ。これがオレの弟子だったら………いや弟子なんだけど、弟子であっても好きな人じゃなかったら、もっと自分を大事にしなさいと怒鳴りつけるところだ。だってどう考えても許可をいただけたのは彼のファーストキスで、ファーストキス? 思いついた事実にオレは思わず飛び上がりそうになった。周囲を見渡す。並盛で定宿のホテル。そのスイートルーム。リヴィングのソファの上。はたしてこれでいいのだろうか? つきあいだしてすぐの頃は夜景のきれいなレストランやらなにやらに連れて行ったりもしたもので、でも気づいたら景観とLEDの電力消費と並盛商店街の集客効果に関する展望に関して小一時間討論する羽目になったわけだ。結果的にオレの意見はいくつか取り上げられたようだったし、この素直じゃない子が真面目な顔して、なかなか有益な話だったよと労ってくれたりもしたのだけれど、とにかくかようなロケーションは雲雀恭弥に期待するような効果はもたらさないとオレはそうそうに学習したのである………だが今ここで思う。これでいいのだろうか? 勿論彼がそんなものに拘る人でないことは承知の上で、だからこれは汚いオレの画策。綺麗でロマンチックな思い出を、オレが、彼にあげたいというどうしようもない執着だ。
「えーと、そのだな………でも」
「早くしなよ」
「おお! …って、あ」
 何いってるんだオレは。だがこのような、かつてない好機に於いて、場所がどうとかを理由に順延を申し出るなんてそんなこと、可能な紳士いたらお目にかかりたい。そいつは単なる馬鹿だ。
「どしたの」
「いや別に…そ、れじゃその」
「ん」
 恭弥は小さく頷き、瞳を閉じて顎を上向かせた。薄くて柔らかそうな唇。それに今から触れるのだ。
「えーと、それじゃ、その」
「ん」
「………………………………………」
「………………………………………」
「………………っだめだ! ちょっと待て、心の準備が!!」
 思わず叫んで、心臓に悪影響を及ぼさない程度の距離をとるべく飛び上がる。はた、と気づいた時には恋人は、氷のようなまなざしをこちらに向けていた。
「あ、ごめ………いや違うんだ恭弥、ちょっと緊張しちまったっていうか」
「あなた馬鹿なの。乙女なの」
「ちょっと待て、あとのは取り消せ!」
「たかがキスじゃないの」
「ばか、おまえはわかってねーんだ。こういうのは大事な」
「は」
 鼻で笑われて気づいた。今からどんなに頑張ろうと、ロマンチックな雰囲気に持ち込むことは不可能。確かにオレは馬鹿だ。
「恭弥………」
 とんでもなく頬が熱い。今オレの顔は真っ赤になっていることだろう。恭弥はけなげにもオレの望みに応じてくれたのに、まさかこんな失態を演じてしまうなんて。あ、やばい。
「あなた…」
「ごめ………違う、ちょっと虫が入って!!」
 ごしごしと袖で目を擦る。これ以上情けない様をみせるなんてごめんだ。
「待って、動かないで。すぐとってあげるから」
「え? いやこれは………」
「あれ………ないよ、とれたのかな」
 虫なんて嘘だ。こんな他愛もない嘘に騙されてしまう子にオレはなんて卑劣なことをしようとしていたんだろう? 真剣な瞳でオレの顔を覗き込んでいる子の髪が頬を擽って、オレは思わず身悶えしそうになった。すっげーいい匂いがする。
「なに」
「香りが…」
「あなたの髪の香りだよ」
「そんなわけねーだろ」
 思わずいい返したけれども、いい匂いのもとはあれ、なにいっているのとでもいいそうな顔だ。ちょっと待て。ちょーっと待て。今日は並盛中学の屋上で手合わせをして、そして食事でもしようぜと誘って定宿のホテルへ。汗まみれ埃まみれの身体を清めるべく交互にシャワーも使った。つまり、多分、オレも彼も同じアメニティのシャンプーを使っているわけで。
「………あなた真っ赤だよ」
「いうなよ…」
 恥ずかしい。おまえにはあれだ、気づかないふりをしてやる優しさはないのか。自分でも中学生かよとは思っているのだ。というか、今さらというか、恭弥が手合わせしたあと風呂に入りたがるのも、気が向くと泊って行くのもいつものことなのだ。それをいうと、あまりに不甲斐ないオレのアプローチの履歴が詳らかになりそうで居た堪れないのだが、とにかくそんな今さら、成人した男が改めて意識するような問題ではない筈である。
