「はぁ………」
 応接室の机に頬を擦りつけて、雲雀は溜息をついた。だるい、眠い、何もする気おきない。机の表面は冷たく滑らかできもちよく、このまま眠ってしまいたい、けれども眠る気にもなれない。つまらない。いつものように群れよりも早く登校したものの、授業なぞとても受ける気にはなれなかった………まあそれは珍しいことではないが。
「………咬み殺したい…」
「委員長」
「う、わ…なに」
 後ろから草壁に声を掛けられて思わず居住まいを正した。そういえばいたのだった。雲雀は秩序なのであり、別に殊更に取り繕ってやる必要なぞないわけだが、とはいえ、だらしない姿を進んでみせたいかといわれればそうではない。
「放課後、今日も繁華街の見回りをなさいますか? もっともその、なんというか………委員長が昨日丹念に指導を行ってくださったので…不心得者はあまりでないとは思いますが」
 指導とはまた配慮した表現で、もう少しで笑ってしまいそうになった。つまり昨日雲雀は、ゲームセンターで集まって騒ぐだとかコンビニの前で集まってくだをまくだとかいう草食動物の群れを、数にして三クラス分程まとめて咬み殺したのだ。一匹見つければ百匹隠れているのが草食動物の常だが、百匹一度に咬み殺してしまえば、しばらくは表だって群れたりはしないものである。今日行っても多分無駄足で、草壁だってわかっているから申し訳なさそうなものいいをしているのだろう。彼が気に病むことは何もないのに。
「いやいいよ。しばらくあのあたりの見周りは新しく入った委員にやらせるといい」
「委員長………!! そこまでお考えの上で!?」
「ん?」
 草壁が突然大きな声を出したので、雲雀は首を傾げた。なにをいっているのだろう。だがまあ、たいしたアクシデントはないだろうし、場所が場所だけに本人たちの意識や責任感も鍛えられるので、新人の委員の研修としたら最適の筈だ。いま思いついたにしては、なかなかにいい案ではないだろうか。
 だいたいあんな奴ら、咬み殺したってさっぱり楽しくない。研修だとかの目的がなくたって、委員ならば譲ってやってもいい程である。数が多ければ少しはましかと思ったのに、準備運動にもならなかった。ただただもっと闘いたいという欲が増すばかり。
 ディーノ。
「あ」
「委員長?」
「いや、なんでもない、なんでもないよ」
 口にしてしまったのかはわからない。でも頭の中に、今まで出会った中で一番咬み殺しがいのある人………いやまだ咬み殺せてないけれどもそうである筈の人の名前が浮かんで、雲雀は狼狽した。
「なんでもないよ…ただ」
 咬み殺したい人が傍にいないだけ。答えようとして、雲雀は思わず泣きそうになった。自分は変だ。このところずっとこんな感じなのだ。
 何が違ったわけでもない。前回の彼の来日の間はいつもどおり、学校が終わると手合わせをして、食事をして、定宿のホテルに向かった。修行の旅に出たあたりから、雲雀はよくディーノの宿泊するホテルに泊まっている。別に家に帰ってもいいのだけれど、彼のホテルの方が便利だしおいしいものも食べられる。大きなベッドは二人で寝ても支障がないほどだし、ダイニングや書斎などを仕事で使っている彼の部下たちがちょこちょこ出入りするのは正直鬱陶しいけれども、気を使っているのか、ちょうど雲雀が眠くなる頃合いには寝室には顔を出すこともないので、そう不便はないのだ。
 いや、でも、全ていつもどおりというのは嘘だ。あの日は………帰国を数日先に控えたあの日は。いつもどおり手合わせをして、いつもどおり食事をして、いつもどおりシャワーを浴びて、いつもどおりリヴィングでまったりした。………でも跳ね馬の態度はいつもと違った。雲雀を好きだといったのだ。
