愛の介の字貼り


「あー! もう恭弥、大人しくしろって」
「やだ。も、跳ね馬やだ、って」
「いいから。ほら、いいこにしてれば悪いようにはしねぇよ」
「や、ぁ」
 暴れる脚を何とか抑えつける。バスローブから覗く脚はひどくしなやかで、水気を帯びて掴みにくい。その気はなくともつい爪を立てて、ひ、と子どもが息を吸う気配があった。それ以前にすでに随分傷をつけているのにだ。可哀そうだと思わなくもないが、引くことはできなかった。
「このままじゃ辛いだろ。楽にしてやるっていってんだ」
「や」
「なんで。意地はんな、すぐ楽にしてやるから」
「やだ」
「何が嫌なんだよ。すぐ済むっていってんだろ」
 眉をしかめてディーノは大きく息を吐いた。まったくこの弟子のいうことは訳がわからない。
「湿布を貼ってやるっていってるだけじゃねーか」


 初めてできた幼い弟子は、まったくちっともこれっぽっちもいうことをきかない。だがディーノはそれがどこか嬉しかった。一枚岩を誇るキャバッローネファミリーはボスに対しても無駄な遠慮などしない古参の部下も多いが、それでもここまで率直に思う儘に対応してくる人間はいない。そしてそんな怖いもの知らずの子どもが、毎日顔を合わすたびに少しずつ警戒を解いていく、これほどの喜びがあろうか。彼は今自分自身の物差しでディーノのことを測っているのだ。まあその尺度はほぼ戦いによるものなのだろうけれど。
 そんなディーノにも、弟子相手でも譲れない一点があった。傷の治療である。
 緊迫した戦いを前にした修行の旅。今日のダメージはあとに残さず回復して明日に備えることが重要である。なるべく弟子には傷を作るような攻撃をしないように心掛けてはいるけれども完璧ではない。だから治療をする。それはもう我が弟子は暴れなさるがそれでもなんとか治療をする。死ぬ気でする。そしてそのあとは湿布を貼りたい。湿布を、何のためかと問われれば、「筋肉痛にならないために」湿布を貼りたい。だがそれを聞いた瞬間、それまでの反抗ぶりなどとてもかわいらしいと思えるほど、我が弟子はそれはもう思いきり暴れてくださった。思いきり、だ。
 必要ないだとか僕はそこまで軟弱じゃないだとか。多分そんなことがいいたいんだろう、ということぐらいはディーノも「や」とか「やだ」とか「ばかばかばかうま」などの罵声から聞き取っている。部下に行ったらものすごく変な顔はされたがこう見えても音楽を愛する人間で溢れるイタリアの出身である。絶対音感、とまではいわないがその程度の心の揺れなど聞き取れないで何がマフィアのボスだろう。
 だがディーノだとて譲るわけにはいかない。たかが筋肉痛と甘く見ることなかれ。僅かな程度のダメージであっても翌日の修行に支障をきたすことに変わりはないのだ。
「や」
「じゃねぇよ。痛くなったら明日満足に戦えないだろ」
「戦えるよ」
「戦えねぇ」
 断言してちょっとまずったかな、と思った。何しろ根性だけで何でも何とかしそうな強い子だ。
 だがそんな無理をすれば学べることも限られて先々を見れば効率的ではないのだ。それははっきりと断言できる。雲雀は常日頃咬み殺すと明言している通り好戦的だし暴れまわっているらしい。毎日体にそれなりの負荷をかけていることだろう。だがその程度、こうやって師匠とその戦闘能力を高めるべく特訓している日々とはレベルからして違うのだ。ディーノも幼い頃あの恐るべき家庭教師にしごかれていた時分は、毎日毎日限界まで体を動かして、そして毎朝毎朝、起きれば必ず慣れもせず心と体が悲鳴を上げた。曰く、修行なんてしたくない。曰く、マフィアになんてなりたくない。だがある日気づけば、いつのまにか筋肉痛なぞに悩まされることはなくなっていて、ちょっとやそっとのことで心が揺れることもまたなくなっていた。つまりきっと明日彼が苦しむことになるだろう痛みもまた、成長過程における重要なプロセス、なのだ。
 だがその痛みを少しでも和らげてやりたい、と願うのも教師として当然のこと。ディーノは心を鬼にして、暴れる弟子のバスローブの腰紐を解き、ひどく軽い体をそのままひっくり返した。湿布の入った袋を咥え、片手で破る。独特の、清涼感というには少々暴力的な匂いがした。
「ちょ、やだ! なにするの」
「いいこだから、な。恭弥。きもちいいだけだって。ほら、あれだ。介の字貼りにしてやるから」


