「ずいぶんにおうね…」
 くん、と鼻を鳴らして雲雀は思わず眉を顰めた。目の前では小鍋に半分ほど入った液体が、ふつふつと沸き立ちながら悪臭を振りまいている。
 もちろん飲みつけているこの薬がかなりの悪臭を伴うことは知っていた。だが常ならば、この薬を飲むときは雲雀はベッドの中にいて、家政婦が階下の台所で煎じたものを部屋まで運んでくれるのだ。その上、そんな時は大体雲雀の嗅覚も、風邪の諸症状が原因でかなり鈍感になっている。そんなわけでいつもいつも臭い上に苦いという不満と共に飲み下していた薬であるが、煎じている時は更に臭うだなんてこと、想像したこともなかった。常々家政婦とは挨拶か、それとも要望を伝えるかくらいしか会話をせずにいたけれども、いくら仕事とはいっても自分の体調不良のためにここまでの苦役に耐えてくれているのだ。もうちょっと感謝の意を伝えるべく努力すべきではないかと雲雀は反省した。並盛の風紀という大義のために、自ら望んで働いている部下たちとは違うのだ。
「そうですか? まあ、生薬を煎じるとなりますとね…」
「ああ、そうなの」
 ではこの薬が特別という訳ではないのだろう。頭の上に乗っかった赤ん坊の発言に、雲雀は素直に頷いた。流石は本場の人間である。
 かかりつけの漢方医に処方してもらってこの薬を飲むようになったのは雲雀が小学校にあがる時分のことで、よく憶えてはいないのだけれども、その頃はまだ軟弱にもはしかやおたふくや水疱瘡などに相次いで罹患するような病弱な子どもであったのに、今は病気といえば風邪くらいで、極めて健康体である。それに、あの頃は近くの中学生に喧嘩を挑んでも負けて帰ってくるほどだったのが、飲みだして数年後からめきめきと力がついて、今や並盛の秩序である。どこからどう考えても素晴らしい、画期的な効能である。彼だってすぐによくなるに違いないし、ひょっとしたらもっと強くなるかも。
「効くかな」
「効きますとも」
 想像するだけで胸が高鳴って、雲雀は息を詰めた。でも、そうだ。五つ六つの頃の自分にあれだけ効いたのだから、彼だったらすごいことになるのではないか。こう、大砲も片手で止めるとか、マシンガンを鞭で全て弾くとか。ああ、ちょっと考えただけでもあまりに勇壮すぎる。かっこいいといってもいい。どうしよう。どうやってぐっちょんぐっちょんに咬み殺してやろう。
 はたと気づく。そうだ、自分はディーノを咬み殺してやりたい。あのどうしようもない衝動は薄れてはいても、己が戦闘意欲がすべて消え去ったわけではないことを悟って、雲雀は安堵した。そうだ。そうでなくてはいけない。
 現金なことだと思う。大体本当に自分は戦えるのだろうか? そう考えて雲雀は大きく首を振った。戦える筈だ。ディーノが完治した暁には、自分だってきっと、さっきまでのような不甲斐ない様はみせない。意地でも咬み殺してやる。出来ないはずがない。ああその昔、信玄に塩を送った謙信も、こんなふうに痛いほど胸を高鳴らせ、彼と再び戦うことを夢見ていたのだろうか? きっとそうに違いない。
「いやそんなことはないと思いますけどね…」
「え?」
 思わず風は呟いた。てか声に出てますよと突っ込まなかっただけでも感謝して欲しいところである。正直日本の歴史にはさほど詳しくはないけれども、そうはいってもわかることもある。ふつう武将なぞというものは、目の前の少年のように瞳を潤ませ頬を薔薇色に染めながら敵の戦力回復を願ったりはしないものだ。この国に数多いるという特殊な嗜好を持つお嬢様方には申し訳ないが、現実とはそういうものなのである。
「何効かないの」
「いえいえ。つまりあなたにとって、この薬はお詫びの印のような意味をもつのですね?」
「な?!」
 固まってしまった様子に苦笑する。しばらく前、自らにかかった呪いを解こうと、短期間ではあるが雲雀と組んだのは記憶に新しい。戦闘力だけを評価するなら、才能に溢れ努力を惜しまない、先々楽しみな存在である。負けん気とやる気だけならこの世界の誰にも後れは取るまい。だがそうはいってもまだまだ幼い子どもだ。
「べつにそうじゃなくて………ただちゃんと正々堂々と戦いたいな、っていうか。あっちが病気だったから僕だって本気を出せなくて、それであんな………あんなだったのかもしれないでしょ?」
「あんな、といいますと?」
 思わず聞き返したがもごもごというばかりで要領を得ない。さては余程こてんぱんにのされたのだろうか。ホテルに到着した際顔を合わせただけだが、キャバッローネのボスは前評判ほど体調不良には見えなかった。力量差からいってもこの子どもの相手もできないとは思えないが、それでもなにがしかの不調を抱えているならば、手加減をしそこなうこともあるかもしれない。
「とにかく、次こそは咬み殺すよ!」
「その意気ですよ。頑張りましょう」
 雲雀は我が意を得たとばかりに大きく頷いて見せて、風は微笑ましい気分になった。
「きっと彼も、あなたが強くなったらとても喜びますよ」
 師匠とはそういうものだ。しかもあのキャバッローネのボスときたら、聞いたところによると………つまりこの子どもの話を要約すると、弟子との手合わせのためにわざわざ来日したとのことで、それだけでもずいぶん親身に面倒をみていることが伺える。だから風としたらごく当然のこととしてそう励ましたのだが、鍋を覗き込んでいた雲雀は驚いたように肩を揺らした。
「そ、そそそそうかな?!」
 ここではたと気づいた。どうやら失言だったらしい。先ほどからずっと頭から追いやろうと追いやろうとしていたが、遺憾ながらこの子どもとあのイタリアンマフィアのボスは師匠と弟子というだけの間柄ではないらしいのだ。だがそうはいっても、この程度の会話で動揺するなんて思いもよらない。
「えーきっとそうですとも」
 声が平坦な響きを持ってしまったことは許してほしい。先ほどホテルに到着した際、ロビーで待ちかまえていたマフィアのボスは十数年ぶりに恋人と再会したみたいに両手を広げて雲雀の名を呼ばわり、その腕に頭の上に乗っている人間のことも忘れて一目散に飛び込んだ少年は、余命十日と恋人が宣告されでもしたかのように、頭が痛みはしないか、咳はどうかといらぬ心配をしていた。甲斐甲斐しく世話を焼かれた男がどれほど脂下がっていたことか、もう少しでそこまで痛むのならその頭、首から取り外してしまったらどうでしょうと提案したくなったほどだ。手合わせのために来日なんて、何たる美談素晴らしい師弟愛だと迂闊にも考えていた自分の感動を返してほしいものである。どう考えたってあの馬は別に不埒な目的があったのではないか。
 なにも風は同性同士の恋愛関係に否やを唱えているわけではない。実際、町でそのような恋人たちを見かけたとしても何とも微笑ましいことですねと、深く考えずに通り過ぎたに違いないのだ。だがその片割れが、自分の幼い頃と全く同じ顔をしているとなると話は別である。
