並盛における最上級のホテル、その最上階に位置するスイートルーム。その一室に集まった男たちは皆、一人を除いて怖れと怯えを顔に漂わせていた。
 いかつい顔と厳しい目つき、鍛えられた肉体。一見でそれと………マフィアの世界の人間であるとわかる男たちである。だが彼らがこの部屋に集まったのは、何も怪しげな会談だとか恐ろしげな計画のためではなかった。単なる日常業務である。今楕円形のテーブルの上座に座っている、彼らのファミリーのボスはこの一年程、仕事としても私用としても、頻繁に渡日する日々を続けていた。なんといってもファミリーのボスであるので、当然、滞在中は最上級のスイートルームに宿泊することになる。そうでなければセキュリティ的にも、体面的にも問題があるのだ。だが泊るのが、基本的に一日の大半を仕事に忙殺されるのが定めのマフィアのボス。そして不定期に寝泊まりするのが慣例になっている男子中学生となると、そう何部屋も必要とするものではない。長丁場になることがわかっている時は他に部屋を借りることもあるが、大体は書斎と、そして使っていない時間帯のダイニングルームを利用して、会議だの諸々の仕事だのを執り行っている。なんといっても彼らのボスは経済感覚に長けた、様々な無駄を省くことで短期間にファミリーの規模を倍以上に拡大させてみせた男なのである。
 そんなわけで今日も、この広いダイニングルームを使って打ち合わせを行っていたのだが、そんな中漂ってくる匂いがあった。いや、匂いという表現では十分ではない。明らかに異臭である。ホテルの部屋はそも気密性が高く、例えばこの部屋で夜っぴて書類を作成中、すぐそこのベッドルームで何が行われていようとも………あれだけ毎晩のように弟子を連れ込んでいるのだ何も行われてない筈もないのだが、いつも音はまったく聞こえず静かなものである。むしろへたをやってボスの邪魔をしちゃならねぇぞと、仕事が終わっても退出するタイミングを計りかねて困惑する程であるというのに、どうして今はここまで異臭が感じられるのだろう? もしホテルマンがこの階までくれば、どうしましたお客様と血相を変えて飛び込んでくるであろうことは想像に難くないが、なんといってもマフィアであるのでセキュリティの確保は重要な問題である。客室清掃に立ち会ったりルームサービスを部屋に入る前に受け取ったりなど、色々な無茶をやらかしているせいもあって、下の階まで異臭が感じられて客が騒ぎ出すなどということにならない限り、この階まで勝手にあがってくる心配はない………今ならあがってきても構わないのだが。
「なぁボス。あんた別に元気じゃねぇか。そんなもん、飲む必要ねぇだろ?」
 恐る恐るといった様子でいいだしたのはボスの腹心であるロマーリオだ。よくぞいった、とそこにいる人間は皆内心で拍手喝采した。地位に関わらず気の置けないつきあいをしているといわれるキャバッローネだが、そうはいってもボスに対してそれなりの遠慮はある。というか多分どこのファミリーだって、怯える部下たちをよそにただ一人………つまりボスが幸せ幸せ幸せですという空気を振りまいていたならば、腹蔵なくこちらの意見を申し上げるにはどうにも躊躇するに違いない。
「なにいってんだよ! オレはきっとたぶん病気なんだって!! なんかちょっとだるい気がするし、すっげー眠いし! それに喉もちょっといがらっぽい気がする」
「だからそりゃ、あんたが寝ないで無理やり仕事を片付けて疲れているところに、そのまま日本に来たからだろ? 単なる時差ボケだ。喉だって、飛行機の中は乾燥するから舐めとけってリクイリッツィアの飴もスティックも渡しといたじゃねぇか」
「だってあれまじぃんだもん………」
 我がファミリー一の美食家はそういって眉を顰めた。子どもかよ、と突っ込むべきか判断に迷うところである。実際リクイリッツィア………つまり甘草の飴もスティックもあまり、というかかなりおいしいものではない。どちらかといえば勇気ある行いをした筈のロマーリオの方を、ばあちゃんかよ、突っ込みたいところだ。確かに効き目は確かだがいまどき。
「あー………ボス、じゃあ別の飴なら舐めるか? 確か………」
 持ってた筈、とボノはポケットを探る。日本の駄菓子はなかなかに優秀で、味もいいだけでなく種類も豊富である。物珍しいものが多いこともあって、土産に持ち帰ると子どもはいつも大喜びするのだ。そんなわけで来日の度、あれこれと買い集めるのが個人的に恒例になっている。今日だって空港で缶入りの飴を購入したのだが、どこにしまっておいたものだか。
