刺青



 うららかな春の午後、イタリアが誇るマフィア、キャバッローネファミリーの男達は本国から持ち込んだ書類の山と取り組んでいた。勇猛果敢だ。
 だが後から後から増えていく仕事をこなしていくのは最早日常というもので、今更何をいうでもない。むしろ、まだ日が昇りきって程ない時間だというのに終わりが見えてきていて、どうにも途方にくれていた。別に世界的不況の煽りを食らって仕事がないだとかそんなわけではなく、ただ単に時差の関係上ぽっかり時間が空いたというだけのことだ。明日になれば無事また山盛りの煩瑣な事柄が。だが珍事は珍事だ。時間が余れば新宿でも秋葉原でも好きに観光に行けとボスにはいわれていて、それが逆に落ち着かない。ここ一年分の運を今日使い切ってしまうのではないか。
 それにこの陽気も辛かった。暑さに弱い白色人種の男達には日本の湿度はきつい。幸い今日は一日仕事でホテルの外に出る予定はないからして、威嚇であったり牽制であったり、様々な意図をもって身に纏っている黒のスーツは必要ない。ある者はジャケットを脱ぎ、ある者はネクタイを緩めて、仕事に勤しんでいた。ちなみにエアコンを着けないままでいるのは、エコロジーだとか地球温暖化に対して憂いているわけでは毛頭なく、ソファに座っているディーノの横、丸くなっている学ランの子猫が人工的な風を嫌うからだ。
「お、イワンそれかっこいーなー。いつ入れたんだ?」
「ああ。こっちに来る前に入れてきた」
 やっと目を通し終わった書類を掴んだ部下は、シャツの袖を豪快に捲り上げていて逞しい二の腕が露になっていた。指摘すると得意げに頷く。青から赤に染まるハートとその真ん中に刺さる矢。そして飾り文字で記された「カロリーナ」。想い人の名だ。カタギの娘をもうずっと口説いていることは聞いている。やっと気持ちが通じたのだろう。
「そりゃめでてぇな! 名付け親は任せてくれよな」
「え!……いやまああれだ、その、まだプロポーズもしてねぇしな」
 まだみぬわが子にアッロードラとかカンタッレラとか、なんかそんなゴジラも一撃で倒せそうな名をつけさせるわけにはいかない。どうやって穏便に断ろうかとイワンが慌てていると、ディーノは能天気に追い討ちをかけた。
「なんだよ情けねーな。さっさと結婚しろ! 祝わせろよ!!」
 あんたにいわれたくねぇよ。
 いやきっと相手は中学生だとか、そんな理由で躊躇っているのだろう。差障りが山ほどありすぎて逆にどうでもいい気になるから不思議だが、子どもと結婚はいただけない。だから何も我がボスがへたれなわけではないのだ、断じて。
「おお。そのつもりだ」
「そっか。しっかしいいよなー、それ。オレも入れようかな」
 わりと定番の、どうってことないデザインだが部下の腕に描かれているのをみると、非常に魅力的だった。彼の誠実で厳つい顔に似合わない優しい人柄を知っているためだろうか。相手の女性も数度顔を合わせただけだが明るくおおらかな性格のようだった。それに美人だ。きっと似合いの夫婦になるだろう。
「いや……どこにいれるつもりだよ」
「右腕とか? やっぱ痛ぇの? それ」
 墨だらけの男の台詞に、その場にいる部下達が皆笑った。痛みを伴ったという意味ならばこの男の身に描かれた絵のほうが余程。
「……まあ根性だな。だがあんたはやめといたほうがいいだろ。いつ誰に見られるかわからねぇ」
「えー、むしろ見せるためだろそういうのはさ」
 黒スーツと同じだ。威嚇と牽制。あいつはオレのもの。
「そりゃそうだがよ」
 部下としたら上司の恋愛をとめる気持ちは毛頭ない。緩いといわれればそれまでだが、苦労した分是非幸せになってくれと思っている。さっぱり隠すつもりのないらしいボスの態度にも好感を持っている。男らしい。潔い。だがそうはいっても、自分から触れ回らなくてもよさそうなものだ。難解極まりない文字、今は他のファミリーが読み解ける可能性は低いが、それも時間の問題だ。大体本人は鈍いから気づいちゃいないが、こんなやくざの大親分でも、熱を上げるやんごとなきお嬢様はそりゃもう山ほど。下手な騒ぎを起こさないほうが得策ではないか。
「あ、じゃあさ。この馬の頭の上のとこ、小鳥がとまってる絵を足すとか」
「あんたキャバッローネの誇りを何だと思ってんだ……!!」
 そりゃまあ微妙な余白はある。ファミリーの人間でもなければまじまじと見るような機会はなかろうから、問題がないといえばない。だがそういう問題ではないだろう。
「かわいいだろ? よくねぇ?」
「いやあんた何でそんな、いかにも頭上がりませんみたいな絵柄を選ぶんだ……?」
「ワオ。うまいこというね」
 振り返ると件の鳥が、ふにふに目蓋を擦っている。いつのまに。っていうか眠りが浅いらしいと上司には散々言い含められていたから多少は気遣って小声で話していたものの、何といってもこの人数である。よくもまあ今まで能天気に寝ていたものだ。
「あ、恭弥。起きたのか。暑かったんだろ?」
「あなたこそ」
 額に張り付いた髪をディーノが掻き揚げてやると、雲雀がその金糸を楽しげに掻き混ぜた。遠慮なくひっぱってきてもいるのに、どうしてこうも笑えてくるのか。
「んー。オレは髪が柔らけーから、すぐにへたってきちまうんだよ」
「へたれだから」
「違うって」
「じっとして」
 片手で髪をいじりながら、片手でローテーブルの上を探る。その手が油性マジックを掴んだ時、部下たちの間に緊張が走った。だがそのボスは何もいわない。
 額にかかれた難解極まりない二つの文字。感触だけで、何と書かれたか察したのだろう。表情を緩める。そしてその部下たちもまた、多少この異国語の読み書きが覚束なくても、それだけは読み取ることが出来るのだ。
「自分のものには名前を書いておかなくちゃね」
 威嚇と牽制。額にかかれた文字は見事その役目を果たしているようだった。いや雲雀にとっては単なる所有印なのかもしれない。男たちは目配せを交わし、手近にある書類を掴んで部屋を出る。今日の仕事は殆ど終わっているのだ。問題ない。
 額に止まった鳥は、洗えばすぐに落ちてしまう。だがそんなものがなくとも、はなから知っていることもある。蕩けたボスの顔を思い返し、男たちは笑った。
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