 また何か変なことをいいだしたと、最初はそう思ったはずなのだけれど、口のうまいイタリア人は恥ずかしい言葉をいくつもいくつもつらねて見せて、そして、気づけば雲雀は、本当に彼は自分を好きなのだと納得してしまっていた。だからキスをした。セックスもした。正直悪くはなかった。痛みがなかったとはいわないけれども、譫言のように自分の名を呼ぶ家庭教師は、いつもよりずっと子どもっぽく、自分をさらしているように見えて、ああ、まったく悪くなかった。
 だけれども翌朝は腰が痛くて動けないほどで、それは不満だった。そして昼過ぎぐらいには痛みもましになったもののその日一日はとても本調子とはいえず、そんななか、翌日にはディーノはイタリアに帰っていった。いつもだったら、帰国の前日は一日中、学校は休んで朝から晩まで遠出をして戦うのが恒例というか約束のようになっているのだけれど、だから結局一時間ほど、それもまったく本気を出さない相手とお遊びのような手合わせしかできなかったのだった。だからたぶん、そんなふうに、不完全燃焼で終わってしまったのが悪かったのだと思う。
 まともだったのはディーノが帰って一日二日だけで、それからあとはもう、ディーノと戦いたくて戦いたくて戦いたくて、頭の中はそればかりになっている。一時期ディーノが並盛中学の臨時講師をしていたこともあって、学校のどこにいても、ああ、ここでも戦ったし、あそこでも戦ったなぁと思い出されて、いちいちたまらない気分になるのだ。仕事をしていても、見回りをしていても、以前の、いつもだったら思い出さない手合わせの細かい記憶がどっと蘇ってきて、とても集中なぞできない。あのときディーノはこういっていたとか、ああしていればもうちょっとで咬み殺せていたのかも、とか本当に些細な記憶だ。だけれども思い出してしまえば平静でなんていられないのだ。でもだからといって、暇つぶしに群れを咬み殺したってつまらないばかりで、どうしようもなかった。
 それに夢だって見る。思い出して雲雀は溜息をついた。応接室の、屋上の、それとも教室のドアを開けるとそこになんでだかディーノがいる、という夢だ。柔らかな声で自分を呼び、「さぁ、みっちり戦おうぜ」という。彼の車に乗って、どこか、夢の中の自分はわかっているらしい海だか山だか川だかに向かう。嬉しくて幸せで、でも頭のどこかで夢だとわかっている。だから車がもっとスピードを出すように、それとも夢がずっとさめないようにと、そればかり願っているのだけれど、結局目的地に着く前に目が覚めてしまうのだ。そうなるともう、朝から考えるのは、彼と戦うことばかりになってしまう。
「…………ディーノ」
「い、委員長!」
「え、あ。なに?」
 ひょっとしなくても、今度こそ口に出ていただろうか。雲雀はなんとか、平静を装って問い返したが、生来真面目な副委員長は、矢鱈かしこまった様子で挙手をした。
「そ、その、僭越ではありますが」
「うん、なに?」
「私見を申しますと、その、電話をなさったらどうでしょうか?」
「電話?」
「ええ、だからその、ディーノ氏にです」
 やっぱり聞かれていた。
 そしてそれはそれとして、部下の意見には正直当惑した。何を話すというのだろう? 勿論一緒にいれば、それなりに話すべき話題はある。その日の手合わせのこと、並盛のこと、食事をしていればそれがおいしいだとか気にいっただとかそんな話をするし、ホテルに行けば景色がどうだとか明日の予定だとか話したり、手合わせをかけてゲームをしたりなぞする。会話に困ることなんてない。だけれども、電話でわざわざ話すほどの話題なんてないのだ。ディーノからのメールは時々届いているから、それに返信なら………いやだめだ。基本、見回りの報告や何やらの受信確認のメールしかしていないので、こんな時なんてメールすればいいのかわからない。あなたと戦いたい? 駄目だ。いくらいつも戦おうよと誘いをかけていても、雲雀にもプライドはある。自分ばっかりこだわってるみたいな、そんな弱みを公式に残すのは業腹ではないか。