「いいって、だいじょうぶ。もうすぐ恭弥が薬をもってきてくれるからな!」
 いやだってたぶんそれ、甘草なんぞの比じゃないぜ、とその場にいる全員が思った。口直しの意味でも、水と一緒に飴か何か、そんなものが必要になる筈である。
 つまりはこういうことだ。焦れきった声で「早くこっちに来なよ」と強請られたマフィアのボスが有頂天になって無理やり仕事を終わらせて来日したものの、体調が万全ではなかったのと、目的地である並盛中学に辿りついた頃には夕方にさしかかっていたのと、何を勘違いしていたのか雲雀恭弥に「さあ待ってたよ戦おうよ」という反応以外のものを期待していたため拗ねたこともあって、かくかくしかじかなんか具合が悪いっぽいから戦うのはまた明日なとそう提案したのである。
 その話を聞いたロマーリオは、雲雀恭弥が激怒し我がボスに制裁を加えるべくトンファーを振り回したのであろうと恐れおののいたのだが、実際はそんなことにはならなかった。どうやらその言い訳に情状酌量の余地を見いだしたらしい風紀委員長は、それなら自分がよく飲む薬があるから、飲んでみたらどうだとそう提案したわけだ。もちろんボスは大喜びで頷き、そしてこの事態である。異臭。つまり、ダイニングルームを出てすぐのところにある、一応スペースは用意しましたけどルームサービスもありますしホテル内には料亭もレストランもあるんですよとでも言いたげな、豪勢な空間には似つかわしくないささやかなキッチンで、雲雀恭弥が「漢方薬」なるものを煮だしている。普通なら少しずつ鼻は麻痺していくものだと思うのだが、先ほどから一刻一刻と匂いが強烈になっていっているようなのは気のせいだろうか。
「ほんっと恭弥は優しいよなー。きっとオレのことすっげー心配してくれてんだ。なんかもう、薬を飲む前から元気になった気がする」
「そうか………」
 そも大して具合が悪くなかっただけじゃねぇのかと思いつつ部下たちは遠い目をした。だいたい優しいって何だ。自分より実力のある人間と手合わせをしようというとき、その相手にも万全の体調と意欲を求めるという、正々堂々としたスポーツマンシップというかなんというか、少年漫画の正しい主人公みたいな戦闘意欲には、まぁある種の尊敬というか憧憬というか、すばらしいことだなぁという感嘆の思いをもつのは確かである。マフィアにもマフィアなりの矜持といったものはあるが、そうはいってもそこまでの潔癖さは持ち合わせていない。結局生き残った者が勝者なのだ。だがそれはそれとして、彼のどこを探しても優しさなぞ見つかりそうにない。
「まぁあの坊主はすげー敵にあってもオラわくわくすっぞ、とかいいだしそうだもんなぁ」
 こそ、とイワンが囁いてきて、ボノは思わず吹き出しそうになった。同じ年頃の子どもがいることもあって、息子につきあって視聴したアニメの話で何度か盛り上がったことがあるのだ。イタリアでも何度か放送されたそれには、確かに大の大人も夢中にさせる力がある。
「オラに元気を分けてくれとはいわねーだろうけどなぁ」
「いわねぇな、そんな羽目になったらじんましんになっちまう」
 笑わすな。ボノは震えそうになる肩を必死で押し殺した。車座になってテーブルについているので、下手な動きをすればすぐに目立ってしまう。我がボスは他愛ないユーモアも解さないような人ではないが、なんといっても弟子をたいそうかわいがっているのだ。気を悪くしないとも限らない。
「わかりづらいし、不器用だけど、すげー優しいんだよなー。もしかしたら、ナイチンゲールとかマザー・テレサのうまれかわりかもしれねぇ」
 あ、どう見ても気づいてない。
「ボース、そろそろ正気に戻ろうぜ」
 仕事の途中だ、と示すようにロマーリオが書類をぽんと示してみせた。こくりとボスは重々しく頷く。そういえば会議をはじめて半時ほど、殆ど話は進んでいない。
「わかってるって、うまれかわりとかないよな。こうみえてもガキの頃、聖書の知識で賞をとったこともあるんだぜ」
「いやそれは知ってるがそうじゃなくて」
「それに、もしそんなんがあるとしたら、あれだな、アラウディ………ボンゴレの初代雲の守護者だろうな。誰よりも味方に優しかったって………恭弥もそういうとこあるもんな」
