それから一日、時間がたつのがとんでもなく速いようにも、また遅いようにも感じられた。何日ディーノが滞在できるのかまでは聞かなかったけれど、委員の仕事も、できるだけ先回りして片付けておきたい。やることはいっぱいあって時間が足りないくらいだ。だが、どうにも待ち遠しく、早くこないかなとも思うのだ。
 ディーノがくる。ディーノが並盛にくるのだ。嬉しくて、誰彼かまわず教えて回りたい気分だった。もちろん、そうは思ってもそんなことはしない。ディーノは人当たりのいい性格で、臨時教師をしている間多くの生徒に慕われていたから、もし知られたらいかにも群れたことになるに決まっている。でも、副委員長なら問題ないし、たしか彼の部下と親しいのだとかなんだとか、聞いた覚えがある。そんなわけで彼には教えてやって、でも忘れるといけないと何度も念を押したのがまずかったのかもしれない。最終的には「ディーノが」といいかけたところで「もう存じ上げておりますので」と返された。ちょっとムカつく。
 約束の日の放課後。騒がしくも聞きなれた足音がドアの向こうで近づいてきているのに気がついたのは、ちょうど雲雀が本日二十回目のトンファーの機動確認を行っているときのことだった。あわてて袖の中にしまう。お互い様だとはいえ、こんなにわくわく待っているのがばれたら、ちょっと照れくさい。
「きょうやー!! きょうやきょうやきょうや! 元気だったか!!」
 勢いよくドアを開けて走り込んできた人は、とんでもなくきらきらしていて、雲雀はちょっとびっくりした。前々から騒がしい見た目をした人だとは思っていたけれど、ここまで美しい人だったろうか。なんかまぶしい。
「ディーノ」
 小さく喉を鳴らして、雲雀はディーノの名を呼んだ。目の前にいる人の名前を呼ぶ、ただそれだけのことなのに、変に緊張する。声が少し裏返った気がした。
「あ、ねぇ…ディー……」
 だがきちんと呼びなおす前に、ディーノは間合いを詰めてきて、次の瞬間雲雀は彼の腕の中にいた。
 あたたかい。雲雀はディーノの肩口に頬を擦り寄せた。シャツはわずかに湿っているようで、もしかしたら階段を駆け上ってきたのかも。
「ボース、あ、ぶねーから一人で、さっさと先に行くなって………っと、わるい」
 見慣れた彼の部下が、息を切らせながらドアをばたんと開けてばたんと閉めた。あたりだ。
「あ、すまん、オレ、いきなりこんな…」
「別にいい」
 腕を解こうとしたので、雲雀はしがみついた。それはもちろん、いつもだったら廊下を走るなんて、風紀委員長として咬み殺すべき事由だ。だけれども今は、ほんの数十秒の時間を彼が短縮したいと急いたことが、嬉しくて仕方がない。あまやかな汗と香水の混じりあった匂いを嗅ぐと、血管を通って、ディーノがここにいるという事実が身体の全てに伝達していくような気がした。しっかりと固い、逞しい身体に触れると、ようようこれが現実のことであると得心した。わっと音をたてて、喜びとともにその現実だってことが雲雀に押し寄せてきた。満たされる。
「ああなんで恭弥そんなかわいい………なあきょうや」
「ん」
「すっげー会いたかった」
 まるで内緒ごとをうちあけるみたいに囁かれて、背筋がぞくぞくとした。だからお返しに、雲雀もディーノの耳元に唇を近づけた。
「僕もだよ、僕も会いたかった」
 戦いたかったから、と続けようとしたところで、そこではたと雲雀は気づいた。自分は今本当に、彼と戦いたいだろうか?
