<12×>



「ああ、ここにいたんだね」
 闇より暗い教会の地下。だが自分はペンライトを携帯しており、何よりその昔、今より四百年近く前人だった頃よりも、遥かに夜目がきく。安寧を休息を平安を、全てを手にした幸運な者たちが永久の眠りを貪っているのだろう棺の隙間、身を隠すには明らかに適していない髪がびくりと揺れたのが見えた。
「おまえ……人間か? ここに入れるなんて」
 姿を現したのは子どもだった。能天気な問いに苦笑し、だがすぐに気づく。彼がその瞳に湛えていたのは倦怠と諦念だった。そうだ、既に見慣れたものだ。僕は何の夢を見ていたのだろう。
「さあね。君は神父なのかい?」
「まさか。身を隠すのに良かったってだけだ。おまえは? 何でここに入れたんだ」
 明らかにサイズの合っていない装束である。忍び込んだ後に見つけたものを取り敢えず身に纏ったのだろう。だがこんな状況下でも、身なりを整えようとしていることには感嘆の念を覚えた。親の教育がいいのかもしれない。
「生憎信仰心というものが欠如していてね。もともと日本人だからかな。他の奴らがここに入り込まないのも、多分単なる惰性だ。いやもしかして、何があっても彼らがキリスト に怖れを持ち続けるというのならば別だけれどね。少なくとも僕はここに入っても何のダメージも感じなかった」
「そうか」
「時間の問題かもね。こんな世界で神を信じる人間がいるとは思えない。まあ、無理して入り込むほどの場所でもないけど。君はひとり?」
「ああ」
「隠すとためにならないよ」
「隠さなくてもためになるとは思えないんだけどな」
「ちょっと」
 自棄になったように笑う体を支える。ひどく細かった。まともに食べてもいないのだろう。ほんの少し前までは明らかにあったはずの衝動が、急速に萎んでいくのを感じる。
「親父がいたんだけど。食料を探しに出てそのまんま」
「……そう」
 それはもう生きてはいまい。人工血液しか知らないような多くの人間、そう今の時代では人間と呼ばれる吸血鬼たちが、無防備に歩いているヒトをみて襲い掛からないはずもない。何かトラブルがあったか、それとも力尽きたか、日の照っている間中に隠れ家に戻ることがかなわなかったのだろう。
 吸血鬼は無敵ではない。不老であり、しかし不死ではない。ヒトと比べて多くの力を持つが、たった一筋の陽の光で全ては灰になる。血を吸われれば簡単に吸血鬼になれるが、事態はそう単純ではない。全身の血を抜かれ弱った体を放置されれば、そのまま直射日光をあびてジ・エンド。単なる獲物なら、待ち構えているのは死、あるのみだ。この子どももそれはわかっているのだろう。捕食者の協力なくして、ヒトが吸血鬼になることは出来ない。
「オレの血を吸うのか?」
「さあ、どうしようかな」
 びくり、と小さな体が揺れる。こんな子どもでも死への恐怖は感じるものなのか。あまりに昔過ぎて覚えてもいない。
 血を吸うのは本当に簡単だ。何十年かぶりの生暖かい生命の息吹。パック飲料の味気ない代物とは全く違うはずだ。だがその結末は? 意識を失った子どもを屋外にでも放り出せば、容易に証拠隠滅。だがこのまま地下においておけばひとりの吸血鬼の出来上がりだ。戸籍もなく、永遠に幼い子どものままの。小さな子供の吸血鬼は珍しくない。親や周囲の人間の欲望の犠牲になって。いや、難病や事故の治療がままならず、緊急措置としてなったものもいる。多くは、子どもの精神状態を維持しているように振舞って、集団でバーや盛り場で騒ぎ明かす。破壊行動に出るものも多く、ひどく恐れられていた。そうでない、社会に何とか順応した者も中にはいる。だが皆一様にその体に似つかわしくない老成した表情を浮かべていた。知識と欲望を蓄えたまま、長い年月を耐え忍んだものの表情を。
「僕と一緒に来るかい?」
「……え?」
「たいした家じゃないけどね。狭いし。ころころ居場所を変える。まあ趣味みたいなものかな。それでもよかったら」
「なんで」
「さあなんでかな」
 義理を返す必要もないわけだ。だがまるで刷り込みのように、放ってはおけなかった。子どもはぽかんと口をあけて、だがすぐ満面の笑みを浮かべた。感情をそこまで晒さなくていい。そう思うのに何故かうずうずした。





