ロマママ


 若い内の失敗はぜんぜん恥ずかしいことじゃねぇよ。失敗を繰り返して人は成長していくってもんだぜ。
 などということを自分よりもよほど子供みたいに見えるマフィアのボスがのたまうものだから、雲雀は眉をしかめた。だいたいこの男は自分の家庭教師である前に恋人である筈である。本人だってそういったのだ。教師が偉そうなことを何ぞいってくるというのならば、それは世に珍しいことでもないので大して腹も立たない………いや正直にいおう。並盛中学においてそんな自分の立場もわきまえない教師がいれば問答無用で咬み殺す。だからまだ単なる家庭教師の顔をして、自分を修行に連れ出そうとなんだかんだいってきていた頃のこの男にくだらない説教をされたとしても、やっぱり腹が立ったに違いないのだが、それはそれとして、やっぱり今の状況は、どうしたって納得がいかない。夕方の応接室。久しぶりの逢瀬。どうして目の前に座ってまじめな顔をして、こんなつまらない話をしているのだろう。彼は教師である前に恋人であるからして、いつもみたいに横に座って、雲雀にはさっぱり理解できない、だけれども聞いているとひどくむずむずする話を、小鳥みたいにずっとさえずっているべきなのだ。
「じゃああなたはどんな失敗をしたっていうの」
 口に出した瞬間には後悔をしていた。せめて殴ってやるべきだったのだ。とうに自覚していることだが、自分はどうにもディーノに甘い。
 だいたい聞く前から予想がつくことだ。階段のてっぺんから落ちたとかレストランでテーブルごとひっくり返したとか。何度その「失敗」とやらを目撃したかしれず、今更聞いてもさっぱりおもしろくない。
「うーん。そうだな、失敗、か」
 だがマフィアのボスは遠くを見て、寂しげな微笑みまで浮かべたりして、雲雀はひっそり笑った。まったくこのかわいい人はたいそうなかっこつけなのだ。そんな必要はないんだよと、いつ教えてやれば良いだろう?
「あ、そうだ。あれがあった。恭弥、笑うなよ?」
 だがいってやる前に面白い話を思い出したらしい。だいたい笑うな、何ていう奴はだいたい笑ってほしいのだ。
「話してみなよ」
「おお。あれは、オレがまだ小学校に入ったばっかりの頃だ」
 うんうんと頷くマフィアのボスにはもっと最近の失敗が絶対明らかにあるはずである。だいたいそりゃその年の頃なんて失敗を繰り返して当たり前ではないか。
「オレは体が小さかったしその頃は周りに子どもなんていない感じで育ってたしな、少し人見知りがちだったんだ。で、なかなか友達も出来ねぇでいた。そんときのクラスの担任は一年生だってことで二人いてさ、一人はまだ若くて、美人だったアンジェリーナ先生。で、もう一人がベテランの男の先生でな、ロナウド先生っていって、こう眼鏡でちょいいかめしい感じで。いや今思えば優しい人だったんだけど」
「うん」
「で、その日オレはちょっと風邪気味で腹が痛かったんだ。保健室に行きたい。仲いい奴もいないし、いやそれ以前にみんな子供だからな、まだ気を利かしてディーノ君が具合悪そうですーなんて代わりにいってくれる感じじゃねぇ。自己申告しなくちゃならねぇわけだが、何といってもそのとき教室にいたのはちょっと子供には怖そうな感じに見えるロナウド先生だけだったんだ」
 沈痛にへなちょこ、もといマフィアのボスが首を振る。どこの国でも子供は似たような苦境に立たされるものだなあと雲雀はどこか他人ごとのように思った。いや事実他人ごとではあるのだが、なんというかこう、目の前の未だ勝てないでいる家庭教師のこと、という気もしない。
「で、そうはいってもこのまま腹抱えているわけにはいかないからな、ロナウド先生に話しかけなくちゃ、ロナウド先生に話しかけなくちゃってずーっとタイミングを伺って、伺って、先生がこっちを向いたときに必死で手を挙げた。『はい、ディーノ君どうしたのかね?』。でオレはとっさにこう叫んだわけだよ。『ロマ、トイレに行きたいです!!』………あれ、恭弥笑わねぇの?」
「え? ………いや、うん」
 だってよくある話だ。雲雀自身はそんな失敗を犯したことはないが、その年の頃はまだ、今に比べたらずっと頻繁に授業に参加していたから、教師に大して「ママ」とか「お母さん」などと話しかけて笑い者にされる子供を何度か見かけたものだ。そういえば「ロマ」と「ママ」は響きがよく似ている。
