性急でかつクレッシェンドな様相を呈するチャイムの音に、俺の就寝前の穏やかな一時が打ち破られた。
 時刻は十一時過ぎ。普段ならば夜はこれから、といったところだ。すっかりできあがって馴染みの静かで質のいい酒を出すバーに、ちょっと顔でも出そうかという頃合。だが今日は早くに寝るつもりだった。明日の夜は女性数人との意志の疎通を図ることを目的とした会合が予定され、その前にも面会が二件。その内一件は俺本人はさっぱり興味がないが、女性には感情が高揚し感傷的になる効果が期待できる、「感動!」とか「全世界が泣いた!!」などのコピーが付いた阿呆らしい映画を共に鑑賞するという苦行に身を投じる覚悟だった。咽び泣くうら若き女性の横で爆睡、という失態を避けるためにも、充分な睡眠は不可欠である。
 チャイムの音はまるっきり鳴り止む気配がなかった。今でこそ平和なバイトに勤しんではいるが本業が本業故、セキュリティはかなりしっかりしているマンションの一室をねぐらにしている。大体殺し屋がこんな騒がしい音をたてるはずもない。
「やれやれ、酔っ払いは嫌だねぇ……」
 酒は飲んでも飲まれるな。基本的な心得である。意識を失ってしまえば美酒を味わうことは不可能だからだ。短い人生ならば、その中で効率的にかつ壮大に楽しむことが重要なのだ。だが酒で憂さを晴らす根暗な酔っ払いはどこにでも存在するもので、このマンションにも、酔っては見境なく女性を口説く輩がいると噂になっていた。なんでも無精髭を生やした、胡散臭い外国の男だとか。まだ顔を見たことはないが迷惑な話である。大体飲酒のあるなしに関わらず、同じ熱意で女性に挑んでこそ、愛の狩人として胸を張れるという物ではないか。このくだらない悪戯はきっとそいつの仕業に違いない。
 文句を連ねながら玄関に向かう。八分音符三つと二分音符一つの執拗な繰り返し。ただでさえこの熱帯夜にうんざりしているのだ。勘弁していただきたい。そういえば隼人も、ガキの頃はピアノの演奏と称してこんな絞め殺される猫みたいな音を出していたな、と思う。あっという間に上達して、周囲の大人に褒め称えられるまでになったが、あれは受け継いだ才能と努力と、そして環境の所為もあるだろう。父親は金を惜しまなかったし、腐っても美と芸術の国、優秀な教師には事欠かない。
「悪いけど静かにしてくれねぇかな。近所迷惑だろ」
「うるせぇ、すぐ開けろ! シャマル」
 聞き覚えのある声に驚いてドアスコープを覗く。耳障りな旋律をひたすら奏でていたのは、生まれも育ちもその美と芸術の国であるところの金髪の男だった。世も末だ。
「跳ね馬じゃねぇか。ちょっと待ってろ」
 声も見た目も騒がしいマフィアのボスを制して中に招き入れる。長い付き合いの同業者の弟子の一人。へなちょこな頃から見知ってはいるが、ここ数年でずいぶんと頼もしくなった。連鎖反応で自分の歳まで思い出されて堪らない。年齢を重ね、修羅場を潜り抜けてこそ滲む男の魅力については是非主張したいところだが、実際問題としてこの青二才と自分を並べれば、十中八九女はこのこちらから見ればまだ餓鬼の金髪男に心を奪われることだろう。若さ、いやまあ造型の優劣の問題もある。如何に努力しようと、この見た目にも女性関係にも無頓着なお坊ちゃんにはかなわないと思うと、腹はたつ。だが彼のその生まれながらに恵まれている資質とは別の苦労を知らないでもないから、そうそう冷たい態度も取れないわけだ。
「サクラクラ病の薬を出してくれ」
「……なんで」
 流石に自分が罹患させた顔ぶれは把握している。今のところサクラクラなら治療薬を与えているし、必要があるとは思えない。
「恭弥が変なんだ。すっげーおとなしい」
「まじか。ちっとは暴れてねぇ?」
「ちっとも」
 異常事態である。並盛中学の保健医として、放っておける話ではない。だが薬は隼人に渡して、無事解決したはずだ。何があったのか。
「また何かボンゴレでトラブルがあったのか?」
「いやそういうわけじゃねぇ」
 起こりそうな副作用を思い返してみるが、あの薬はかなり範囲を区切った、反応といっても穏やかなものな筈だ。花粉症のちょっとかなりきついの位の認識で間違いない。少なくとも死にはしない。だからこそあの病気でやばくなるというのは、かなり切迫した状況を予想される。しかも今は夏場だ。
「敵にまた、幻術師がいるのか?」
「へ? いやそうじゃなくて」
 この季節に桜が咲くわけはない。治療薬は完璧のはずだ。だが、あの六道骸より腕の立つ幻術師が桜の強烈なイメージをそのまま坊主に叩き込んだらどうだろう。実際の桜並木か何かより余程強い、鮮烈なイメージ。わからない。理論上は大丈夫なはずだが、いろいろと差障りが多すぎて、少なくとも人体実験はしていない。
「……跳ね馬。とりあえず順を追って話してみろ」
「おう。……今日は仕事がなかったから恭弥とドライブしてな、昼前に河原が広いところを見つけたから、手合わせをしようって話になったんだ」
「おまえまだ修行つけてやってんのか? 騒動はもう終わったろう」
 この暑いのに人のいいことだ。そういえば争いは終わったはずなのに、やけに日本に来るなとは思っていた。あの容姿ゆえ、興味がなくても中学に来れば女子生徒が騒ぐのですぐ知れる。