 幼い頃、といっても今の自分の体からすれば彼の方が年上に見える。それはわかっている。それに性格だって、さほど似ているわけではない。自分だって戦闘は好きだったがもう少し穏健なたちであったし、彼のように、委員会の活動資金という名目があるとはいえあちこちから五万五万と金を集めて回るような、そんな遠慮のない性格ではなかった。ただ偶然、驚くほど容姿が似通っているというだけの話だ。それでも、それだけでもずいぶんと微妙な心持ちになるものである。
 これがもし本当に自分であったなら、あんな風に臆面もなく人前でいちゃつくまえにひと思いに首でもくくったであろうし、そうでなくて、たとえば息子だとかであったなら、あの脂下がった金髪の顔面に即座に爆煉疾風拳を叩き込んで「お父さんは許しませんよ」と啖呵をきったことだろう。だが、偶然にも顔が似ているだけの関係であるがため、風はひたすら空を眺め、「息は苦しくない?」「オレは恭弥のこと考えてるだけで胸が苦しいよ」「仕方のない人だね、何でベッドでおとなしくしていなかったの」等々の愚にもつかない会話を脳内に入る前に完璧にシャットアウトするためには、どこまで精神を鍛えればいいのだろうかと考えていた。顔が似ているということはすなわち骨格も似ているということで、当然の結果として声もまたよく似ているのだ。踵を返して退散したい気持ちを押しとどめたのは、ひとえにキャバッローネファミリーの面々の、薬を煎じるのが雲雀だけではないという事実を知ったときに浮かんだ、安堵の表情である。あとはこの少年に対する情だろうか。子どもとの約束を簡単に破ってはいけない。
「わかった、絶対あの人を咬み殺してみせるよ」
 恋人を喜ばせたいが故の発言としては、流石にどうかなと思いつつも風は頷いた。一度くらい咬み殺されてしまえばいいのだ。ざまをみろ。
 雲雀の頭から、キッチンの作業台に飛び降り、鍋の中を覗き込む。雲雀は常用しているという薬は携帯していたものの、煎じるための道具は持ってきていなかった。そしてホテルのキッチンはお飾りがいいところで、ティーセットやグラスがあるだけ。キャバッローネの人員を通じて、風がホテル側に器具の調達を指示したのである。次があるとも思えないのに土瓶や土鍋なぞを入手させるのもどうか。そう考え、あまり大きくない、琺瑯びきの鍋を。そういった。確かにいった。
 届いた鍋は真っ赤なハートの形をしていた。
「………………このまま蓋をして、あと二十分程煎じましょう」
 世事に疎い自分でもわかる。この如何にもかわいらしい小鍋は結婚したばかりの若いお嫁さんかなんかが、ビーフシチューだとかコーンスープだとかチーズフォンデュだとかなんかを作るためのものだ。間違ってもこんな鍋でニンニクたっぷり激辛四川麻婆豆腐なんてものが作られることはないだろうし、それ以前に漢方薬が煎じられることなんて想定されてない。
「うん。………ねぇ、よくなるよね?」
「もちろんですとも」
 本日何度目かの問いをがんぜなく繰り返す子どもに、励ましの意を込めて大きく頷いてみせる。そも、悪くなってはいないのだから何の問題もない。愛らしいハートの鍋で悪臭をふりまきつつ煎じられる薬は、見た目だけでもけっこうなインパクトというか、詳しくはないが西洋でハーブや超自然的な力に詳しかった方々が魔女として断じられたのも故なしと思われるほどのおどろおどろしさであった。だがたぶん、ミネストローネだとかクリームチャウダーなんてものにも勝るとも劣らず、愛情はたっぷりと込められている筈だ。
 薬も過ぎれば毒となる。ごくごく当然の、当たり前の事実である。だが鍋の中身を見てみれば、多少の追加された薬草はあるにせよ。
「所詮葛根湯ですしね………」
「え? なに」
「いえなんでも」
 面識があるだけの薬師だが、確かに風邪の初期症状を鎮めるべく、最適な調合を行っている。一応確認した鍋の中身の主成分は葛根、麻黄、桂枝、生姜、甘草、芍薬、大棗。解熱し胃腸の活動を助け風邪の初期症状を緩和する。すばらしい効果ではあるが、健康体がそれを飲んだからといって、毒という程の悪影響がある筈もないし、本当に風邪のひきはじめであるならば、きっとすぐに治ることだろう。
「ねぇ、君って本当に漢方薬に詳しいの?」
「え? ええ………なんでそんなことを?」
「だってさっきから薬を煮てるだけだし。なんかこうもっと他にあるんじゃないの」
 そういうものですから。だが雲雀は期待に満ちた表情を浮かべていて、効能に釣り合うくらいの………この場合は風邪の初期症状をただ緩和するって話じゃない、あのろくでなしの病を治すという報償に値する努力をしたいと望んでいるのだとわかった。つまりあれだ、何かを得ようとするためにはそれと同等の代価が必要で、だが何をもって同等とするか判断するための秤は、どうしたことだか万人共通の基準を有していないのである。風には小指の爪の先程の価値さえないものも、他の人間にとってはもうちょっと………そう親指の爪くらいには価値があるのかもしれない。そういうことはままあるものだ。
 それに子どものいうことである。だから真に受けるべきではないと、重々理解しているというのに、風は何とも大人げないことにむっとした。自覚はあるのだがどうにも負けん気の強いところがあって、自分の能力を低く見積もられていると感じると、はいそうですかと流すことなぞとてもできない。じゃあ白黒はっきりつけましょうと売られてもいない喧嘩を買ってしまう傾向にあるのだ。それで何度、流派の違う格闘家だとかやたらプライドの高い某術師だとかと張りあってしまったかしれない。
「詳しいですとも!! 資格も持ってますし今だってこうやって…」
 まずい、と思った時にはすでに、風は懐から薬草をとりだして並べて見せていた。備えあれば憂いなし。しかもまだ幼児といっていい年齢の弟子を抱えている身とすれば、どれだけ対応策を講じても足りないのだ。ある程度の種類の薬草は常に携帯していて間違いはない。
「すごい………君こんなにたくさん、どこにしまっていたの」
 これが何とも摩訶不思議な方法で様々なギミックを太さ二センチメートル強のトンファーに内蔵し、そして更にそれを制服のシャツの内部に常に隠し持っている人の御言葉である。だがその感嘆の響きに歓びを感じなかったと申せば虚偽を申告することになろう。
「ま、まあこれくらいなんてことありませんよ。なにがあるかわかりませんしね」
「ねぇ、この細い枝みたいなのは何?」
「え?………ああそれは甘草です。腹部の拘攣ですとか手足の冷えに効きます」
「この小さな釘みたいな形のは?」
「丁子ですね。嘔吐をとめたり」
「じゃあこの大きな葉っぱみたいなのは?」
 興味深げにひとつひとつ矯めつ眇めつする様子に頬を緩める。知的好奇心が旺盛なのはすばらしいことだ。利発だし探究心もある。いや、別に何も自分が誇らしく思うべき事柄ではないのだが。
「ああそれは枇杷の葉で」
「じゃあこれは? タツノオトシゴ?」
「ええそうですよ。海馬ともいって強壮の………」