 当時某国の諜報部のトップであり、その為残された情報も少ないとされる初代雲の守護者ではあるが、いくら痕跡を隠そうとしても狭いマフィアの世界、それもあのボンゴレの守護者ともなれば、できることには限度がある。実際、キャバッローネ設立当時の資料をちょっと紐解いてみれば、協力してどこそこのファミリーを壊滅させたとか、協力してどこそこの犯罪組織を撃退しただとか、協力してどこぞの窃盗集団を捕まえただとか、そんな記述がごまんとみつかるのである。問題は、マフィアのそれに限らず歴史というものは、年表だとか資料などといった物の枠に押し込められたが最後単なる事実の羅列になって、その当時の人々の感情だとか細かい心の機微のようなものがさっぱり感じられなくなることだ。つまり、資料を見た限りではテンションがあがった超サイヤ人みたいな戦闘狂以外の何者でもない男が、何故に現代まで誰よりも頼りになるだとか優しいだとか慈愛に満ち溢れているだとかいいつたえられることになったのか、さっぱり窺い知ることが出来ない。きっと、当時の人は皆知っている、戦歴とはまた違ったエピソードだとかがあったのだろうに。まさか、先程からずっと、オレの弟子はとんでもなくかわいくてやさしくて思いやりがあってと繰り返している我がファミリーの亀仙人………じゃないボスみたいな人間が当時もいて、戦闘種族だけどすっげー優しいんだぜとふれまわった挙句、伝説にまでなって伝えられるようになった………などということはあるわけないし。考えてボノはちょっと笑った。我ながら下手な冗談だ。
「なんかめちゃくちゃ臭うけどよ。きっとその方が効くとかあるんだろうな。………でも恭弥の気持ちだし! ちゃんと飲むけどな!!」
 とりあえず亀だかスッポンだかの仙人は弟子にめろめろである。正直ギャルでも追いかけてくれていた方がこちらとしては楽なのだが、そうはいっても一番重要なのはボスの幸福である。本人たちが納得している以上こちらとしたら祝福するのみである。というか、一応は正気を保っていて、この異様な臭気にも気づいていたのだとボノはほっとした。さっきまでの笑顔のまま、全然気づかなかったさすが恭弥が作ってくれた薬は上手いぜとかいいだしたら、ちょっと本気で対応に困るところだった。
「ボノ。飴をもってるんだよな」
「お、おう。ちょっと待っててくれ、今だす」
 いきなりロマーリオにふられて、あわててジャケットの内ポケットを探った。かわいらしい缶に入った飴はすぐみつかった。
「ボス、これを。やばかったらこっそり口に放り込め。どう考えてもまずそうだが、あんまり露骨に顔に表すと角が立つかもしれねぇ」
「そ、そうだよな。せっかく作ってくれてんだし」
 真面目な顔でボスは飴をロマーリオから受け取った。傍から見れば何を過保護なと思わなくもないが、なんといっても我が上司は、いくらファミリーが傾いていた時期があったとはいえ、基本的に食事に事欠いたこともなく、とんでもなく舌も肥えている。こんな運ばれてくる前から不味いのがわかりきっているものなど味わったこともないに違いない。というかここまで凄いのは自分もない。
「あ、俺も飴持ってるぜ」
「俺はチョコだ。ガムもあるぞ」
 今回渡日のメンバーの中で唯一医学の心得のあるロマーリオがGOをだしたことで、我も我もと他のファミリーも駄菓子を提供すべく声をあげた。どうやら、皆この国の菓子類にはまっているらしい。
「お、おお。サンキュな」
 ボスは嬉しそうにそれらをすべて受け取って、何とも心温まる光景である。ロマーリオが漢方薬のような、自分では判断できない薬を飲むことを認めたのは意外だったが、ボスは大して具合も悪くなさそうなうえ、雲雀が常飲しているというものだというのだから、効き目はどうか知らないが特に害はなかろうと判断したのだろう。それにそうだ。雲雀は猿仙人………じゃないアルコパレーノを帯同して薬物を煮出している。ボスの元家庭教師であるヒットマンではなく、どことなく雲雀に似た顔立ちをした赤ん坊である。どうやら雲雀が連れてきたらしい。だが如何にも漢方薬だとかいった物に詳しそうな様子だし、何か抽出方法にでも手違いがあればきっと止めてくれるにちがいない。
「とりあえずあれだ、息を止めて飲むといいと思うぞ、ボス」
「息を止めて?」
「たぶん効果を期待するには必要量ってもんがあるだろ。ちびちび飲んでたら、長引いて仕方がねぇ。がっとこう一気に飲んで、そんでさりげなくだな、ばれないように飴でも」
「わかった! サンキュな!!」
 満面の笑顔をみせるボスの幸運を祈って、部下一同は重々しく頷いた。たとえどんなにまずかろうと、正直に感想を言えといわれようと、作ってくれたものをまずいといえば角がたつ。既婚者なら誰だって知っている無情な事実であるのだ。













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