 おかしなことに、ほんの数分前まで雲雀の中を埋め尽くしていたはずのディーノとひたすら戦いたいという欲求、あのこれまで感じたこともないほどに燃え上がり雲雀を苦しめ続けた焦燥、情熱、落ち着かなさ………そういったものが、今はさっぱりとどこにも見あたらなかった。いったいどうしてしまったのだろう。雲雀は思わず体を震わせた。
「僕、僕は…」
 宥めるように背中を撫で擦られ、そうするともう、体中の骨がぐんにゃりととろけてしまって、立っていることすら億劫だった。だがそう思った次の瞬間には雲雀はソファに腰掛けていて、ディーノがさりげなく、まるでワルツでも踊るみたいに、抱きしめながらここまで誘導してくれたのだとわかる。雲雀は愕然とした。もしかしたら彼は、自分のこんな情けない有様に気づいているのかもしれない。
「ん? そんなに会いたかった?」
「うん」
 確かに会いたかったから、雲雀は当惑しながらも何度も頷いて見せた。とても辛かったのだ。戦いたくて戦いたくてディーノのことばかり考えていた。
「うわ………すげ嬉しい。オレは世界一の幸せ者だよ。夢じゃなかったんだな、あの電話」
 その気持ちはよくわかった。雲雀も、あの電話のあとはとんでもなく嬉しくて、でもまたあの、嫌な夢を見てしまっただけではないかと、何度も携帯の履歴を確認したものだ。そんなにも楽しみにしていたというのに、今の自分はどうしたことか。ディーノが自分と戦うために、日本まで来てくれたっていうのに。
「………ディーノ」
 どうしよう。雲雀はぎゅうぎゅうとディーノにしがみついた。いくらこの人が暇人を気取って見せようと、マフィアのボスなんて職業が多忙なことぐらい雲雀にだってわかる。休みだから会いに来たよなんていって並盛に滞在しているときだって、大勢部下を引き連れて、隙があれば仕事の話をしている。それをわざわざ来てくれたのに、戦えないなんていったら、幻滅されてしまうかもしれない。もう戦ってくれなくなるかも。
 戦いたくないと思ったばかりなのに、もう戦えないかもと想像した途端、おかしなことにどうしようもない恐怖を感じた。そんなことになったら、これからどうすればいいのだろう。
「ん? どした?」
「………………た」
「た?」
 意地汚く掻き抱いたままでいようとする腕を叱咤する。立ち上がろうとする瞬間はまるで地面が砂地にでも変わってしまったような心許なさを覚えた。情けない。
「た………戦おうよ」
「きょ………きょう、や? いやおまえ、ちょっと待てよ」
「戦おうよ」
 制止の言葉が聞こえないふりをして、トンファーを構える。昨日一生懸命磨いたそれは、まるで鏡面のように輝いていて、そこにちらりと映った自分は、今にも泣きそうな顔をしていた。大きく首を振って唇の端をつりあげる。大丈夫。自分はどんなときだって戦うことができる。それこそ足が折れたって腕が折れたって。だったらこんなことで、弱音を吐くなんてらしくない。
「恭弥………おまえ、本気で?」
「なにいってるの。だって………だって」
 あなたに嫌われたくない。
 でももう手遅れなのかもしれなかった。ディーノは唖然とした表情を浮かべていて、まるで戦意を示していない。
「ディーノ………だって、僕」
 いいわけは何も思いつかなかった。自分でも訳が分からないのだ。こんな気持ちになるのはうまれてはじめてのことだ。やけになってトンファーを投げ捨てようとしたところで、その二本の武器ごと、再び雲雀はディーノの腕の中にいた。
「恭弥…」
「ちょ、え、なんで?」
 かあっと思いきり頭に血がのぼったのがわかる。なんでいきなり。
「怒ってねぇ、怒ってねぇよ」
「嘘、だって…」
 ちょっと自分に置き換えてみればわかる。戦おうよと誘われてさあいざというところでやる気がなくなったなんていわれたら、ぐちゃぐちゃに咬み殺すどころじゃすまない。一生口きかない。
「いやまあちょっとぬか喜びしちゃってたっていうか………正直びっくりしたとこあるけど」
 やっぱり。それで怒ってないなんて、お人好しがすぎる。雲雀には絶対真似できない。
「でも怒ってるわけじゃねぇ。そういうのふくめて恭弥なんだし、オレは恭弥にほれてんだから」
「………」
「でも、そうだな。今日はやめとこうぜ。オレ、ちょっと体調悪くてさ」
「え?」
 じゃあ、体調不良をおして日本に来てくれたのだ。自分のあまりの不甲斐なさに涙が出そうだった。本当だったらその心意気に応じて、たくさん戦ってあげなきゃいけないところなのに。それとも優しいこの人のことだから、気を使って病気のふりでも?
「い、いやそうたいしたことないんだぜ、そんな顔すんなって! なんとなく風邪かなーみたいな」
「風邪?」
 そうだ、それはいくらなんでも、自意識過剰だろう。じゃあほんとに風邪? 雲雀は頬をディーノの胸元に擦りつけて、そして瞳を瞬かせた。そういえば少し体温が高い………だろうか?