 びくり、と雲雀は固まった。介の字貼り。確かにこの自称家庭教師はそういった。
 テレビなどそう頻繁には見ない雲雀だが、それでも該当の湿布のCMくらいは把握している。結婚式で、あるいは閨で、夫婦が背中に湿布薬を貼りあうというなんとも風紀が乱れる内容のものである。だがこれは当たり前のことで、まっとうな人間であるならばそれはもちろん、海だのプールだのでもなければみだりに肌を露出したりなどはしない。そして海だのプールだのでは人はあまり湿布薬を体に貼ったりなどしないものだ。だから、自分一人では貼れない位置に湿布薬を貼ってもらうとしたら、それは医者か、それとも家族か夫婦。落ち着いて考えてみれば何とも当然の行為である。だが彼は自分たちは家庭教師とその生徒であるという。
「きょうや」
 いつだってきらきらきらきらした男が甘ったるい声で自分の名を呼んだ。鼓動が速くなったのが自分でもわかる。無駄に懇切丁寧な治療が嫌だと抵抗していた間はさっぱり頭の中から消えていたけれども、いつも、この派手な頭を見るたびに雲雀はそうなるのだ。落ち着かなく、いたたまれなく、わあ、と叫んで滅多矢鱈にトンファーを振りまわしたい、そんな。だがいまはあのきらきらきらきらきらきらした顔を見てるわけではなくて枕に顔を埋めている状態で、何故なら横暴な家庭教師にバスローブを脱がされてベッドの上にうつぶせにされたからで………
「あ」
「ん、どうした。恭弥」
 如何にもなんでもなさそうに、家庭教師が問う。それが雲雀には信じられない。だって雲雀は気づいてしまったのだ。介の字貼り。愛の介の字貼り、だ。テレビではそういっていた。それも当然でベッドの、医療用ではないベッドの上で湿布を貼ってやるなんて夫婦でもなければ考えられない。でも雲雀とこのきらきらきらきらした男は何故だかベッドの上にいる。なんということだろう。鼓動が先ほどより更に早くなった。
 そうだったのだ。そういうことだったのだ。常々矢鱈接触の多い、何かといってはべたべた触ってくる人だとは思っていたけれど、外国人のすることだからと文化を尊重する対応を取ってきたのだ。だがよく考えてみると、挨拶の度に顔じゅうにキスをするとか、怪我の治療をすると頑張ったなとハグしてくるとか、狭いベッドでは落ちそうで眠れないといえば次からダブルベッドにするから我慢しろよといって一晩中へたくそな歌を歌ってくれたりとか、絶対におかしい。迂闊だった。どうしよう。いやそうだというならば、最初からはっきりそういえばいいのだ。そうだ。そういわれれば自分だってすぐに咬み殺して、いや咬み殺すのはどうだろう。どうすればいいのだろう? このきらきらきらきらした家庭教師はひどく眩しいのでいつも目のやり場に困るし、頭に血が上って、口元がむずむずする。たぶんきっと、自分は顔面の神経性的な病気なのだ。
「ひ、あ」
 空気が動く気配がして、だが触れたのは冷たい湿布の感触ではなくてあの鞭を握る、ひどく長い指だった。くすぐったい。雲雀は身をよじりそうになって、それでもなんとか耐えた。なんで自分のほうが、恥ずかしいような気分にさせられなければならないのだ。