「どしたの…ふふ」
「へ?」
 肉刺の跡の残る、だけれども華奢で、たぶん御噂のアメニティのボディシャンプーだかシャワージェルだかのおかげで滑らかでみずみずしい感触の指がオレの頬を撫でていって、オレは思わず驚愕の声をあげた。背筋がぞくぞくして、ああこれも、超直感とかそんな感じだろうか。見返すとかわいい弟子は、もし彼が雲雀恭弥じゃなくて例えばオレだったら、速攻で思いきり後頭部をひっぱたいてやったであろう、いけすかない、余裕ぶって格好つけてなんでもわかったような、それでいてなんか企んでいるような微笑みを浮かべていた。え、なんだこれ。
「あなた、なんか…」
「え? や、ちょっと待て恭弥ぁ? どした?」
「だってあなたいつもなら、いけすかない、余裕ぶって格好つけてなんでもわかったような、それでいてなんか企んでいるような顔して笑ってるのに。どしたの、今日はあなた」
 え、や、オレよく今までひっぱたかれなかったなあ。でも男たるもの、かわいい子の前では精一杯格好つけてみせたいのは当然のことではなかろうか。あれ、じゃあ恭弥はなんで………ふと浮かんだ疑問に目を瞬かせていると、ふふ、と息を漏らすように恭弥が笑った。
「あなたかわいい…」
 ちゅ、とささやかな音がして、あ、と驚いた時にはもうオレのファーストキスは…じゃない、さすがにそれはない、恭弥のファーストキスはもうオレのものになっていた。いやちょっとまて。
「あ、あのな。きょうや」
「ん、ん? なに?」
 ちゅちゅちゅ、と続けざまに音がして、セカンドもサードもその次もオレのものになったちかいちかいちかい。
「きょや、今おまキス…」
「あ………したね、今」
 びっくり、とでもいいたげにこぼされて、オレは思わず固まった。だってしたのはおまえだ。
「あ、ああ………そうだな」
「そうだね、した…」
 ふにふにと生真面目な顔で自分の唇を触っていた子どもは、オレの方に視線をやって、またにやりと、あの笑みを浮かべた。
「あなた、てれてるの?」
「てれてませんよ?」
 てれているのかてれていないのかと問われればもちろんてれている。だってあんなかわいらしいキス。自制心を総動員したってマフィアのボスにはとてもできないキスだ。かわいらしくて性急で、ささやかなのに大胆で。いったらおこられるだろうけど!
「てれてない、てれてない、ね?」
「怯えてただけでもねぇって…」
 ちゅ、ともういちどキスされて、さて他にどう答えるべきか? 知っているキツネリスがいたら教えてほしい。だいたいこういうのは、いう奴がてれているもので、自分に言い聞かせているだけだ。いや、恭弥には当てはまらないだろうけど。
「おまえは?」
「ん?」
「てれてんの?」
「………………え?」
 かわいらしく小首を傾げて、恭弥はしばらく沈思黙考。一つ重々しく頷くと、そうだね、とひどく真面目な顔でいう。
「てれてるよ」
「えー………」
 なんかの勘違いだろ、としか。オレは思わず大きく息を吐いて、恭弥は不満を唱える。
「だって、あなたみてるとすごくてれくさい」
「いやそりゃそうだろうけど…」
 恋人の前ではいつもは格好つけてるいい大人が、キスされただけでこんな赤い顔して右往左往していりゃあ、見てる方も多少はてれくさくもなるだろう。てれてるようにはさっぱりみえないけども。もともとそう表情豊かなタイプではないけれど、それにしたって生真面目な、まるで能面みたいな顔をしている。なんか、一人で狼狽しているオレが馬鹿みたいだ。
「今日はちょっとあれだ………ほら、緊張してんだ。だから」
「違うよ」
「ん?」
「いつも、あなたみてるとてれくさいもの………あれ」
 勘弁してほしい。思わず手で顔を覆う。ああ、思っていた以上に熱い。
「あなたてれてるんだろ」
「てれてますよ…」