「ディーノ、ちょっと」
「え、いてうわ、わわわ。きょうや! なにすんだ!!」
 なにすんだもなにもない。雲雀はディーノの髪を引っ張って、額に額をあわせた。別に熱くもない、と思ったのは一瞬だけで、あわせた額はいきなり発火でもしたみたいにぐんぐん熱を持ったので、あわてて顔を覗き込む。目の前の男は、死にかけの金魚みたいに顔を赤くして口をぱくぱくさせていて、もしかしたらものすごい速度で病状が悪化したのかも。
「大丈夫なのあなた………すごい熱だよ」
「え、や、これ、は!! てかおまえ、もーいきなりそういう」
「頭も?」
「え? いやそこは悪くなってねぇぞ?」
「痛くない? こんなに熱があるんだもの」
 自慢にもならないが、冬にもなれば風邪をひくことも多く、ここまで赤い顔をして平気でないことくらいわかる。きっと体調が悪いのに飛行機なんて乗ってきたからだ。ああいうところは空気も乾燥しているし、いくらご大層な席を取っていたって、体が休まらないに違いない。
「あー………ちょっと、痛ぇかな?」
「ばか」
 雲雀が手合わせの時いくら平気だといっても、痩せ我慢するなと口うるさくいうばかりなのに、自分はどうなのだといいたい。こんなに熱があってちょっと痛いなんてレベルである筈がないではないか。だが相手は病人である。雲雀は怒りを静めて、もう一度額を押し当てた。やっぱり熱い。というか先ほどよりまた熱くなって気すらする。
「きょうや………ああ、なんだよおまえ、かわいいな。心配してくれんの?」
「あたりまえだろ」
「え? や、あ、そうか………そ、そうか」
 意識もおかしいのだろうか。思いついた可能性に雲雀は飛び上がりそうになったが何とかこらえた。大丈夫。熱が多少高かろうが風邪は風邪だ。病人を不安にさせてはいけない。
「薬持ってくるから。あなたはホテルに戻っておとなしくしてて。あなたの部下にすぐ校舎前に車をつけさせるから」
「く、薬?」
「そう、漢方薬。僕が風邪ひいたときよく飲んでるやつなんだ。すごく効くよ」
 そうだ、それがいい。咄嗟に思いついた案だが、きっと大丈夫。あの薬の効果なら期待できる。
 雲雀は寒くなってくると、毎年何度も風邪をひく。そのうち一度くらいは、思い切りこじらして入院までいってしまったりするのだけれど、逆にいえばそれ以外は、ちょっと頭が痛いな喉が痛いなという程度で治癒してしまうのである。これはきっと、子どもの時分から体調を崩すと服用している、あの薬のおかげに違いない。
「きょうや………」
「取ってきたらホテルで煎じてあげるから。ちょっと苦いけど、いいこで全部飲むんだよ?」
「お、おお」
 幼い頃、漢方医にいわれてムカついた台詞をそのままいってやると、ディーノは嬉しげに何度も頷いてみせた。いやなんで。癪なことにこの人は時々器が大きすぎて、雲雀には理解不能だ。
「ねぇ」
 応接室のドアを開け、歩哨のように直立していた彼の部下に呼び掛ける。どんな危険を想定していたのか、彼はびくりと身体を強張らせた。そんなんでいざというときボスを守れるのだろうか。
「お、おお。坊主か、どうした」
「あの人、ホテルに連れ帰って」
「へ? なんかあったのか」
「具合が悪くて戦えないって。多分風邪だと思うんだけど」
 あのくだらない、夜の並盛中で不審者の集団と戦った騒ぎのとき、治療してくれた男である。雲雀なりに敬意を表して病状を正しく伝えた。
「え? ボスなんつー命知らずな………それで無事なのか」
「だから風邪だって」
 もしや藪なのだろうか。
「いやそういう意味じゃねーんだがな…。すまんな、恭弥。手合わせを楽しみにしてたんだろ」
「………まぁね」
 なんとなく見栄を張って雲雀は頷いた。いや実際、楽しみにはしていたのだった。
「特別に敷地内に車を入れていいから、ホテルに運んで。僕はよく効く薬を知っているから、家から取ってくる」
「薬………薬なぁ」
「毒じゃないよ」
「いやそんなこと疑ってねぇよ。そうじゃなくてな、さっき元気に全力疾走してたばかりだし、まぁ飛行機の中じゃちっとだるそうにはしてたが、正直薬を飲むほどじゃ」
「なにいってるの、すごい熱だよ」
「何!! 本当か」
 やはり藪である。雲雀は男の脇をすりぬけると、全速力で階段をかけ下りた。並盛の秩序であるので、校則違反は問題ないのだ。キャバッローネの人間があそこまで頼りにならないと判明した以上、ことは一刻を争うかもしれない。