「いや、いいよそれは」
「駄目です!」
「え?」
「絶対、電話すべきです! あ、いやその、俺は、そうだ、職員室に用がありますので!!」
 失礼します、と叫ぶように宣言すると、草壁は机の上の書類をまとめて掴んで応接室から転がり出て行った。呆然と見送る。だって、電話なんていったって。
「ディーノ…」
 だから鞄の中から携帯端末を取り出したのは、いけないとわかっていても瘡蓋をめくりたくなるみたいな、そんな誘惑に駆られてしまったからなのかもしれない。撮りためたヒバードや並盛全景の画像を開いて、すぐに飽きて閉じた。戦いたい。手持無沙汰なこともあって、適当にあれこれ操作して、そして、いつのまにやら画面に表示された彼の名を見て、思わず笑った。いつだったか彼が勝手に登録したもので、それを見て初めて雲雀は「Dino」という綴りを知ったのだ。たった四文字のアルファベット、知らなかったとはいえ読めない筈もないのだけれど、わからないふりをして雲雀は驚いてみせてやったものだ。「何て読むのかわからないけど、知らないうちに登録されていて」、そう深刻ぶって話した時の彼の顔はなかなかの見ものだった。「もしかしたらほら、パソコンの遠隔操作とかみたいな、そんなのかも。携帯会社を咬み殺しにいった方がいいと思う?」。お詫びだとかいうディーノと、その時はたっぷり手合わせをした。戦って戦って戦って戦って………あの時は本当に楽しかった、のに。
「つまんない………」
「きょ、きょうや!?」
「え?」
 机に頬を擦りよせたところで聞きなれた声がして、雲雀は思わず目を丸くした。なんで。
「うっわ、うわ恭弥から電話してくれるなんて………すっげ嬉しい…」
「え、あ」
 じゃあ自分が間違ってかけてしまったのだ。でも忙しい筈のマフィアのボスがワンコールなる前に電話をとるとかどうなんだ。
「きょうや、きょうや? どうした? 元気か?」
「ディーノ?」
 弾んだ声に苦笑する。何がそんなに楽しいんだか。
「もしかしてボンゴレになんかあったのか? あ、いやそんなことじゃおまえ電話しないよな………でも声聞けて嬉しいぜ。もうしばらくしたらそっちに」
「ねぇ」
 自分はだめだ、ぜんぜんだめ。やっぱり電話なんかするべきじゃなかったのだ。声を聞いてしまったらもう、戦いたくて戦いたくてどうしようもない。あなた僕の家庭教師だとかいっておいて、なんで僕が咬み殺したいときに傍にいないの。
「ん? どした?」
「………………あなた、次はいつこっちにこれるの…」
 がたん、と大きな音が電話の向こうから聞こえて、雲雀は思わず目を丸くした。ついでにがしゃん、ばたん、ばりばり、と何かが落っこちるみたいな音。もしかして、抗争の途中だったりするのだろうか。なにそれずるい。
「い、いやすまん…。びっくりして、ナイトテーブルの上のもの全部ひっくり返しちまって」
 うそばっかり。
「ちょうど寝る前にメール確認してるとこだったか………あ、大丈夫だぜ! ぜんぜん眠くないから!! どうした、なんかあったのか」
「別に」
 嘘ついて戦っている人に話すことなんてない。
「ん? 別にってことねーだろ、だってわざわざ」
「別にないっていってる。あなたこそなんかあるんじゃないの。ずいぶんそっちでお楽しみみたいだけど」
 ごまかされると思ったら大間違いだ。
「な!? なにいってんだ、おまえ。お、お楽しみって………そんなことあるわけねーだろ!」
「本当かな」
「本当だって、恭弥がいるのにそんなことするはずねーだろ」
「………え」