「なにそれ。キョウソウ? 走るの?」
 なにそれじゃない。思わずつっこみそうになって、だが風は自重した。相手は子どもだ。自分が何をきいたのかすらわかってはいまい。
 だが、子どもであればあるほど子ども扱いをされるのを嫌うもので、まだまだ幼い弟子ですら、自分はもう一人前で師匠に御心配はおかけしませんとよく手紙に書いてくるほどである。それを読むとこっちがどれほど寂しくなるのか、想像もできないところがまだまだ子どもの証拠であるというのに。
 だから雲雀も、まだわからなくていいんですよと話を逸らそうとすれば、子ども扱いするなと怒りだすことだろう。短いつきあいだがそれくらいの反応は予測がつくのだ。ええと…強壮は競走と違って速ければいいもんじゃなくてむしろ持久走的な………いやだめだ。だが、どう見てもさっぱり意味もわかっていない子どもにこの海水魚の効能を説明するとか、どんな罰ゲームだろう。
「えーと。その、ですね」
「うん」
「これはあれです。夫婦や恋人同士や………つまりその人間関係をですね、より密にする働きがあります」
「密に?」
 なにそれ、とでもいうふうに群れを嫌う風紀委員長は眉をしかめて、ああこれはやっぱりまったくわかっていないですね。
「つまりその………なんといいますか閨での…、いや閨でするとばかりは限りませんね、まあそれは人と場合によりますが、とにかくその、男性の戦闘意欲を高める………といいますか」
「………なにそれ。戦闘意欲?」
「え、ああそうですよね、風紀が乱れますよね」
 あわてて頷く。何とか捻りだした形容は、如何せんあからさま過ぎたろうか。こんなものを携帯していた上、この子どもにみせた自分に非がある。もちろん自分はこの姿であるので………というかこの姿になる前も、このような生薬に頼る必要を感じたことはないのであるが、そう親しくない人間にまで自分が漢方に詳しいことは知られていて、相談を受けることはままあるのだ。その中にはこのような性交に関する悩みも少なくなく、ついつい人のよい自分は海馬に限らずそうした効能の生薬も携帯している。これも人助けである。
「え? いや、うん、そうだね、僕もその、ドーピングとか、そういうのはよくないことだと思うよ。そういうことは正々堂々とすべきだよね」
「はい?」
 思わず風は首を傾げた。正々堂々としたセックス………いやそれおもしろいのかとか問いただしたくなるが、そういう問題ではないだろう。ドーピング、と今いわなかっただろうか。たしかにそれは、つまりスポーツに於いての薬物投与は禁止されている。だが性行為に於いての薬物投与は、今のところ全面的に禁止されてはおらず、事が終わったあとに役人が待ち構えていて尿検査される、などということもない。とりあえず海馬を服用することは個人の自由である。それに、中国四千年の歴史を如何に考えているのかと説教してやりたいくらいなのだが、我が国伝統の精力剤はセックスドラッグの類と比べると、ほとんど規制されていないのだ。
「でもすごいね。そんな漢方薬があるなんて知らなかったよ。………で、その、ちょっとくらいならいいんじゃないかな、って思うんだけど…」
「………え?」
 信じられない思いで風は問い返した。どうしてだろう。ただ単に顔が似ているだけ、そう思っていた筈なのに自分はいつのまにやらこの子どもを自分と同一視していたのだろうか。精力剤だときちんと理解しているならまだよかった。そうではない。そうではないのだ。彼は戦う前にこれを服用しようというのだ。
「あなた、本当にこれを使うつもりなんですか」
「うん」
 頷いた子どもに確かに失望して、だけれども風は、なんとか笑みを浮かべて見せた。まだ彼は幼いのだ。道に迷ったとしてそれを責めるべきではない。諭して導いてやるべきだ。
「五万」
「え?」
「ただだと思いましたか? 他にもそういった薬はあります。鹿茸…これはまだ柔らかい鹿の角です。戦闘意欲を維持します。鹿の陰茎や睾丸もあってこれは鹿鞭といいます………ああ、馬のはありませんよ?」
 我ながら嫌味たらしい。煎じる前の馬の鞭の抽出物ならもう服用してるんでしょうねとかいわなかっただけ褒めてほしいところだ。だが、真面目な顔で頷いてみせる子どもにこの冗談は通じなかったらしい。それにこの子はなかなか金には細かい。短い間ではあったが自らにかかった呪いを解くため参加したゲームで、協力して戦うべく行動を共にした際、何度も街の商店主や事業者に、委員活動資金を要求する様を目撃したほどである。だからきっと、こんな生薬一包に法外な値段だと見做すに違いない。あれこれいってきたら、むしろそんな端金で戦いを制そうと考えた甘さをがつんと説いて、指導し直してやろう。
「冬虫夏草、鼈甲、海狗腎………これはオットセイの陰茎です。年齢とともに低下する戦闘意欲を高めます。それに蟷螂の卵に、これはイモリの黒焼きですね」
 キッチンのカウンターテーブルの上、ありたけ取り出した生薬の中から、一つずつ抜き出して説明しながら並べる。我ながら冷静になってみると形容に困る様である。治療を求められた際対応すべく集めたのだから当然ではあるが、随分な量だ。どんだけやるつもりだといいたい。
「毒じゃないだろうね」
「ええ」
 戦う前に自分の心配か。いや当然のことだ。当然のことなのだが風はつい眉を顰めた。自分に限っていえば、さあこれから拳で語り合おうというとき、そんな瑣末事に関心をよせたことなぞない。怪我を恐れて戦うことなどできないのだから。
 だがいかにも用心深げに質問してきた子どもは、どこからどうみても期待に満ち満ちた瞳の輝きを隠せてはいない。ショーウィンドウに飾られたトランペットに憧れている幼い子どもだって、ここまで熱い視線を鹿の陰茎に投げかけたりはしない筈だ。いやそりゃそうだ、いきなりいい話じゃなくなる。だが風紀に厳しい筈の委員長は、並べられた生薬をつついたり光に翳してみたり、なんとも興味深げに矯めつ眇めつ。
「気になりますか?」
「うん。だってあの人具合が悪いんだもの。そういう免疫? とか落ちてるかもしれないじゃない」
「………………………………はい?」
 あれ、と首をかしげる。彼の答えの何に違和を持ったか、そこに気づくためだけに随分の時間がかかった。
「これだけ干してあれば大丈夫なものなのかな。黴菌とかついてない?」
「その、跳ね馬に飲ますつもり、なんですか?」
「うん。他に誰がいるのさ」
 あの人の薬を煎じてるんじゃない、といわれて素直に頷く。確かにその通りだ。だがてっきり、雲雀本人が薬を飲むつもりだとばかり。そしてじゃあなんだってそんな勘違いをしたのかというと。
「だって彼の方が君よりつ………」
「なに」
 す、と部屋の空気が冷えたのに気づいて、風は思わず身体を震わせた。そんな馬鹿な。彼はまだ子どもで、戦闘技術にだって粗がある。それなのにこんな殺気を放ってみせたというのだろうか。
「いえなんでも」
「すぐきくの」
「そうですね」