「そっか、やっぱ優しいよな、おまえ。オレあんときめちゃくちゃ笑われたぜ?」
「いやそれはそうだろうけど」
「なんだなんだボス、そんなミスやらかしてたのかよあんた。初めて知ったぜ」
「ロマーリオ、おまえ、笑うなよなー」
「いやそれは笑い話だろ。なんだよ、そういうことはその日のうちに教えろよな」
 愉快気に話に加わってきたのは、先ほどまで窓の外に煙草の先をつきだして煙を排出することに忙しくしていたはずの、マフィアのボスの右腕であるという男である。なんだいたの、とは流石にいわない。そこは雲雀だとて流石に空気を読むというものだが、ちょっと思った。
 確かに自分のことが話題になっているのだから、話に加わろうとするのは当然のことである。そして実際その頃のディーノのことをよく知っているのだから、雲雀よりも愉快に感じるのは当然なのだろう。だが、面白くなかった。この男のことは、まあ終始群れてはいるものの、極めて真っ当で話も分かるようだということは、ディーノの話やこちらへの対応から察せられるし、雲雀の部下と仲がいいらしいことも聞いているので特に悪感情があるわけではなく、むしろ評価しているといってもいい。だがそうはいっても、いくら昔のディーノのことを知っているからといってこんな嬉しげに振れ回らなくても良さそうなものだ。雲雀はちっとも全く羨ましくなぞないのだから。
「で? あなたそのあとからかわれたわけだ」
「そりゃそうだろ、なあ、坊ちゃん。まったくあんたはちびの頃はとんだへなちょこだったからなあ」
 今もだろ。
 だがそんなむしろ過大な評価に雲雀には聞こえる部下の軽口に、マフィアのボスは子供っぽく膨れて見せた。
「ロマ、そういうなよ。そりゃからかわれたぜ、その日はなー。なんでアンジェリーナ先生じゃなくて、ロナウド先生に「ロマ」とかいうんだよーって」
 そりゃそうだろう、と雲雀は思った。日本でだって、新任の女教師ではなく男の先生に「ママ」なんて話しかけたら、同じ失敗でも更に輪をかけてからかわれること必至である………………って、いや、あれ。なんか変な予感がする。彼は別に「ママ」といってしまったわけではないのだ。
「流石にオレだって女の先生とロマを間違えたりしねぇっての。いやロナウド先生だって似てなかったぜ。ロマのが若かったし! でも眼鏡だし髭も生やしてたし髪も黒くてちょっとだけ雰囲気がにててさ」
「え………おい、坊ちゃん」
「坊ちゃんいうなって。でさ、オレはいってやったわけだよ『うちのロマはロナウド先生にそっくりなんだぜ!』って」
「………」
「………………………まじかよ」
 面白い。なにが面白いってそれは、先ほどから大きく目を見開いて、ぱくぱくと魚のように口を喘がせているマフィアのボスの右腕だという男である。草食動物ならばともかく、いい年の、それなりの地位や力を持っているらしい男性が、このように取り乱す姿を雲雀は初めて見た。
 そして少しばかり気の毒になった。そりゃちょっと、ディーノを子供みたいに扱う様子にはムカつかないでもないけれども、実際子供の頃を知っているのだし、そのことはこの男の罪ではないのだ。それに、いくら恋人であろうとも雲雀だって「ママ」なんて呼ばれたくない。いや呼んではいないのか。
「そんでさ、次の日からかな、なんかみんなが優しくなってよ。話しかけてくれる奴もでてきて、ほらロマ覚えてるか? パオロっていう、体がでかい奴いただろ? 何度か遊びに来た奴。あいつはクラスで一番強くて、いや小学生の話だし、スクアーロとかに比べたら鮫と蟻みたいなもんだったけどよ、一応クラスを仕切ってる感じで、でも『おまえも苦労してるんだな』ってさ、向こうから遊ぼうって誘ってくれて、何かあったらオレにいえよって」
「………………そうか。いたな。あのちょっと太った坊主か………」
 群れきった学生生活のエピソードには興味がない。ただ、目の前でどんどんうなだれて、意気消沈した様子を見せている男が気の毒だった。ディーノももう少し部下の様子に気を配った方がいい、と雲雀は思った。自分も全くこれっぽっちも気にかけてはいないのだが、それはそれで必要がないのだと思っている。
「そう。覚えてるだろ? 遊びに来たとき、ロマがパンケーキ焼いてくれたりしたもんなー、ほらあの赤いエプロンつけてさ」
「君、そんなことしたの」