「いやまあ……な? やりたいっていうし」
「そうか。それで?」
 こちらはあの反抗期真っ盛りの子どもの相手は全くしていない。血生臭い世界に入るにはまだ間があって、今は子供同士の付き合いを大事にして欲しい……といえば聞こえがいいが、正直面倒だったという理由も多分にある。少々反省しないでもない。同じように守護者を任されているのだ。あまりに差をつけられては立場がないのも確かだ。いくら向こうがあの雲雀恭弥であろうとも。
「川下の花火大会がいい感じだって聞いてさ、移動してイタリアン食った後屋形船に乗ったんだ」
「ほう」
「あ、恭弥に聞いたんだけどさ、鮎って川の石に生えてる苔を食べてるんだって。だから香りが良くて香魚って呼ばれてるって。水質で味が変わるから環境問題がすぐ出てくる部分なんだってさ。あなたもいい物ばかり食べてるからそんないい匂いがするんじゃないの、とかいうんだぜ」
 それでいつ敵は現れるのだろう。ていうか修行はどうした。
「……イタリアンで鮎食ったのか?」
「うん、創作料理っての? 前に川で釣ったのがよっぽど楽しかったみたいでさ、あいつが食いたがって」
「…………なあ跳ね馬。おまえら付き合ってんのか?」
 二律背反。聞きたいけど聞きたくない。ホラー映画みたいだ。先が知りたいけど怖い。だがそんな俺の繊細な心情など知る由もなく返答は早かった。いやおまえそんな幸せそうに。その「Si」はもっと重々しく、遺憾の意をこめて発音されるべきものだ。
 壁の時計が刻々と針を進めていくのを見ながら溜め息をつく。ああ明日の映画は何でもいいから、ホラー物に変更がきかないだろうか。少なくとも眠くはならない。だが目の前の蕩けきった表情を見て認識を新たにする。多分これから聞く話以上に眠くならない話はない。うなされたらどうしよう。
 雲雀恭弥。いわずと知れた並盛中学の風紀委員長であり、影の支配者でもある。いや正直いって、影にいてくれるような性格ではない。修羅場を潜り抜けてきた殺し屋である自分から見れば、多少腕の立つ不良とはいえまだまだ子どもに過ぎないが、それでも血を流す不良たちを足蹴にして凛として立つ姿には、全てが終わるまで地に伏し存在を消していたいと思わせる何かがある。
「なんであんな子どもが凛とした存在でいられるんだろうな。征服したいと思うと同時に、その前にひれ伏したいという気持ちにさせられるんだ」
 病人が何かいっている。俺は医者として治療の必要性を強く感じた。頭の。いや視力のだろうか? だが日本では確かこういうのを、医者でも治せないとか、ああそうだ、草壁でも治せないだとか、いうのではなかったか。
「……やってんのか?」
「何いってんだ!! 相手はまだ子どもだぞ」
「ああへなちょこなんだな」
 ちょっと安心した。
「けど、日本に来ればいつも会ってくれるし、手合わせもするし」
「そりゃしたがりそうだけどな」
「食事も付き合ってくれるし、ホテルにも泊まって」
「何だそれ。拷問プレイ?」
「キスしても嫌がらなくなってきたしさ、こうちょっとずつ距離を縮めつつあるっていうか」
「……」
「最近はこう、他愛無い話をしたりさ、それで気づくと恭弥が何か、物問いたげな瞳でこっちを見ていることもある」
「ああ……その瞳なら知ってる。暴走族の特攻隊長がこれから敵に殴り込みをかけようというときみたいなあれだろ」
 あの坊主が戦っているのは何度も見かけたが、俺はいつも大挙した暴走族のクラクションとピアノソナタが無理矢理合わさったような曲が、確かに流れているのが聞こえる気がする。空耳だろうか。
「違う。天使だ。聖カタリナだ。いやまあひょっとすると……妖精かも知れないとは思っているんだけどな」
「で? 桜はどうなった?」
 病状がかなり進行しているだろうことは察していたので驚きはしない。積極的に匙を投げることにして話を元に戻した。悲しいことだが医者としてはまず救える可能性のある方の人命を救うことを考える。特攻隊長だか妖精だか天使だかは知らないが、サクラクラにかかっているなら放っておくわけにもいかない。場合によっては明日の午前の予定はキャンセルして様子を見てやらねばならないだろう。
「……あ、うん。で屋形船に乗ってな」
「敵が出たのか」
「ちげぇよ。なんだ、喧嘩っぱやいな。恭弥みたいだ」
「みたいじゃねえ。で?」
「で、宴会ってことになってさ、酒飲んで、鍋食ったんだ」
「このくそ暑いのにか?」
「おう。桜鍋」
「……サクラ……鍋?」
「そしたら恭弥が気持ち悪いって大人しくなっちまって! どう考えてもサクラクラ病の所為だろ! さっさと薬出せ!!」
「……」
 どう考えてもそうではない。船酔いか熱中症か、そんなところだろう。ぼんやりと壁時計を眺める。貴重な、貴重な俺の睡眠時間。だがあの坊主には罪はない。こんな馬鹿に好かれているというだけで病人には罪はないのだ。聖人の如くに心優しき俺は、乗り物酔いの薬とポカリを取り出すと、手渡す前に一発殴っておこうと拳を固めた。











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