 なんていうことだろう。あの男がこれを飲む? いや、ほら、あれだ。風邪をひいているといっても、少し見た限りだが大して病状が重いようには感じられなかったし、それに向こうはマフィアのボスである。薬物耐性のための訓練くらいしていることだろう。ナチュラルな薬剤を少々服用したところで、そう危険なこともない筈だ。きっとそうだ。それにまだ、この子どもが金を出すと決めたわけでは。
「じゃあはい、五万」
「ああ、ありがとうございます………えええええええ?」
 はい、と手渡された五枚の札を風は茫然とみつめた。そんなばかな。
「何足りないの」
「いやそんなわけはないですけど!」
 むしろ適当に要求したので、どの生薬を選ぶにせよ、一回分の値段としたらとんでもなく暴利である。もちろん彼はこのような漢方薬の適正価格なぞ知らないだろうが、それにしたって、年の割にしっかりした子だ。値下げを要求するとか、インターネットで相場を調べるとか、やりようはあった筈である。そういった対応を怠るような子どもではない。それをまさかすんなり支払うなんて。
「あの人が本気だせば、僕だってだせる筈なんだ………」
 だが、ぽつりと雲雀は零して、ああと風はそこで得心した。そういえばそうだ。この子どもは卑怯な手を使って勝ちを求めるような性格はしていない。まあ、だからといって、金を払ってまで強い敵を更に強くしてみようと画策するなんて、流石に想定外だったけれども。あれこれ迷って、取りあえずはと金を懐にしまう。あとで………あとでそう何か理由をつけて、必要分以外はきちんと返そう。その理由がいまはさっぱり思いつかないけれど。
 まったく若い血ってやつは! 早急に理由をでっちあげなければと思いつつ笑ってやりたい気にすらなって、しかし風は自重した。思えば若かりし頃………つまり今の状態よりは肉体は年老いており精神は幼いにも程があった頃のことだが、自分はここまで戦いを求めていただろうか? いや勿論、我が精神と肉体を鍛えることには余念がなかったし、好敵手と思える人間に出会うととんでもない高揚を感じたものだ。だがまさかここまで無鉄砲に強敵を求めてみせるなんて。いつだったか弟子に付き合って観た、日本のアニメを思い出した。どうやら長い話のようで、自分が見たのは数回だけなのだけれども、主人公と禿頭の二人が亀人間に戦闘技術を習っている話だった。真面目な我が弟子は小さな体だというのに、「私も修行で岩を背負ってみたい」だとか無茶をいいだして宥めるのが大変だったものだけれども、そこはやはり女の子というべきかヒットマンとしての自覚十分と評価すべきかなかなか現実的で、主人公の取りあえずがむしゃらに高レベルの敵との戦いを求める衝動に対しては冷静というか共感しにくいという反応をみせていて、むしろこちらの方がああわかりますよそういうものですよねと大人げなく感情移入してしまったほどなのだ。だがそんな自分だとてここまでは。ああでもあの頃はあの子もまだまだ子ども子どもしていて、いや今でも子どもなのだけれども、あの頃はとても仕事なんて任せられるような程で、遊びにつきあったり菓子を拵えてやったり、本当に手がかかったんですよね。
 思わず長々と追憶にふけってしまった。風がふと我に返り溜息をつくと、相棒であるかわいい猿が慰めるように甲高い声をあげた。常にない自分の様子に驚いているのかもしれない。慌てたように動き回る様子に思わず唇を緩め、追いかけてやってつかまえて頭を撫でてやる。ああたぶん自分は、久しぶりにあった弟子が思っていた以上に成長していて、異国で新たな人間関係を築いていることを喜ばしく感じると同時に、どこか寂しく思っているのだろう。まったく我ながら心の狭いことではないか。当の子どもはたぶん、雲雀と同じように、強くなるべくがんばっているだけだというのに。
「あなた本当に跳ね馬のことが好きなんですねぇ!」
 感傷を振り切るべく大きく首を振り、子猿を頭にのせて雲雀の傍に戻ると、風はとりあえず話のきっかけにと率直な感想を述べたのだが、そこで、なんでだか煎じていたはずの鍋をまたかき混ぜていた子どもは、ぽかんと大きく口を開け瞳を瞬かせた。
「僕があの人のことを好きだって?」
 さて、あまりに思いがけない台詞であったので、雲雀は反応するまでに時間がかかった。思わずいわれた言葉を繰り返して、だがさっぱり理解できない。溢れそうになっている鍋をもう一度大きく掻き混ぜて、しゃもじを台に置いた。おちつけ。本当に幼い子どもというものは、時に無邪気さから突拍子もないことをいいだすものである。何を勘違いしたものやら。
「ええ」
「僕があの人のことを好きだって?」
 だが返答は端的かつ自信に満ちていて、もう一度問い返す自分の声の方が、尻つぼみに弱々しくなっていった。いやそんな馬鹿な。子どものいうことを真に受けてどうする。そりゃあの人は僕のこと好きだとかいっていたけど、僕は別にそんな。いやそりゃちょっと黙って大人しくしていれば確かに格好いいマフィアのボスだといえるのかもしれないけど、大体黙って大人しくなんてしてないから、ただの口うるさいへなちょこだし。戦っている時だってまあ魅力的だといえなくもないかもしれないかもしれないけど一日中戦ってなんてくれないし。だからって別にそのあの人が嫌だっていうわけじゃなくてそのまあ多分嫌いじゃないけどでもほらなんていうかあれで
「ええ。気づいてなかったんですか?」
 ふぇ?と潰れきった袋から最後の空気の塊が漏れ出たみたいな変な声がでた。いやだって。いやだって? そんなわけない。そんなわけないのだ。あの人は自称家庭教師で、強くて、マフィアのボスで、その癖、時々びっくりするくらいあけっぴろげな笑顔を浮かべてみせて、自分と戦うために日本に来てくれて。馬鹿みたいにお人よしで、自分のことは二の次で、ファミリーだけじゃなく雲雀にだって優しい。そのくせ手合わせの最中、一瞬、ほんの一瞬だけど、まるで野生の獣みたいなぎらぎらした視線を向けてくることがある。男なんてみんな単純で馬鹿な生き物だ。あんな熱い視線を向けられたらいい気になって、武器を交わすためならどんなことだってしてしまうというのに、あの人は鈍いうえへなちょこなとこあるからきっとそんなことわかってなくて、だから僕がずっと他の奴と戦わないように守ってあげなくちゃ………………え? いやだってほら…ああでも
「僕があの人のこと好…」
「きょうやー。オレなんか手伝うことあるかー?」
 突如ドアが開き、噂のマフィアのボスが顔を覗かせる。風はびっくりして、もう少しで飛び上がりそうになった。不覚である。気配を感じなかった………とでもいいたいところだが、正直にいえばまったくそれどころでなかっただけである。みれば、雲雀の方はがしょんがしょんがしょんと何かロボでも変形しそうな音をたてて鍋底をしゃもじで擦りあげていた。ああ、そんないきおいよく掻きまぜたらこぼれますよ………というかあれ、その鍋そんなたくさん入ってましたっけ?