 これでは自業自得というものである。雲雀が目をすがめると、ロマーリオは上司に対してと考えるとギリギリとしかいえない強い口調で反論した。
「いやそれはあんた、シェフがたまたま休みの時に限ってあんたが友達連れてくるからだろーが! エプロンだってありゃ昔下宿のおばちゃんにもらった奴をしまいこんでたから使ったってだけで!! ………いやボス。悪い」
 悪いとしたら十何年か前のこのボスであろう。だが部下はとにもかくにも声を荒げたことを謝ってみせて、雲雀はあきれた。やはり群れなぞろくなものではない。
「だがせめてそういう話は、その当時に教えてくれねぇか」
「ん? 悪い。てか話してなかったっけ?」
 地を這うような声の要請。だが鷹揚にそれに応える上司の声は明らかに軽い。それもその筈で、どうみてもこの男、問題点を把握してはいない。
「おかしいと思ったぜ、授業参観に行ったりしてもよ、やたらガキどもがこっち見てたりしてな、でも振り向くと素知らぬ顔して向こう行っちまうし」
「何、授業参観とかにも行ってたの?」
「おお、先代は忙しくなさってたからなあ、何度か代わりに。俺はその頃二十歳そこそこだったからな、どうみても坊ちゃんの親って年には見えなかっただろうし、それでじろじろ見られてんのかと。どう見たって堅気にゃ見えなかったろうし」
「ああ」
 むしろ親として、というか継母として見られていたわけだ。いくら性嗜好その他を理由に人を差別してはならないという良識が世間に広まってきているとはいっても、六つや七つの子どもからしたらこんな物珍しいものはない。さぞや、興味津々でディーノの眼鏡で髭の「ママ」を観察したに違いない。
「大丈夫だよ。昔のことだろ。覚えてる奴なんている訳ないだろ」
「そう………だな。そうだよな」
 いってやると途端にぱあっと明るい顔になった。簡単なものである。
「あ、そういやこの前たまたま街で、久しぶりにパオロに会ったんだけどよ、あいつ今ピザ屋やってんだってよ、ロマ。今度食いに行くって約束しちまった」
「そうか。なんだ仕方ねぇ、この前屋敷抜け出したときだな。ああ、そういやあの坊主は卒業する前に引っ越しちまったんだったな。元気そうだったか?」
「おお。時間なくて近況報告しただけだったんだけどよ。親父が死んでからロマが右腕としてずっと仕事手伝ってくれてんだっていったらさ、『おまえ、その人のことはずっと家族として大事にしなきゃだめだぞ』って」
「そ、そうか………」
 今度こそ決定的である。マフィアのボスの母親は顔を覆うと深くうなだれた。
「すげぇよな。短い付き合いだったのにさ、オレがファミリーを大事にしてること、ちゃんと理解してくれてるんだぜ? だから、な? 恭弥」
「へ? 何?」
「何だよちゃんと聞いとけよな、このじゃじゃ馬。だからいってるだろ、若い頃の失敗は恥ずかしいことじゃねぇって」
 鹿爪らしい顔をして、我が恋人は先生のようなことをいう。ああそういえばそんな話をしてたっけ、と雲雀は思った。
「うん?」
「次は失敗しねぇようにしようって学ぶのもあるけどな。それだけじゃねぇ。周りの奴らだって、困ってる奴らがいたらできるだけ助けてやりたいって思うもんだぜ。そういう人が傍にいるってわかるだけでも、儲けもんだ。そう思うだろ?」
「………まあ、そうかもね」
 他の群れが困っていようと何の問題が? 普段の自分ならばきっとそう切って捨てたことだろう。だが雲雀は自分で思っていたよりもずっと人がよかったのかもしれない。大の大人がここまで落ち込んでいるのを目の前にしていると、どうにも落ち着かない。認めたくはないがこれが助けてやりたいという気持ちかもしれない。
 雲雀は言葉に迷って、視線をそらした。何かいってやったところで、余所ものの人間の話など慰めにもならないだろう。だが、一番その役目を負うべき男は、「恭弥が素直だ………」などと訳の分からないことをつぶやいて天を仰いでいる。何の役にもたちそうにない。
