かこーん、と耳触りのいい音が部屋に響いた。
「何の音だ、今の?」
 オレはつい口にして、だが答えを期待していたわけではない。恭弥は何だか先刻から上機嫌で、手酌で日本酒を聞こし召している。普段は殆ど飲みはしないし、それがビジネスの場であってもはっきりきっぱり断って見せる癖に、興がのると顔色も変えずに際限なく飲み続ける。まあ多少饒舌にはなる。僕の酒が飲めないというの、とどうきいてもかわいいことをいって、オレの盃になみなみと注ぐ。その癖返盃しようとすれば鬱陶しがって、なにやら自分のペースで一人で楽しげにしているのだ。オレはといえばどうにもこの盃というのが小さく、まだるっこしくて、かなり量はいっているのにさっぱり酔いは回らない。
 もう一度音がした。多分右手の、坪庭の辺り。何となく癒される音だ。とんでもない技術を駆使して陽光を取り入れているらしい坪庭も、この広い部屋も、およそマフィアのアジトらしくなく、雲雀恭弥らしく、そして居心地がいい。戦いにしか興味がなかったような人が、眠れればいい、食べられればいいと卑近な多くのものを切って捨ててきた人が、随分と内装にもこだわってアジトを作ったことを知った時は、意外な気がして、そして嬉しかった。たとえそれで、オレの屋敷にいる時間が減ったとしても、それでもオレはやっぱり嬉しかったのだ。
「ししおどし……だよ」
 はっと戸惑って、気づく。さっきの音について教えてくれたらしい。恭弥は柔らかく欠伸などしていて何とも判りづらいが。あれだけ学校が好きだった恭弥だが、本人も周囲も学校関係職や教師という未来は思い描きもしなかった。まだまだ幼い頃からマフィアからスカウトされていたとか、体罰は駄目だとか体罰は駄目だとか体罰は駄目だとかいう事実はおいておくと、恭弥の他人に対して理解や同意を求めない、その性格に尽きると思う。だが、部下の教育は巧みだ。うちのファミリーの仲間もオレのことを慕ってくれているという自覚も感謝もあるけれど、恭弥のところは特殊だ。段違いだ。なんか片眉を上げただけで、敬礼して行進を始めそう。
「ねぇ、……聞いてる?」
「……っああ。聞いてる。ししってライオンだろ。ライオンおどし」
 慌てて答える。気づかないうちに酔っていたのかもしれない。脈絡なく思考が漂って、だがつまりは恭弥のことだ。大概だ。そして今気づいた。恭弥も少し、目元が赤い。肌が薄く白いから血管が目立ちやすいのは知っているが、やっぱり酔っているのだ、と思う。
「日本庭園にライオンはいないよ。鹿とかいてししとよむんだ」
 日本庭園には鹿もいない気がする。いや、奈良にでもいけばいるんだろうか。鹿と煎餅を食べる庭園があると聞いたことがある気がする。風流な話だ。
「古くは田畑の害獣除けだよ。竹の筒に水が溜まるようにしてある仕掛けで、重さで傾いて跳ね上がると音がする。ああ、あなたのいうところの威嚇射撃だね。」
 風流……あれ。
「あれって無駄だよね。むしろ舐められるんじゃない。武器の所持も戦闘の意思も了解事項だ。狙うなら眉間だろ」
 どうにも首肯しがたい話をしながら、肩を震わせて笑っている。そのツボがぶっ飛んでるのはいつものことだ。でもいつもはここまで笑わない。酔ってるなあ、と思う。酔ってる、ああオレも酔ってる。とんでもなくかわいく見える。ああこれはいつものことだ。
「鹿は……逃げんのかこの音で。きれいな音なのに」
 話をそらすと唇を尖らして、その癖すぐに笑った。囀るような音だ。
「逃げるんじゃない? ……草食動物だもの、こんな音で」
 ゆっくりと顔が近づいてくる。ぶちゅ、と下品な音がして、口全体を咥え込むように吸われたかと思うと、舌が入り込んできた。わざとみたいに、悠長な、思い知らせるみたいに下手糞なキスだ。何をと聞けば恭弥を。恭弥を好きなオレを。目的などないみたいに蠢いていた舌が絡まって退いて、オレが絡めるとまた退いた。最後に口唇に咬みついて、音をたてて離れた。
「……何?」
「……ふ。ふ。……馬脅し?」
「馬鹿に、してんの?」
 馬と鹿で。声が恨めしげになった自覚はある。誤魔化そう、大人ぶろうという余裕はなかった。今すぐ。今すぐあの続きがほしい。
 ちらりと舌が覗いた。濡れた唇は血のように赤い。
「逃げたら……馬鹿にするかもね?」
 そしてやっぱり微笑う人は、とんでもなく綺麗で、ああこれは酒の所為じゃない。勇猛果敢なるオレは、その恐ろしげな赤い口唇に甘いキスを落とした。








inserted by FC2 system