「あああああなたなんなの! か、会議が終わったんなら、病人はおとなしく寝てなよ! なにかいるものでもあるの?!」
「え………や、ごめ」
「体調管理は自己責任の内だよ。氷嚢は? おなか痛くない?」
「だいじょうぶだって」
「そう? じゃあなんなのさ。病気が悪化するような真似したら咬み殺すよ」
「おまえ………なんだよ、本当優しいよな。平気だって、おまえのこと考えてるだけで力が湧いてくるから」
 咬み殺すというのは流石にどうなのかなと考えている横で、マフィアのボスが末期極まりない台詞を吐いたので、風は溜息をついた。まああれだ。一定の年齢以下の子どもが体調を崩した場合はとんでもなく手がかかるという事実は経験則から熟知しているところであるし、そういった点から鑑みると先程の戦闘狂極まりない雲雀の台詞も、肝っ玉の座りきった母親がいかにも述べそうな代物に思えてくる。実際、以前はしかだの水疱瘡だのおたふくだの、西洋医学の知識を借りた方がよかろうと思われる病気に感染した弟子を抱えて病院に駆け込むたび、似たような台詞で…つまり大人しくしてないとひっぱたくよとか蹴り飛ばすよだとかいって注射はいやだと泣きわめく愚連隊を鎮圧してみせた、どこの傭兵あがりだと問いただしたい程泰然とした母親を何人も見かけたものだ。金切り声と涙を武器とした手足をばたつかせる一個連隊を統率する女性たちの多くは、まだ若く、護身術のひとつも知らぬ風情であるのに、ぐすぐすと鼻を鳴らす弟子一人の病状に動転していた自分からすればもうちょっとで教えを乞い願いたくなるほど、とんでもなく頼もしい存在に見えたものだ。雲雀は多少冷静な対応をして見せたとはいえ相手は大の大人であり、この程度の体調不良で取り乱すなぞ、まだまだ甘い。ほっといても死にませんよ正直。
「別に優しくなんてない。いいから安静にしてなよ」
「おう。じゃあなんか俺にできることがあったらすぐ声かけろよ」
「だからそれが安静にしてることなんだけど。あったかくして。ほ、ほらこの子も連れて」
「あ、それは私からもお願いします」
 先程からやたらと動き回っていた子猿を掬いあげ、雲雀がディーノの手に押しつけたので、風は感謝のまなざしをおくる。やはり動物なだけあって臭いには敏感なので、この部屋にいるのは少々辛いのかもしれない。とはいえいつもなら、生薬を調合中も煎じている最中だってきちんと大人しくしているいい子なのだが、やはり異国での滞在が長いこともあってストレスでも溜まっているのかもしれない。
「わかった。あんがとな、きょうや」
「や!! べつに礼をいわれるような」
 ええむしろこちらがいいたいと。
 だが、風が礼をいい雲雀が反論をまくしたてる前にドアは閉まった。とたんくしゃんと操り人形の糸が切れたみたいに、雲雀はしゃがみ込んで、風はたいそう慌てた。
「ちょ、あなたどうしました?」
「………きかれた…」
「え? いやどうでしょう。ぎりぎり聞いてなかったかもしれませんよ」
「………」
 好きだとかいうあれだろう。何を今更とも思うが、確かに恥ずかしいものなのかもしれない。だが向こうは何の反応もしていなかったわけで、聞こえていなかったのかもしれない。ぽんぽんと丸くなった背中を叩いてやる。まったくこういうとき何といってやるべきか、自分は口下手でいけない。
「………僕」
「はい」
「僕、あの人のこと好きみたい…」
「そうですねぇ」
 ぽそりと呟いた言葉に相槌を打ってやると、勢いよく頭を上げたわがままな子供は憤懣やる形無しという顔をしていた。
「ちょっと、なんなのその反応!」
「なに、といいますと?」
「もっとこう、わああ、とかええええとかそういう反応はないわけ? 僕があの人のこと好きかもっていっているんだよ」
「いやそうはいわれましてもね………」 
 演技派の俳優とかリアクション芸人ならばともかく、今の話に驚けというのは相当の無理がある。むしろ、今まで気づいていなかったらしいという事実の方に驚いているくらいで。
「ま、まあよかったじゃないですか。これからは仲良く健全なお付き合いを」
 「健全な」に力と願いを込めつつ、風は強いて明るい声を出した。いくら自分と同じ顔とはいえ、ここまでへこんでいる姿を見ると、やめておきなさいあんな男なぞと率直にはいってやれないものだ。
「…もう、無理だよ」
「やっぱり?!」
 なんといっても相手はマフィアのボスで、しかも人前であのいちゃつきようだ。そうだろうとは思ったけどそうだろうとは思ったけど!! あまり聞きたくなかったなぁと風が思わず顔を強張らせた。
「あ。いやそのですね、これは」
「………だってもう、嫌われちゃった」
「………………………………はい?」
 だがその告白は思いもよらない。いやなにをいいだしました。あなたさっきだってあの馬といちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃと。
 だがうなだれたその様子から、この子どもは本気なのだとしれる。そも短いつきあいではあるが、そう気軽に冗談を言うような性格ではないことぐらい承知しているのだ。
「えーと、その、なにか勘違いではないです、かね?」
「………」
「だって、ほらあなたたち、仲良さそうにしてたじゃないですか。跳ね馬だって怒っているようには見受けられなかったですけど」
「………それは、あの人が優しいから」
「はあ」
「でも駄目だ。致命傷だよ。家庭教師だとかいいはってるから、怒ったりしないだけで…前は好きっていってたけど、もう恋人なんて」
「なにがあったんです?」
 きっとなってくれないよと、顔をくしゃくしゃにしている子供の頭を撫でて先を促す。恋愛ごとのアドバイスなんて、正直できる気が全くしないのだけれども、そうはいっても人にはやらねばならないときがあるのだ。でもどうしよう。成人の体であったときだって、修行大事で生きてきたものだから、よく周りには朴念仁だとからかわれたものである。だがまだ女性相手だったならば、この子どもに何もいってやれないほど知らないわけではないが、同性相手なんて、さっぱりまったく。
「あの人と戦わなかったんだ」
「はぁ」
 だが雲雀が口にしたのは色気も何もない事柄で、風は気の抜けた声を漏らした。まあ自分の専門分野だ。
「それは、跳ね馬が体調が悪かったからですか?」
 そうはみえなかったが。
「違う。いやそれはあの人は具合悪いけど、でも、わざわざイタリアから僕と戦うためにやってきたんだよ? 本当は熱があったって、例えば骨が折れてるとか怪我してるとかしたって、そんなのどうでもいいから戦いたいに決まってる」
「そうですね」
「戦わなかったのは………………僕が、戦いたくなかったから」
「………」