 まったく、思い返してみると自分のこの不幸な男に対する態度は、公平なものではなかった。この馬鹿、じゃない、マフィアのボスの子どもの頃に身近で仕えていたのは何の罪でもないのだ。単なる仕事である。なんでまた、自分は苛立ってしまったのだろう。それは確かに気は利かない。そんな子どもの頃からそばにいたのなら、当然入手しているはずのアルバムの一冊や二冊、見せてくれても良さそうなものだ。哲だったら黙ってっても………そこまで考えて雲雀は苦笑した。いくらなんでもそれは過大な要求である。哲………じゃない、副委員長とは、それこそ先ほどの話のディーノの年くらいの頃からの付き合いで、何が楽しいのかは知らないがその頃からずっと自分が風紀を守る手伝いをかってでてくる。確か小学校の入学式で咬み殺してやったのがきっかけで、あのころはまだあの部下も年相応の、子どもっぽい顔をしていたし、泣き虫で使えたものではなかった気がする。しつこく、自分の役にたちたいといってくるので放っておいただけだ。だが今は面倒な説明をせずとも、だいたいのこちらの要求は先回りして準備するくらいの知恵は回る。それはやはり、付き合いが長い、という事実も影響しているのだろう。ディーノの部下にそこまで要求するのは酷というものだ。彼だって自分の上司に対しては、気配りのできる使える部下なのかもしれない。だいたいあんな傍迷惑な人に日々仕えているというだけで、大変なことに違いない。雲雀だって流石にディーノと毎日毎日四六時中顔を合わせていたいなどとは思わない。一日中戦ってくれるというのならまた話は別だけれども、そんなうまい話はある訳ないのだ。
「委員長」
 ノックの音がして、多量の書類を抱えた部下が部屋には行ってきた。昼に行った持ち物検査のクラス別のリストに違いない。明日には掲示板に張り出すつもりのものだ。雲雀はあわてて腰を上げた。
「哲………じゃない、副委員長。特に突出して無駄なものが持ち込まれていたクラスはあった?」
 昔のことを思い出していたせいか、つい懐かしい呼び名が口をついてしまった。ディーノのことを笑えない。雲雀は小さく咳払いをする。だが優秀な部下は一瞬片眉を上げて見せただけで、検査結果の詳細の説明を始めた。
「な、なんだよ。恭弥。おまえ草壁のこと『哲』なんて呼んでるのかよ」
 こちらは仕事中だというのに。うなだれきっている部下よりも更に気の利かないマフィアのボスは、驚いた声を上げた。失敗が恥ずかしいものではないという持論は結構だけれども、どうしたってこんな子どもの頃の呼び方をしてしまえば、恥ずかしい気分にだってなるものだ。聞かなかった振りをしてくれたって、いいではないか。
「なあ、なあって、恭弥」
「うるさい、僕がなんて呼ぼうと僕の勝手だろ。ちょっと黙ってて」
「………………そうかよ」
 既に頭は自分の職務でいっぱいだった雲雀は、自分の恋人の発した、いかにもマフィアのボスらしい低く冷たい声の響きに気づくことはなかった。


 中学生の弟子より更に大人げのない、恋人の部下にすら妬いたらしいマフィアのボスにベッドの上で散々焦らされいじめられたのはそれから数時間後のこと。
 まったく、何が腹立たしいといって、一番腹立たしいのは最終的にはそんなことをされても、あとで如何にも後悔しました、といった風に頭を下げられただけで許してしまう自分自身だと雲雀は思う。だけど、あのマフィアのボスは本当に仕方のない人で、雲雀だって彼の部下になぞさっぱりまったくこれっぽっちも、例えアルバムの一冊も見せてくれなくてもまるっきり妬きはしないのに、どうやら風紀副委員長に嫉妬なぞしているらしいのだ。馬鹿でかわいい人なのである。
 ちなみにその夜、マフィアのボスの部下は、件の嫉妬の対象になった風紀副委員長と、さんざっぱら飲んで騒いで相当な酒癖の悪さを晒したらしい。少なくとも随分な迷惑を被ったらしい副委員長から聞いた話ではそうである。だが翌日見た限りでは、まったくいつも通り、二日酔いすら感じさせない平常営業で、すっかり昨日のことを忘れたように上司の後ろに立っていて、まったく、その程度で浮上できる程度の話ならあそこまで意気消沈した様子を他人に見せないで欲しい。人騒がせな。
 雲雀だっていつも通り、まるで仕事に集中しているかのような顔をして書類に向かっているけれども、とても昨日のことは忘れられない。ただ座っているだけでも体の奥が疼いて、昨日の、戦いの中のように熱っぽい瞳だとか、乱暴な手つきだとか、そんなものを思い出してしまうのだ。とても納得がいかない。








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