並中の生徒に手を出すな




 武器を持つ手が震えていないのが自分でも不思議だった。
 怒りかそれとも悲しみか。自分を動かしている感情がすらわからぬまま、ディーノは一歩を踏み出した。視界の端に弟子の姿がうつる。おぼつかない足取りで、それでも瞳は光を失っていない。たいそうな恐怖を感じたことだろうに、それでもこの子どもの心が折られることはなかったのかもしれない。だが、それを喜ぶ資格が自分にはあるのだろうか。ディーノは眉をしかめた。あるはずがない。ああ全く、このくだらない争いがどのような決着に向かおうと、自分が守るべきものはわかりきっていたはずだったのに。
「並中の生徒に手を出すな」
 だから、せめて同じ過ちを犯さないためにディーノはそう口にした。
 ボンゴレとキャバッローネは同盟関係にあるけれども、マフィアの世界に永続的なものなど存在しない。まして、このはた迷惑な連中と、友好的な関係を保持できるなぞと考える人間は、余程の阿呆か自信家かそれともその両方か。先々のことを考えれば、迂闊に自分たちの関係を漏らすのは好ましくない。まあ、危険といっても人質にとられるような人間ではなかろうが、なにが起こるか未来は予測できない。実際、手合わせをしようと約束していたはずのこの子どもが、こんな窮地に陥っているではないか。
 もちろん彼らも、ボンゴレの次期後継者の座をめぐった争いにおいて、ディーノが雲雀の家庭教師役を務めたことは承知していることだろう。だが、それはあくまでかりそめのものと、そう考えていることは予想がついた。実際恩師には、それ以上の役割を求められてはいない。だから、知る筈はないのだ。初めてあったとき、この子どもを危険な世界に引き込むことを知った時点で、一生教師として導き、危険から身を護るすべを教えてやると自分に誓ったこと。そんなご立派な誓いを胸に刻みながらも、教師としては許されざる感情を、いつの間にやらこの子どもに向けてしまっていることも。

 呼吸ができていることが自分でも不思議だった。
 ほんの一瞬前まで自分が陥っていた窮地のためではない。振り返れば自分と、戦う約束をしていた筈の男がそこにたっていたからだ。
「並中の生徒に手を出すな」
 いつだって屈託なく笑う男が、押し殺した声でそう言い放つ。それを信じられない思いで雲雀は聞いていた。
 だって、英語教師なんていったって、そんなものは僅かの間のこと、また暇つぶしに遊んでいるにすぎないとそう思っていたのだ。彼は一応はマフィアのボスで、何千人かの部下だっている立場の筈である。そう聞いた。
 だが、よくよく考えてみれば、我が校の職員室の中にだって、かように生徒のために体を張って戦おうとするようなものがいるだろうか。いる筈がない。しかもここまで強いものなどいわずもがな。
「恭弥」
「な、なに」
「もう、大丈夫だからな」
 派手派手しい顔をした英語教師は、柔らかく微笑んでみせて、雲雀は心臓を掴まれたような心地すらした。金八先生がウルトラマンに変身したとしても、ここまで勇猛でも果敢でもない筈である。
「ディーノ…」
 一瞬この男が並盛川の河川敷で群れている情景が頭に浮かんで、雲雀は思わず大きく頭を振った。そんな、群れているのにかっこいいなんて、絶対にあり得ない話である。