 今度こそわああ、とかええええとかリアクションをとるべき場面だったと思うのだが、風は固まってなんの反応もできないでいた。どうやら人は本当に心底驚くと、何の声も発することができないものらしい。雲雀が戦いたくなかった? だって、いつだって口癖のように戦おうよ戦おうよいっている子どもだ。弟子が今よりもっと小さい頃、菓子屋の前を通りかかったときだって、もうちょっと遠慮勝ちに要求を口にしていた気がする。それが。
「口を開けてください」
「え?」
「舌だして、べーって。喉は痛くないですか? 頭は?」
「ちょっと、ちょっと、僕は別に病気じゃないんだけど。病気なのはあの人でしょ」
「え? ………ああ、すみません」
 取り乱した。風は大きく息を吐いて、何とか自分を落ちつけようとした。そうだ、どう見てもさっきからこの子どもは元気そうではないか。
「すこし胸が苦しい気はするけど」
「え?」
「でもさっき、薬をちょっと飲んだから大丈夫だよ。一口だけだけど」
「ああ、そうですか」
 葛根湯はそういう万能薬的なものではないのですけどねと思いつつ風は曖昧に頷いた。まあ今さらいっても飲んだものは仕方がないし、病は気からという。
「やっぱりいつもよりすごくまずい気がする………臭いし! もうちょっとで吐きそうになったよ!」
「そりゃ、きちんと煎じるとよく抽出されますからね………ねぇ、本当に大丈夫ですか」
「駄目だよ…」
 体調について聞いたつもりなのに、如何にもな空元気で薬について文句をいった子どもはくしゃりと顔を歪めて、話題が戻ってしまったことを悟る。ああ、何といって慰めるべきか。
「戦おうっていって戦わないなんて、最悪だよ。僕だったら一生許さないもの」
「それは…」
 確かに致命傷かも。
 思わず頷きそうになるのをなんとかこらえた。いや、流石に風はいままで、戦闘力重視で恋人を選んだことはないのだが、例えば好敵手と思われる相手が手袋を投げつけておいて、さていざ戦いましょうという段になって今日はそんな気分じゃないんだよねなどといいだしたならば、怒るどころじゃすまない。なんたる軟弱者かと思う存分打ち据えてしまうことだろうし、好感度などというものがもし敵に対してあったなら、それも相当なマイナス値を記録することだろう。
「あの人は優しいから、自分が病気だから戦わなくていいっていってくれたけど………きっと僕のこと幻滅してるに決まってる」
「そんなこと………」
 否定の理由が見当たらなくて、風は弱った。だがよくよく考えてみれば、戦いの予定をいきなり撤回するなんて、雲雀に充分な理由がない筈もない。そうでなければ百年の恋が冷めたとしても文句はいえないではないか。
「でもあの人を前にしたら、何でだか戦う気分になれなかったんだ。いきなり力が抜けて」
「具合が悪そうには見えないんですけどねえ。昨日はきちんと寝ましたか?」
「………………あんまり」
 それだろうと風は大きく頷いた。だってあの人と戦うと思うとどきどきしてだとかぶつぶついっている子どもの肩を叩いてやる。睡眠不足ならば体が思うように動かなくても仕方がない。あとで寝る前に飲むお茶を処方してやろう。
 しかしそれにしたって、先ほどの跳ね馬の態度は戦いをすっぽかされた男のそれではなかった。例え演技力があるにしても、まったく怒っているようには見えなかったのだ………なんという自制心だろうと納得しかけて、そこで風ははたと気づいた。まったく自分は粗忽というか想像力が足りない。自分の尺度で他人の考えをはかろうなんて愚かなことだ。例えば他人がどれほど怒っていても自分から見るとそうたいした問題には思えない、なんてことはよくある。のだからたぶん、その逆だってきっとあるのだろう。雲雀と戦えなかったということは、もしかしたらあのマフィアのボスからしたらそうおおごとではなかったのかもしれない。なんといっても、あの年でファミリーを束ねているのだ。ちっともまったくさっぱりそうは見えないが、かなり人間ができているのかも。そうでなければこの子どもとはつきあえないだろうし。
「ちゃんと自分の気持ちを伝えるんですよ」
「………でも」
「話を聞いてくれないような男じゃないでしょう? 気持ちを伝えて、それからちゃんと戦い直せばいい」
「うん。………そう、だね」
「ほら、元気を出しなさい。ちゃんと武器は持ってきたんでしょうね?」
「もちろんだよ。僕を誰だと思っているの」
「その意気です」
 得意げにテーブルの上の薄汚れたトンファーを指し示す様子に目を細める。これなら大丈夫だ。
「薬を飲めばあの人も元気になるだろうしね」
「え? ああ、はいそうでしたね」
 そういえばそんな話だった。
「あの人はすぐ手加減しようとするから。でも、あの人が元気になって本気で向かってきたら、僕だってきっと戦えると思うんだ。戦闘意欲を高めるんでしょ」
「あなた………それで薬を飲まそうと」
 本当の効能は理解していないにしろ、いくら戦闘狂とはいえやけに拘っているなと思っていたのだ。思わず驚きの声を漏らすと、とたん雲雀は真っ赤に頬を染めた。
「な、内緒だよ! 今の話は!!」
「ええ、もちろんいいませんとも」
 まったくけなげなことだ。風はほほえましい気分で笑みを押し殺した。こうなったならば同じ顔のよしみで、応援してやらねばならない。
「じゃあほら、さっさとさっきの薬を選んでしまいなさい。どれでもいいからひとつ………」
 カウンターテーブルの上にひらりと飛び降りて、そこで風はぎくりと固まった。先ほど自分が懐から取り出して並べた生薬の小山………その横にもう一つ、さらに小さな………といってもかなりの量と種類の生薬の山を形成したと、そういう記憶があるのだがそれがどこにもみあたらない。
「あなた………ここにあった薬はどうしました?」
「え? なにが」
「薬ですよ、説明してここに置いといたでしょう?!」
「ああそれ? 君なにいってるの、あれは僕が買ったんじゃないか」
「………………」
 最悪の予感が頭に染み込むまではずいぶん時間がかかった。そういえばこの部屋はずいぶんと臭い。長らく生薬を煎じる際に発せられる臭いには慣れきっている自分ですら畏れおののくような臭いである。そう、葛根、麻黄、桂枝、生姜、甘草、芍薬、大棗を成分とする葛根湯を煎じただけではおよそ発生しえない臭いだ。
「それ………どうしたんです?」
 作業台の上に移動し、恐る恐る鍋に近づく。聞く前から答えがわかっているとは、何と恐ろしいことだろう。そういえばテーブルの上に置かれていたトンファーがなんだか汚れていたなと思い返して、風はこっそり溜息をついた。どんな暴挙が自慢のコレクションに加えられたか想像に難くない。………っていうかなんで自分はそれに気づかなかったのだろう。