 トランクに突っ込んであった、薄汚れたトレンチコートを着せ、さらにショールで首元をぐるぐる巻きにする。ラビットファーのソフト帽をかぶせると、人目をひくきらきらした髪は大分見えなくなった。何より瞳が隠れる。遠目から見れば「恐るべき子供たち」、そう見える、間違いない。彼らの多くは自分たちを少しでも大きく見せようと、季節に関係なく服を着込むのだ。きらきらした瞳さえ隠せば、彼がまだ成長することが出来る躰だとは思うまい。仕上げに香水をたっぷり振り掛ける。これで生きた人間の血の臭いは大分誤魔化されるはずだ。新参者の中には、この馨しい臭いすら知らない者さえいる。
「車? かっこいいな」
「そう?」
 仕事の報酬に貰った、フェラーリの何とか。能天気な赤は真っ暗な駐車場でも見つけやすいのが気に入っている。だがそれだけだ。
「一度乗ってみたいと思ってたんだ、車って」
「……今日だけだよ」
「わかってるって」
 本当にわかっているんだか。うっとりした表情で車を眺めると、満足したのか助手席に乗り込んだ。
「ドアマンがいるから。車から降りたらなるべく俯いてるんだよ」
「わかった」
 生真面目に頷くと、手を差し出してきた。
「よろしくな! ……えーと」
「雲雀。雲雀恭弥だよ」
「きょうや。オレはディーノだ」
「ディーノ?」
「ディーノ……キャバッローネ」
「キャバッローネ……」
「親父がそう呼ばれていた。オレたちに苗字はないから」
「そう」
「ディーノ雲雀、っていったほうがいいか?」
「別に。僕はあなたの親になる気はないよ。そこまで期待しないでくれるかな」
「そっか」
 呟くと、子どもはどこか安心したように息を吐いた。少々苛立ちを感じないでもない。だが、身勝手だということは指摘されるまでもなくわかっている。そう簡単に、見ず知らずの吸血鬼に気を許す訳がないのだろう。
 ディーノ・キャバッローネ。先程耳にしたばかりの名前を反芻する。単なる偶然だろうか? あるいは。うんざりするほど昔からこの生を持続し、懐かしい故国よりも、この半島で暮らした日々のほうが余程長い。今この時代なら、日光に当たらずに海を越えることも可能で、実際何度となく往復を繰り返しているのだが、結局この足場を離れることなど考えもしなかった。それでも、この国であの人の名が一般的なものかどうかすら判断がつかない。思えば、他人の名に興味を持ったことなど、殆どなかった。





 部屋に着くなりバスルームに放り込む。まともに湯船に浸かったこともなかったらしい子どもであるが、さんざっぱら大騒ぎしてタイルの床を滑ったり転んだりこの僕に頭を洗わせたりした後、少しばかり大きいパジャマに身を包むと、途端に可愛らしくなった。金髪の巻き毛、白い肌、大きな金の瞳、薔薇色の口唇。悪漢に捕まった小公子のようだといっても過言ではない。それとも乞食の衣装を脱いだエドワード六世殿下。実際そう間違った状況とはいえないのではないか? だが悲劇の王子様は堂々とソファの上寛いで、ここが我が家といわんばかりだ。跪いてやる気も失せるというもの。
「そこのソファが君のベッド」
「ここが?」
「充分ゆとりはあるだろ」
「これでも成長期だぜ?」
「文句があるなら床で寝たら? 別に大きくならなくてもいいんだよ」
 狭苦しいソファより、布団で寝たほうがいいかもしれない。ありがたいことに今なら簡単に取り寄せられる。だが、ひゅ、と子どもは息を呑んで自分の言葉がどれだけ足らないか思い知らされた。余裕ぶっていた表情があっという間に消えて、こちらとしてもかわいそうになる。
 本物の子どもなんて、見るのは何十年ぶりだろう? 人々がそっくり吸血鬼に入れ替わったのは、今から三十年程昔のことだ。科学が偏見を駆逐し、人工血液の存在がそれに拍車をかけた。吸血鬼は最早恐るべき存在ではなくなった、そう誰もが考えたわけだ。あらゆるデメリットを「不老」の一言が凌駕した。最初は難病患者から。すぐに金持ち連中が後を続いた。あっというまに世界は変わり、本当の意味での子どもなど、この世界には存在しないことになっている。精神年齢が三十過ぎで、見かけばかりは幼い人間は僅かながらに見かけられるが。しかもそれ以前はるか昔から、夜間以外は外出禁止だった自分は、あまり子ども、特にローティーン以下の存在とは接したことがなかった。正直どう対応すべきか心もとない。
「君が寝たいところで寝ていい。これ以上大きくなるつもりなら、ソファベッドを買ったほうがいいかもね」
「……」
「あとは……そうだな注意点としては、夜は静かに、かな」
「静かに?」
「人付き合いなんて殆どないけど、僕が一人暮らしだってこと位は知られてるはずだからね。仕事で僕が外に出てる間は出来る限り音は立てないほうがいい。単なるねぐらのつもりで借りたから、防音とか細かいことには気を使わなかったんだ」
「わかった。……なあ、恭弥」
「うん?」
「……ありがとな! オレ、おまえに会えてすごく嬉しい」
「…………」
 ストレートな言葉に頬が熱くなる。薄い膜を張った大きな瞳は、たいそう可愛らしかった。
「別に僕にだって得がないわけじゃないしね」
「得?」
「そう、あなたがもっと大きくなって、一人前になったらね。一滴残らず僕が血を吸ってあげる。覚悟しておきなよ」
「そっか」
 できる限り怖ろしげにいってやったはずなのに、蕩けそうな笑みを子どもは浮かべる。大人しくソファの上で丸くなる子どもに、毛布をかけてやった。頬を毛布の端がなでた瞬間、反射でだろうか僅かに体を縮めた。首筋が隠れ安堵する。そうでなければ今にもおあがりなさいといわんばかりなのだ。誘惑に簡単に屈してしまいそうな自分に、溜め息をついた。











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