 予想外の答えに虚を突かれる。そりゃ雲雀だって、自分がこっちでつまらない思いをしているというのに、ディーノはイタリアで、ただマフィアのボスであるというだけで、手ごたえのある敵と戦ったり、抗争に巻き込まれたりしているんだろうと思えば、正直癪である。だがもちろん、仕方のないことなのだろうし、本気で腹を立てているわけではなかった。それをまさか、こんな答えが返ってくるなんて、思いもよらない。
「だって………」
「だって?」
「だって、あなた、マフィアのボスだし」
「………いや、そのな、そりゃ人より多少誘惑は…多いかもしんねーけど。でもそれは関係ないだろ。しねーよ、そんなこと」
「それに僕、そっちにいないもの」
 ディーノが日本にいるならばいい。戦おうよと始終誘うこともできるし、何か事が起これば、参加すべくついていく気満々である。でも、傍にいなければ、戦うことなんてできない。
「おまえなんでそんなかわい………いや、オレが悪かった。不安にさせてたんだな」
「え?」
 なってないけど。
「あんなことしてすぐ、帰るべきじゃなかった。おまえはまだ、身体が本調子に戻ってもいなかったのに。ほんとは、ずっと傍にいてやりたいって思ってたんだぜ」
「ディーノ」
 あんなこと、が何を指しているのかはすぐわかった。雲雀もずっと考えていることだったからだ。おかげで思いきり戦えなくて不完全燃焼で、だから今こんなに辛いのだ。
「こっちに戻ってからも、ずっとおまえのことばかり考えてる。今何してるんだろうとか、会いたいなとか、さ。誰かヒットマンでも、オレの頭の中覗いたら、きっと爆笑だぜ。おまえのことしかねぇ。こんな馬鹿、放っといても勝手に自滅するだろうと、見逃してくれるかもしれねーけど」
「同じだ」
「え?」
「同じだよ。僕もあなたのことばかり、考えてる」
 声が湿っているのが、自分でもわかった。だってしかたのないことだ。戦いたくて戦いたくて、でもディーノの方もそんな風に思ってくれているなんて、想像をしたことすらなかったのだ。ああ、この喜びを如何にして伝えよう?
 だががしゃん、とまた何かが割れる音がして、雲雀の喜びの言葉は口に出されないまま消えてしまった。戦況が緊迫しているのだろうか?
「あなた、大丈夫なの」
「きょうや………あ、ああ大丈夫だ。ちょっとびっくりして、うっかりカップ割っちまって。寝る前に紅茶でも飲もうと置いてあったんだけど」
「寝る前?」
 そういえばさっきもそんなことを。
「なぁ、恭弥、オレすぐ会いに行くから。明日………いや、もう今日か。今日中には仕事を終わらせて」
 なにをいっているのだと当惑して、そこではたと気づいた。そういえば、時差がある。イタリアとは八時間違うのだと、たしか前にこの男が話していたような。
「明日の夕方にはそっちに着く。ぜったい。だから、待っててくれるか?」
 じゃあ本当に、ただ単に彼は寝入りしなで、別に誰かと戦っているわけじゃなかったのだ。そうだ。自分がどうかしている。この人を疑うなんて。
「待ってる」
「きょうや」
「待ってるから。ディーノ、早くこっちにきなよ」
 通話を切ったところで、指先が震えていることに気づいて苦笑する。動悸だってひどい。どれだけ戦いたいのかという話だ。
「そうだ、トンファー………」
 袖の中からとりだし、眉をしかめた。昨日の見回りのあと、面倒でそのままにしてあったのだ。泥だの血糊だのでもののみごとに汚れている。磨かなければ。ギミックは使ったっけ? 使わなかった気がする。でも、一昨日は? その前は? このところずっと手入れはなおざりで、でも汚れたなまくらな刃であの人を傷つけるわけにはいかない。
 全部解体して磨き直して、それから、そうだ靴も。底が少しくたびれてきているなと思っていたのだ。いい機会だし、買い変えてしまおう。そわそわしながら雲雀は放課後までの時間を過ごした。













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