「あ、君それ熱いよ」
「え? ああすみません」
 長い袖を手に巻き付けて鍋の蓋をつかむ。かわいらしい見た目からは不似合いなほど重い蓋で、風は一瞬驚きながら持ち上げた。もちろんいくら重いといっても他と比較しての話で、だからどうということもないのだが、その上熱いとあってはちょっと扱いに気を使う。
「ああ………」
 そしてのぞきこんだ途端、思わず絶望の響きが口から漏れた。余りに恐るべき、淫蕩たるさまである。あの重い蓋が鍋内部に圧力を加えたのであろうことがまずかったのか雲雀が生薬をトンファーで………たぶん性格からしてかなり潔く木っ端微塵にしてから鍋に詰め込んだのがまずかったのかあるいはその両方か、ふつふつと………いやどちらかというとごぼりごぼりとでも形容したいような音を発している煎液は、「液」と呼ぶことをとっさに躊躇うほどの粘度を有していた。
「よくもまあ…、全部鍋に入りましたねぇ」
「まあね」
 ふふん、と鼻を鳴らす子供は「がんばったよ」とでも言いたげな得意顔である。ああこれ全部でいくらすると………。もちろん一種類一回服用分と考えれば五万もするわけがない。だがこれだけの量と種類となればそんな額でとてもとてもきく筈もないのである。だがいい年した大人が今更、どの面さげて差額を請求できようか。たとえこの子どもが自分のことを年長者だと理解していないにせよ、自分にもプライドというものがあるのである。ああでもこんな大量に煎じていったいどうするつもりですかね…
「………ってその鉢どこからもってきたんですか…?」
 思わず叫ぶ。見れば雲雀がおおぶりのどんぶり鉢のようなものをキッチンテーブルに置いたところであった。
「知らないの、これはカフェオレボールっていうんだよ」
 仕入れたばかりの知識を開陳しているのだと丸わかりの口調で、得意げに雲雀がいう。まさか教えてやった人間も、その器にこんな悪臭の固まりが注がれることにになるなんて、想像もしていなかったことだろう。
「え? 本当に? 白い皿ばかり並んでるから勘違いしたんじゃありません? そんな多量にカフェイン取ったら絶対身体に悪いですよ」
「あれ………ってうるさいな! いいだろなんでも。コーヒーをいれるわけじゃないんだから」
 コーヒーをいれた方がましだった気がすごくする。だがぷくりと頬を膨らました子どもは鍋を傾けると、しゃもじで鍋底をこそげとるようにして最後の最後まで中身を器の中に移動させた。明らかに注ぎ方が煎液に対するものではない。煮詰まった昨日のカレーをどんぶりに移す時の扱いである。
「入った!」
 しゃもじにへばりついた分まで指でしごくと、雲雀は満足気な声をあげ、なみなみと………器の高さより更に上まで表面が膨らんでいるそれを風は暗澹たる気分で眺めた。えーと、その。
「あのですね、何も薬といったってそんな多量に飲む必要はなくて」
「なにいってるの、僕一回分しか煎じてないよ」
「ええあなたのもってきた薬はそうですね………でも」
「………ねぇ」
「はい?」
 まるで何でもないことのように口を開いた子どもの、お盆に器を乗せる手は震えていて、風はつい説得の言葉を呑みこんだ。
「僕、いうよ」
「………」
「ちゃんという。あの人がこれ飲んだら、そしたら、好きだって。戦って、僕に名誉挽回させてって頼んでみる。もう一度僕のこと好きになって、って」
「あの………それは」
「ねぇ、これ飲んだらきっと、あの人元気になるよね」
「………………………………はい」
 ここで効き目は定かではありませんとか、元気になるでしょうね特にある一部分がとか、そんなことを空気を読まずにいえる人間がいたら相当な剛の者である。だが諦めたら駄目だ。諦めたらそこで終わりだ。
「だよね、良薬口に苦しっていうし。これだけ不味いんだもの効かない筈ないよね。そしたら僕も戦える。戦えない筈ないよ。だってもう、すごく身体が熱くてどきどきして………あの人の顔が見たくてたまらない。だってずっと………ずっと戦いたかったんだもの」
「その意気ですよ」
 上の空で相槌を打つ。そうだ、方法はある。なんといってもこの見るからに不味そうな煎液だ。しかも臭いし熱いし粘度がある。どうしたってちびりちびりと飲み込むことになるだろうし、そしてマフィアのボスであるなら薬物訓練くらい受けていることだろう………というか受けないままあのリボーンが放っておくなんてありえないし、というわけで彼ならほんの少量飲み込んだだけだったらたぶんそう大きな害はあるまい。だからこうさりげなく、自然に、隙を見てああ躓いてしまいましたと器をひっくり返してしまおう。勿論雲雀は文句をいうだろうが、このくらいの量でも十分効き目はありますよといいはって………そしたらあの男だって馬鹿ではなかろうしなんといってもあの禍々しい薬である。わあすっかり元気になったよもう大丈夫だよくらいのことはいって、こちらの話に合わせてくれるに違いない。
「情けないよね…どきどきして、手が震えてる。頭がぼおっとして。僕こんな人間だったのかな」
「そんなものですよ。ほらしっかりして。ちゃんというんでしょう?」
 頬を赤らめて震えている少年の背中を撫でてやって、風は励ますように頷いてみせた。まったく微笑ましいとはこのことだ。こんな初々しさ、自分なぞはもう忘れて久しい。
 だがそれにしたってちょっと体温が高くはないだろうか…? 触れた右手に視線をやって風は首を傾げた。些細な違和感。そうまるでなにか、肝心な話を聞き逃してしまった、ような。
 いや、いまはそれどころでない。さりげなく、そうさりげなくつまづいた振りをするのだ。肝心なのはタイミングである。風は今一度自分に言い聞かせると大きく息を吐いた。



「………こわ、かった…!!」
 ドアを閉めるなり思わず零して、ディーノはその場にしゃがみこんだ。いつもは天使か妖精かと見紛う程愛らしい想い人であるが、ドアを開け見てしまった姿は限りなく子どもの頃本で見た魔女に似ていた………といえばこの恐怖はおわかりいただけるだろうか。
「い、や! 別に怒ってるってきまったわけじゃねーし」
 思わず独り言を口にする。とはいえ自信があるわけではない。いや違う。雲雀は自分のことを案じて、薬を煎じてくれているのだ。毒薬を煮詰めているわけではない。何を恐れることがあるだろう。大きく息を吐き、自分に言い聞かせる。
「そう、大丈夫。怒ってねぇよ…たぶん」
 我ながら情けない様で、だが、彼を好きになってからこちらずっとこんな感じだ。まるで四六時中フリーフォールに乗っているみたい。まあ自業自得なわけだが。