「きょ、うや」
 何とか平静を装って名を呼んだ。なに、とかわいい教え子は律義に答えを返して、だがその表情は窺い知れない。自分に見えるのはただどんどんどんどん赤くなっていく、ひどく細い項だけだ。
 戦いをそなえたかわいい弟子に治療をする。なんらおかしな行為ではない。しかし既に随分赤い、この子どもらしからぬ随分動揺した風情に、こちらの方が落ち着きをなくしてしまった。かわいい。いや違う。既にホテルのドアを半壊させているこのいうことを聞かない弟子相手にそのような表現は妥当ではないだろう。いやでもかわいい。動揺したついでにディーノは思い切り湿布薬を握って、それはすっかり丸まって使い物にならなくなってしまった。ぽい、とそれを放ってもうひと袋開ける。その音に驚いたように、弟子の背が震えた。
 どうしよう。このような反応を見せられれば気づかないわけにもいかない。ディーノのファミリーでは怪我の治療を互いにし合うなど日常茶飯事だ。抗争もあるが、それ以前にたいして暇のない状況でも強いて演習を行うようにしている。危機に備えるのも仕事のうちだ。演習であるので、多少過酷に設定したものでも大きな怪我をする者はほとんどいない。打ち身、擦り傷。ただ人数が人数であるのでその治療は、我がファミリーにいる医療の心得のある人間だけではとても追いつかない。軽傷の者は服を脱いで互いに治療をして、その日ばかりは屋敷の食堂やロビーは半裸の男たちでいっぱいになる。だがそんな時間が互いに打ち溶け合うための重要なものなのだ。
 しかしたかだか怪我の治療にここまで動揺する人間などいない。もちろん日本人は欧米の人間よりも慎み深い人種だ。殊に我が弟子は風紀に厳しく、他人に肌を晒すなど、自らする筈もない。
「きょうや」
「だから、なに」
 わかってないように弟子が答えた。いや本当にわかってないのかもしれなかった。ただディーノだけが自分の状態に愕然としていた。細く、赤く染まる項。背中。細い腰と、そこから一筆書きで書かれたような、すんなりとした脚。そしてそこに馬乗りになっている自分。
「ああああああああああのな、きょうや」
「だ、だからなに………って」
 なんということだろう。いかがわしい、明らかにいかがわしい状況である。これでは風紀に厳しい弟子が、誤解しても仕方がない。自分にはそんな、彼を傷つけるつもりなどなかったのだと話して納得してもらえるだろうか? 明らかに無理である。普通、湿布を貼るからといって相手に馬乗りになる人間はいない。だいたい、マフィアの豪胆な男たちと、この慎み深い国の生まれの天使のような子どもを、同じように扱うこと自体間違いなのだ。
「は、ねうま」
 焦れたように自分を呼ぶ、その声だけでいけない。多分ディーノの顔も、この子どもと同じように真っ赤になっているに違いなかった。ディーノはまたつい湿布を握ってしまって捨てて、だがその手の置き場に困って、そして表情にも、目のやり場にも困った。かわいそうに、綺麗に浮いた翼の名残はいずれもたらされる冷たい感触に怯えているように震えていて、赤くて、そしてほんのりとしょっぱくて
「ひゃ」
「う、ああああああああすまん! 恭弥!!」
 ふるふる羽ばたいていた肩甲骨がいきなり硬直して、ディーノは我に返った。なんてことだ。そりゃ雲雀だってびっくりする。どこの世界に湿布を貼るといって背中に噛みつく教師がいるだろう。
「やだ………もう」
「うんごめんなそのなんかつい」
「する、なら………はやくして」
 体を捩じって、睨みつけてきた目はひどく潤んでいた。いやわかっている。これは湿布を早く貼れと、そういっているのだ。わかっているのにディーノはその衝動のまま、かわいらしい唇を貪った。


 やってしまった。
 さわやかな朝陽を浴びながらディーノはベッドの上で頭を抱えている。なんてことだろう。やってしまった。
 かわいそうに暴力的なほどの男の熱情を受け止めてくれた人は、疲れ切った様子で眠っている。その瞼が赤く腫れているのが視界に入って、ディーノは罪悪感と愛情で胸がいっぱいになった。ああなんてかわいらしい人だろう。
 一晩中、この幼い人を抱いている間中、ディーノはうわごとのようにただ好きだ好きだと囁いていた。それは今までの経験から知っているような、儀礼的だったりなんかそんな空気だからだとか、悦ばせたいとか、そんな理由の睦言とは違って、ただただ口を衝いて出てしまう、溢れだしてしまう言葉なのだった。もっと上手なセックスをいくらだって知っているはずなのに、自分はただその言葉と、彼の名前しか知らない馬鹿な鸚鵡のようにひたすらその二つを繰り返しながら腰を振って、そのたびにすとんと胸に落ちるように、ああ自分はこの子が好きなのだと思ったのだ。
 そしてこの天使のような子どもも、健気にも律義にも、その口から意味のない叫びしかでなくなるまでは、いちいち僕も、僕もと答えてくれて、その度にまるで自分が口にした言葉に驚いたように目を丸くするのだった。
「かわいい………いやそうじゃねぇ」
 つい幸せな気分に浸ってしまいそうになるがそれではいけない。自分は酷いことをしたのだ。それを忘れてはいけない。
 男同士であるし、雲雀はシチュエーションだとかなんだとか、そんなことに拘る人ではない。それはわかっている。それに、こんな状況でもなければディーノはさっぱり自覚のないまま踏み出せはしなかっただろう。だが、多分、いやきっと、このかわいい人にとっては初めての経験なのだ。いくらなんでも。
「っていうかさ………あー………」
 周囲を見渡して、ディーノはため息をついた。それなりの広さを誇るダブルベッド。そこに散乱する、情事の名残そのままの丸められたティッシュ。そしてそれと同量か、いやそれ以上の、動揺する自分の手によって握りつぶされ投げ捨てられた湿布薬………。
 朝になって我に返ってみればすごい臭いである。それはもう、あれほど激しかった性交の後の臭いなどさっぱりまったく感じられないほど。それなのに、ある種暴力的なほど清涼感のある臭いは、そのままこんな風に抱いた後も清らかなまま存在する天使のような人との記憶を思い起こさせて、ディーノは呻き声をあげそうになった。なんてことだ。
 修行の日々はまだまだつづくのだ。いや、そのあとも、このかわいい人を一生手放すつもりはないし、だとすれば手合わせを強請られない筈がないことぐらいディーノだってわかっている。彼を鍛えることは自分の喜びだ。だがこのままでは、治療のたび、湿布の臭いを嗅ぐたびに欲情しないでいられるとはとてもいえない。今の今までまっとうだったはずの自分の性癖がとんでもなく歪んだのを自覚して、ディーノは頭を抱えた。
























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