修行中



「明日は山で修行するからな。朝一で出るから早めに寝るんだぞー」
 温泉にほっこり温まって夕食の席、塩焼きの鮎に舌鼓を打っていると、自称家庭教師がそんなことをいう。
「山なんてすぐそこにあるだろ」
 今日は川べりで闘った。だが上流も上流、川の回りは皆山だ。わざわざ移動する意味がわからない。
「んー、そりゃ足場を変えるってだけならここら辺の山でも充分だけどな。標高があるところでやったほうがいい。肺活量を増やすように」
「どこいくの」
「富士山!」
 日本で山なら富士山だろう。そんな単純で自信満々な声でディーノが宣言する。確かに富士山は高い。並盛を愛する雲雀といえども数値で示されれば、ここらの山など丘のようなものだと認めないわけにはいかなかった。盛り土でもしてやろうか。
「遠いよ」
 だが移動時間を考えるなら、その分自分と戦っていたほうがいい。この男はちっともわかってない。
「移動中はずっと寝てていいぞ」
「疲れるだけだよ」
「ワゴンもう一台借りたし! 今度はちゃんとゆったり乗れるから。後ろで寝とけ」
「あなたも」
「……へ?」
「あなたも寝るんだよ」
「…………おう、……そうだな。一緒に寝ような」
 体調の万全でない男と戦っても楽しくない。ふるふると震えながら頷く男に雲雀は眉を顰める。よく布団を剥いだまま寝ているから、風邪でもひいたのかもしれない。
「ねぇ……大丈夫?」
「おう、……やっべぇ、泣けてきた」
「ふうん?」
「あ、明日は山小屋で一泊する。あれだろ、ゴライコーってやつがすごいんだろ?」
 明らかにローマ字の発音で口にして、ディーノがにこにこ頷いた。さあ楽しみにしろといわんばかりだ。ムカつく。絶対よくわかってない。なんか如何にも頭に活火山怪獣とかつきそうな響きだ。
 だがいくら雲雀恭弥といえども馬鹿ではないから、あんな山にいきなり手足が生えて動き出したらそりゃ逃げだす。しかもそいつがおそらく暴れるであろうふもとの町は、並盛ではないのだ。
「戦わないよ」
「へ、どうした恭弥?」
「……なんでも」
 うっかり口に出してしまった。だが説明するのも面倒で、雲雀は横を向いた。実際今は戦わない。食事中だ。それにディーノが愚かにも真に受けたとしても、闘いたくなったらその時にトンファーで襲えばいいのだ。考えてちょっとうずうずした。やっぱり今からでもいいかもしれない。
「嫌んなったか? 恭弥」
 嫌だ嫌だといつもいうのは、雲雀を鍛えたいはずのこの男だ。その男が困ったような顔でこちらを窺ってくるので、ちょっと愉快だった。これが押しても駄目なら引いてみろというやつだろうか。だが本当に闘いたいのならば鞭を取り出せばいいだけだ。
「海でやるのも川でやるのも楽しかったろ?」
「まあね」
「いつもと違うとこで闘うのは楽しいだろ。そりゃ並盛の住宅地もいいけどさ。だから山でやるのも楽しいぞ、きっと」
「その三段論法は納得しかねるな」
「……そうか?」
「あなたとやるなら、どこでだって楽しいよ」
「…………きょ」
 いきなり体を引き寄せられる。暴れようとして、だがやめた。温かい。高地のことだ。ずっと気づかなかっただけで、気温が冷えていたのだろう。
「おまえわかってるか? っていうかオレのいったこと覚えてる?」
「……まあ」
 好きだといわれた。多分そのことだろう。会って二日目だったか三日目だったか。そのときはまだ屋上で戦っていた。なんだか浮かない顔をしているからトンファーで殴ってやったら白状した。だがたいした弊害はない。多少不躾に人の躰に触ってくる。キスもする。だが外人のすることだと思えば腹もたたなかった。
 屋上。そう屋上だった。床は平面で戦いやすく、だがこの男の髪に反射する西日が目に煩かった。場所を変えてからは、凹凸のある地面に気をとられた。攻撃範囲が狭いためどうしても動き回る自分に比べて、余裕のある自称家庭教師には腹がたった。だが時間が経つうちにそんなことはどうでもよくなる。相手の視線、呼吸、一挙一動に目を凝らして、動きを読む。相手のこと、それだけになる。場所なんてどこでもよかった。
「好きだって」
「そう?」
 だが大したことをするでもない。嫌だったら思い切り咬み殺してやるものを。この男の闘い方と同じだ。まだるっこしい。そう考えて気づいた。そのまだるっこしいはずの接触すら、自分の周りにはついぞなかったものだ。
「つれねーな! そんなとこもかわいいけど!」
「ふうん」
 子どもにするみたいなキスが一つ。その先をもう雲雀は知っているから、だから笑った。我慢をするというのなら勝手にすればいい。
「な、いこうぜ恭弥」
「何か僕に得があるのかな」
「へ? だからいったろ。肺活量が増える。その分闘えるぞ」
「今だって闘えてる」
「それは酸欠状態まで動き回るからだろーが! 無茶すんなって。な?」
 つまらない。
「あとは?」
「へ?」
「あとは」
「あとは? あー……急に宇宙に行くことがあっても大丈夫だ」
「馬鹿?」
「……まあ」
「僕が並盛を離れるわけないだろ」
「そこかよ! あとは……水中戦も出来るようになる?」
「知らないよ」
「あとは………………そうだな、キスがいっぱいできる」
「…………」
「あ赤くなった。かわいーな。恭弥は」
 ちゅ、ともう一度音ばかり派手なキスが。こんなもの何度したって、肺活量も何も。首を振ると顎を捕らえられてもう一度、羽のような感触と小さな音が。そして力を抜くと舌が入り込んでくる。そうだ、と雲雀は思う。これは知っている。たった一度、屋上で、好きだ、と子どもみたいな口調で打ち明けた後にした。してきた。これは本当に息が苦しくなる。戦いに似てる。
「好きだ」
 そう、こんな口調だった。
「うん」
「いっぱいキスしてーよ。恭弥。だからな、明日は山行こうぜ」
「やだ。ここでいいよ」
「よくねーって。肺活量は重要だぞ……って! いってぇ! 何すんだ恭弥!!」
「肺活量」
「へ?」
「ここで鍛える」
「……おっまえなあ」
 端が切れた唇をディーノが歪めた。いつもより赤いそれがゆっくり近づいてくる。そうだやっぱり戦いに似ている。息が苦しくて、どこか浮かれて、そしてすべてがどうでもよくなる。それだけになる。場所なんてどこでもいい。
 小さな音がして唇が離れる。だから山奥なんて嫌なのだ。寒い。
「きょうや」
 名を呼ばれて顔を上げると、熱に浮かれた目があった。そしてその腕に引き寄せられて、自分もまた熱を孕んでいることを知ったのだった。どうでもいい。
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