 前回の来日の際のことだ。ディーノは雲雀に好きと告げた。かわいい弟子は弟子としてだけじゃなくかわいくて、その上無防備で気儘で、どうにもこうにも、腹のうちにおさめてなどおけなくなってしまったのだ。つまり告白してどうこう、というより、だからそんな男の誘いに乗ってほいほいホテルにまでついてくるんじゃありません、というのが趣旨だった気がする。いやついてきていいんだけど嬉しいんだけど警戒されたら困るんだけど、いつものようにまるで自分の家みたいにくつろぎきってるかわいい子をみたら、なんでだかもういきなり黙っていられなくなってしまったのだ。やっちまった、が告白後のまずの感想である。
 好きとか嫌いとかよくわからない、というのが彼の答えであった。まあそうだろう、と内心頷いたものだ。なんといっても雲雀恭弥である。むしろこの子どもが、否定もせず嫌がりもせず、ということにディーノは脈を感じた。有頂天になったといってもいい。この展開で、ああ振られてしまったなしかたがないなと納得する人間がいたらそれはもう馬鹿である。だからディーノは口説いて口説いて口説いて………気づいたら身体を繋げていた。いや、気づいたら、は正しくない。途中からは明確な意図をもって彼に要望を伝えたのだし、別に繋げるまでの手順その他をすっ飛ばしたわけでもない。むしろ、丁寧に丁寧に、自制心を持ってない分まで総動員して彼の身体を開いた。とはいえ、愛しい愛しい、欲しかった人がさあおあがんなさいと目の前にいて、理性的な判断ができたかと問われると微妙である。いつもうやだと側頭部に蹴りをいれられるかと思うと、気持ちも焦る。本音といえば本音だけれど、改めて聞かされたら恥ずかしさのあまり死にたくなるような本音を、口説き文句のささやかなレパートリーも尽きた時点から延々と囁いていた記憶があるなんであいつオレのこと咬み殺さなかったのマジで。
 その上そのあとすぐ、抜けられない仕事があって帰国する羽目になったのだ。最悪である。大失点である。だが雲雀から来日を強請る電話があって、すぐにディーノはいい気になった。許してもらえたと思った。なんでだよ、と今の自分なら突っ込みたいところである。それで雲雀に会って、戦おうよっていわれて拗ねて………
「うああ………なんでだよオレの馬鹿…」
「ちょ、ちょっとどうしたよボス…!!」
 はたと気づいて大きく首を振る。だめだ。自分はキャバッローネのボスなのだ。情けない様を部下にみせてはいけない。
 なにをいまさらと部下がきいたらいいそうなことを自分にいい聞かせて、ディーノはなんとか完璧な笑みを浮かべてみせた。
「なんでもねぇぜ?」
「なんでもねぇって顔してねぇだろボス…」
 訂正、完璧ではなかったらしい。
 だがいくらなんでも、ほんの少し前の自分の振舞いを思い返したあとではとても平静ではいられない。拗ねて誘いを断って、だが天使はディーノの体調を心配してくれて薬を煎じてくれるといったのだ。惚れなおすとはこういうことだと思う。
 そんなわけでわくわくと、ほんのさっき前までディーノは薬が出来上がるのを待っていたのだ。さっき、余りに長い待ち時間と漏れでてくる臭気に痺れを切らしてドアを開けるまでは。うん、ドアを開けたらとんでもなく、それでまでの比じゃなく臭かった。
「ん? ああ、だいじょうぶだ、あんがとな」
 アルコパレーノから預かった、小さな猿が駆け寄ってきて顔をのぞきこんでくるので苦笑する。さっきまでとんでもなく怯えた様子で、鼻を押さえたまま部屋の隅に潜り込んでいたのだ。動物は嗅覚が鋭敏だから、そりゃ怖かったろうと思う。というか今現在進行形でオレは怯えてるんだけど。おまえは嗅ぐだけだけど、オレは飲まなくちゃならないんだぞ。
「ははっ。そいつに心配されてちゃ世話ねぇな、ボス」
「ほらよ、チョコでも食ったらどうだ。飴もあるぞ」
「…あんがとな」
 すでにうずたかく積まれた菓子の山に、また一個追加されディーノは礼を言った。部下の優しさにどれほど心救われるかしれない。
 だが自分がしたことはそんな簡単に許されてはいけないことだ、と思う。いくら雲雀がいいといったのだとしても。そしてもし許してくれたとしても。
 なぜなら自分は彼に焦がれる一人の男である以前に、彼の家庭教師なのだから。彼に好かれていないとは思わない。そうでなくて体を、いやそれ以前の親密なつきあいや距離だって許してくれる人ではない。でもだからこそ、待ってやるべきだった。彼が自覚するまで。彼が好きといってくれるまで。
 だからこれからはもう、あんなことはしない。ちゃんと師匠として、頼りがいのある年長者として振る舞うのだ。今日だって、どこからどうみても、仲のいい師匠と弟子以外の何者でもない態度だったはずだ………この部屋と隣室にいる当人たち以外の全員がものすごい勢いで首を振りそうなことを考えて、ディーノは重々しく頷いた。もちろん今さら、好きだという言葉を撤回はしないし、できるはずもない。自分は真摯な求愛者だ。だが、キスとかセックスとかそういうことは、彼に好きといってもらえるまではしない。手遅れかもしれないけれど、風紀に厳しい想い人にふさわしい態度をとらなくては。
「なあ、ボス。ひとこと謝っちまったらどうだ? 飲めねぇって」
「なにいってんだよ、ロマーリオ!」
 やたら深刻そうな表情を浮かべてみせる部下に、なんとか笑みを浮かべてみせる。そうだ、なんてことない、こんなの。
「飲めるって。飲んでみせるさ! せっかく恭弥が作ってくれたんだしな!!」
「そうか………そこまでいうならもうとめねぇよ」
 え、とめてくれてもいいんだけどとまったく思わなかったといったら嘘になるけれども、ディーノは雄々しく頷いて見せた。たぶん今、自分は試されているのだ。彼の愛にふさわしい人間であるかどうか。彼の優しさ、思いやり、気配り………そういったものを受けるに足る人間であるかどうか。彼が自分のために煎じてくれたものを飲めないなんて、そんなことがあってなるものか。
「頑張れよボス。じゃあまぁあれだな…さっきもいったが一気、だな」
「一気………一気かよー」
 見てないからとはいえ簡単にいってくれる。あの臭いが満ち満ちている空気だって、飲み下すのは結構な苦痛であったというのに。
「苦痛は長引かせねぇに限るだろ、口直しはこんだけあるしな」
「おお………うん。サンキュな」
 量があればいいってもんじゃないだろ、と思いつつもディーノは頷いた。これらはすべて部下の思いやりである。ありがたい話だ。
「おし、やるぜ。飲んでやる」
「その意気だ! がんばれよボス!!」
「おう、まかせとけ!!」
 こんなことで、怯えてマフィアのボスがやれるものか。彼への愛を示すためにも、自分はあれを飲み干してみせねばならない。肝心なのは心意気である。ディーノは今一度自分に言い聞かせると拳を握った。 

















inserted by FC2 system