 駆け込んだ自宅は無人で、雲雀は大きく息をついた。家人が留守なのはいつものことだが、通いできている家政婦も既に帰っているらしい。常ならば特に気にはしないが、薬を探すとなると詮索されないとも限らない。
 深夜に見回りを終えた後など、たまに空腹を感じた時だとかを除いて、台所に入ることなぞほとんどない雲雀であるが、戸棚を端から探っていくと目当てのものはすぐにみつかった。
「あれ………でも、説明書とかそういうの、ないんだ」
 大きな紙袋には雲雀の名前だとか漢方医の名前だとか食前に服用の旨だとかが書かれているだけで、煎じ方の説明はない。雲雀だけでなく家人もずっと世話になっている漢方医なので、そのような初歩的な但し書きは不要と思われたのか、それとも常識の範囲内なのか。
「ま、まあお湯で煮ればいいんでしょ。大丈夫だよね」
 紙袋を掴んで走りながら、手順を考える。馬鹿みたいに広い、ディーノが定宿にしているホテルの部屋には、システムキッチンも完備されている。薬を飲んで、あったかいおかゆでも食べて寝れば、きっとすぐよくなるだろう。
「おや、そんなに急いでどうしました」
「君…!!」
 角を曲がった先、民家の石塀の上に、見慣れた赤ん坊が腰掛けていて、雲雀は目を見張った。見慣れた、といっても、あの強くて、とんでもなくかわいらしいヒットマン姿の赤ん坊ではない。以前、ディーノが並盛中学で講師をしていた頃に、一緒に戦ったことがある赤ん坊で、名前を風という。
 いや別に、あの赤ん坊に比べて、彼が殊更にかわいくないというわけではない。小さいものというのはおしなべてかわいいものだと、確かそんなことを平安の女流エッセイストものたまっていたのではなかったか? だからそういう意味ではちゃんとかわいい。まあちょっと目つきが悪いというかかわいげがないというか口うるさいというかそういう部分もあるが、本人に罪はない。正直彼と組んでいる間、いま頭の上にいるのがあのかわいい赤ん坊だったらなぁと思ったことがなかったとはいわないが、口には出さなかった。まあこの子も強いし。ムカついたからってあちこち喧嘩売るんじゃありませんとか誰彼構わず五万五万と請求して回るんじゃありませんとかいわれたときは、君かわいくないねとはっきりいってやりたくなったりもしたけど。
「久しぶりですね。何か用事でも?」
「別になんでもないよ。ちょっと急いでて」
 とにかく、いつ戦ってくれるともしれない相手である。しかし今は暇がない。どうやってごまかそうかなと焦っていると、おや、と風は目を見開いた。
「それ、漢方薬の袋ですね」
 そこで雲雀は固まった。確かに袋には医院の名前が大きく印刷してあるけれど。とそこで、はたと気づいた。成長を見越しているのかもしれないけれど、いやにぶかぶかな、特に袖丈の長いベビー服を着ているなと常々思っていたのだが、ひょっとしてこれはいわゆる、中国の民俗衣装的な。
 いや落ち着け、と雲雀は自分に言い聞かせた。国による偏ったイメージで早合点してはならない。遺憾ながら日本人の皆が皆、相撲や柔道の心得があるわけではないのと同じで、中国人が皆漢方薬に詳しいとは限らないだろう。イタリア人だって誰もが女好きというわけではないらしいし。少なくともディーノはそうらしい。僕よりも女子の方がいいんじゃないのと聞いた雲雀にディーノがいったのだ。オレがいいのは恭弥だから。初めて会ったときから恭弥だけが好きなんだ。
「どうしました。あなた真っ赤な顔して」
「ななななんでもない! なんでもないよ!!」
「そうですか? 元気そうに見えますが体調が悪いのでは。まあここの先生はちょっと面識があるだけですが信頼の置ける方ですし、それを飲んでおとなしくしてれば」
「これは僕が飲むんじゃないんだ………ねぇひょっとして」
 これは決定的な情報だ。いやいや前からそうではないかと思っていたのだ。口調も見た目からすると驚くほど嫌味った………じゃない大人びているし、それにこのきりりとした目元は、いかにも目つきの悪………じゃない聡明さの表れではないか。ごくりと雲雀は喉を鳴らした。
「実は君、漢方薬に詳しかったりするのかい?」












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