 ごまかしようがない。ていうかなんでおまえはそんなこと、てれずにいえるの。オレは潔く認めて、そして恭弥はふいに、にっこりと笑った。思わず身をのけぞらせる。そうあの、いけすかない、余裕ぶって格好つけてなんでもわかったような、それでいてなんか企んでいるような笑顔だ。ちょっと待て。
「あなたかわ…」
「オレは恭弥とキスしたいんだ!」
「………うん」
 大声で宣言すると、恭弥は目を丸くして、それから素直に頷いた。ほっと息をつく。さっきみたいな笑顔だって、オレに向けているのだと思えば嬉しくないとはいえないけど、それはそれ。
「だからすれ…………ん」
「きょうや…」
 彼がくれたような、かわいらしい啄ばむようなキスをあげられたのは最初の数回だけ。すぐ貪るようなそれに変わって、心の中で苦笑する。ロマンチックなロケーションなんて、たぶんこだわっても無駄だったのだ。
「ん………やだその顔…」
「てて………おまえな」
「かわいくないよ」
 頬をつねられて悲鳴をあげる。ていうか、ここまで顔を密着させていて表情も何もないだろうに、野生の勘とかそういう感じだろうか? オレも、鏡を見なくてもわかる。今オレは、余裕ぶって格好つけてなんでもわかったような、そんな笑みを顔に張り付けているだろう。焦りとか衝動とかプライドとか計算とか愛情とか…………そんなものを全部その下に隠して。ああでも、こんな情けない内情も、今の彼は気づいているのかもしれない。同じ男であるし、彼もまたついさっきまで、そんな笑みを浮かべてみせたから。
「なあ、恭弥」
「ん」
「ほんとはさ、キスだけじゃなく、その」
 要望は明確に簡潔に。心の中で注意事項を唱える。だっててれくさくて仕方がない。
「キスだけじゃなく、セックスもしたいんだ」
「男同士でもセッ………ああ、したりするんだっけ、いってたね」
「ああ、いいか」
「したいならすれ………ん!」
 じゃあやってみるかという程非情にはなれないとのたもうたのはどこの誰だったか。だが男は、好きな相手のためならいくらでも非情になれるいきものだ………何か間違っている気がしないでもないが、とにかくそうだ。一秒でも惜しくて彼を横抱きにして寝室に向かった。せめて、彼が嫌いだという格好つけた微笑みを、なんとか浮かべないよう心がけて。まあ正直できているか不安だし、頬がひくひく動いてるような気もするし、たぶん顔だって赤いままだ。
「あなたかわ…」
「いうなって、今は! てれるだろ!?」
「ふふ………じゃあいいよ。いわないであげても」
 まったくどこまで格好いいのだろう、我が想い人は。変に余裕ぶってみせなくても、出会ったときから彼はずっと、凛々しくて思い切りがよくて潔くて。見惚れずにはいられない程だというのに。
 そして対してオレの方は、さっぱり潔くなんてなれない。こうやって彼を掻き抱いている今ですら、考えているのはどうやってリードを保ち続けるかとか、そんなくだらない計算。だって、もういちどあんな顔をされたら、とてもあらがえる気がしない。
「やばいな、なんか」
「え?」
「惚れなおすぜ。おまえ、すっげぇ格好いい………………って、あれ?」
 思わず零した。だがそこで、先程までくすくすと笑っていた子が、固い、まるで能面のような表情を浮かべているのに気づいて、オレ首を傾げた。視線はあわせず、唇はひきしめて、そしてその頬は僅かに赤い………気が。
「え………………おまえ、もしかしててれてんの…うわ!!」
「だっからするならさっさとしろっていってるだろ!」
「いやおま…」
 右アッパーを食らわされそうになってもできる男はそうはいません。とはいえ、オレはできる男であるので、御言葉に甘えることにした。ああ、多分さっきの評価を撤回して「かわいい」なんていったらば、恭弥はひどく怒るのだろう。でも、焦りとか衝動とかプライドとか計算とか愛情とか、そんなものを隠して格好つけてみせる彼は………そして遺憾ながらオレも、かわいいっていっていいんじゃないかとそう思うのだ。















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