「恭弥?」
 あまりに不審な弟子の様子に、ディーノは思わず敵をそっちのけにして駆け寄りそうになった。
 もちろんそんなことはしない。今は緊迫した状況なのだ。だが、それにしたって、雲雀の様子はおかしくて、頬は紅潮し瞳は潤んで、まるで今まさに恋に落ちたような
(………っていやいや)
 そんな筈はない。ディーノは一度だって、この秘めた気持ちを打ち明けてはいないのだ。あたりまえだろう。輝かしい未来が約束されている人に、こんな劣情、知られるのだって耐えられはしない。
 だがそうはいっても、隠し切れていると自信を持っていいはれるほどディーノは楽観的な人間ではなかった。せめて毎日のように顔をあわせる間柄ならもう少しは冷静に振る舞えたかもしれない。だがディーノはイタリアの人間で、雲雀は日本の学生である。久しぶりに会えば感情が高ぶって、ちょっとぐらいはこう、ハグ、とかしたかもしれない。キスもこう、額ぐらいにはしたかもしれない、ってかして殴られたかもしれないめっちゃ痛かった。どうにもこうにも鈍そうな相手なので油断していたけれども、絶対ばれていないかと問われれば自信がないのだ。
「………ディーノ」
「恭弥? どうした、どっか痛いか?」
 どこか痛いかと聞かれて痛いと答える人ではない。それを知りつつディーノは問いただした。どうみても様子がおかしい。雲雀はふるふると首を振ると、もう一度ディーノの名を呼んだ。
「あの………僕も、その僕も」
 顔を真っ赤にして口ごもる。みっともない様だということは、雲雀にもわかっていた。だがどうにも口に出すのは恥ずかしい。
「僕も………同じ気持ちだ」
「恭弥………」
 意を決して口にする、その声が震えている自覚はあった。だが仕方がないことではないだろうか。自由に生きてきたと豪語してきた自分が、何よりも並盛中を大事に思っているなんて。そんなこと自分だけが知っていればいいことで、軽々しく人に話したことなぞ、今までないのだ。だけれども、ここまで自分の学校を大事にしてくれている人に、本心を明かさないほど雲雀は薄情ではない。学校の経営というものは、如何に雲雀が強くても一人で成り立つものではない。この男ならきっと学校のために、いくらでも戦ってくれることだろう。二人して風紀のために戦うのだ。考えるとぞくぞくした。不良を根絶する夢も、黒耀を傘下に収めるという今月の目標も、きっと達成可能だ。
「同じって?」
「同じって………だからそれは」
「何だよ恭弥、いってくれなきゃわからねぇよ」
 頬を赤らめてうつむく弟子の様子に、ディーノは唇を緩めた。ここは大人として、自分から告白すべきだろうか? だが、こんな時でもなければ、雲雀に何か愛の言葉をいってもらうなんてチャンスは一生なさそうな気がする。そんなわけでついついディーノはわからないふりをした。
「う″お″お″お″い!! お前ら何こんな状況でいちゃいちゃしてんだあ″!!」
「うるっせぇ!! こっちは一生かかってんだ、大人しくしてろ!」
 空気の読めない鮫を思わず怒鳴りつける。所詮は人間で、恩師をめぐるあれこれよりも本音をいえば自分の恋愛問題の方が重要事項である。だが改めて向き直ると何やらかわいい人は、目を丸くしていた。
「ん? どした、きょうや」
「本当?」
「へ? なにが」
「だからその…………一生、って」
 顔を真っ赤にして、愛しい人がいう。一生? 一生って一生だ。ディーノはぽかんとして、だがすぐに気づいた。つまり雲雀は、一生ってそういう意味での一生だと思っていて、だがディーノも男で、というか願ったりかなったりでだからつまりは
「………あっ………ったりまえ、だろ」
「ディーノ」
「オレは本気だ。この気持ちは一生かわんねぇよ」
「………ディーノ」
 では本当に、ディーノは教職を一生の仕事だと、思い定めてしまったのだ。雲雀は息をのんだ。だが考えてみると、並盛中学のような素晴らしい学校で仕事をしてみれば、天職だと感じるのも至極当然である。当然ではあるのだが、ディーノは教師である以前に、マフィアのボスである筈である。
(………だめだ)
 雲雀だって正直にいえば、他人よりも並盛中の教員の向上の方がずっと重要な問題である。だがそうはいっても、短期の仕事ならともかく、常任の教師となるならば、その仕事が二足の草鞋でこなせるほど甘いものではないことなぞ、百も承知である。そして、彼の五千人の部下が路頭に迷うとしたらどれほどおおごとの事態になるか、想像できない筈もない。
(あんな髭のやつらなんて、どうでもいいけど)
 ディーノは気にするに違いない。しない筈なぞない。何処までも優しい人なのだ。いくら並盛中の仕事が、やりがいのあるものだとはいっても、きっとこの人は悩むに違いないのだ。
(別に、僕一人だって、黒耀くらい倒せるし、うっとうしくなくてちょうどいいくらいだ…)
 なのに、どうして胸が痛いのだろうか。
「恭弥…」
「な、………にして」
「オレは世界一の幸せ者だよ」
「………ディーノ」
 ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる腕は、ひどく暖かかった。一生二人で並盛のために戦えるのならば、きっと雲雀だってそう感じるに違いないのだ。考えて泣きそうになった。こんなふうに考えてしまうのがなぜなのか、わからないほど雲雀は幼くない。
 だがこの町ほど理想的な場所ではないにしろ、ディーノにも故郷があって、そのために戦うことが、彼にとってはふさわしい生き方なのだ。ぐ、と涙をこらえると、雲雀は風紀委員長として、解雇通知をすべく口を開いた。ついでに一言、告白くらいしてやろうか。甘っちょろいマフィアのボスはきっと悩むに違いなく、下手な嬉しがらせをいわれた身としては、これくらいの嫌がらせ許されてもいい筈である。   









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