下らない問いに答えないでいると、頬を叩かれた。朦朧とした意識の中でも、こめかみに受けた傷がひどく深いのは判った。ぐっしょりと生暖かい濡れた感覚が、今はもう背中の真ん中辺りまで広がっている。そして、首筋に牙が当てられているのだ。答えるまでもないではないか?
「生きたいか?」 
 糖蜜のように甘いテノールがもう一度耳に囁きかけた。牙が皮膚を破る感触はやけに薄く、だが血を啜る音はひどく耳に響いた。他にも脇腹の傷、肘の骨折。生きられるはずがない。
「あなた……だれ」
「まだ、余裕あんのか? すげーなあ。でも自分の所属している隊の傭兵隊長くらい、覚えとけよ」
 告げられた名は、確かに聞き覚えがある気がした。傭兵隊長というからにはおそらくは領主サマ、しかも爵位もお持ちだろう。農民が収める小麦だけで、領主が領地が維持するのは容易なことではない。傭兵を集めて領地を守らせ、いざ戦となれば軍を率いて国から報酬を得るのだ。そういえば今自分が所属している隊は、異常といっていいほど結束が固く、負けが込んできているこの数日も、全くといっていいほど離脱者が出ない。士気が高く、戦闘技術もなかなかのものだった。それもこれも、隊長が人格者で慕われている所為だという話ではなかったか。遠目に、軍服に身を包んだ鮮やかな金髪の男を、見た記憶がある。だがこんな色だったろうか?
「ま、もうそんな立場でもないけどな」
 困ったように肩を竦める、男の顔を見返した。月の光にも似た、どこか冷たさを感じさせる金の髪だ。こんな色だったろうか? 既に日は沈み、件の月以外に光を発しているものはない。だから普段と違って見えるのかもしれなかった。もう一度思い返そうとして、だがすぐに諦めた。隊に忠誠を誓った他の兵たちならともかく、余所者の自分はこの戦いにもこの男にもこの土地にも格別の執着はなかった。故郷を飛び出し、遠く流れ着いた国で、生き場所を求め参加しただけのこと。戦況を見るのは得意だと思っていたのだが、どうやら今回は見誤ったらしい。
「生きたいか?」
 歌うような問いがもう一度。何を馬鹿なことをいうと笑い返してやりたかったのに、途切れ途切れに唇が紡いだのは、別の言葉だった。
「い……きた」
「そっか」
「い……き」
「うん、まあいいんじゃねぇ? どんなことになっても、死ぬほうがずっと簡単だ。生きることは難しい。やってみろよ」
 哀れんだような視線が投げかけられる。いい返すよりも前に、再び首筋に牙が当てられた。僅かながら残っていた力が、どくどくと流れ出していくのがわかる。恐れも怒りすらも感じずに、暗闇の底へと堕ちていく意識に恍惚として身を任せた。





 目を覚ますとそこは、廃屋の地下だった。多分農家が食料を保存しておくための場所だろう。農民たちはほとんどが土地を捨てて別の村に移っている。食糧も殆どが残ってはいなかったが、それでも床に零れたままの大麦の粒や腐った玉葱が視界に入った。ほんの数時間前なら、恥も外聞もなく貪り食ったであろうそれに、今は何の感情も動かされなかった。暗闇の中、それでも見渡すと死体がいくつも打ち捨てられているのが判った。何故こんな場所に?
 体を起こす。痛みも疲労も感じられず、驚く。衣服は血を吸い込み固くなっていたが、頭部に受けたはずの傷は跡形もなく塞がっており、確かに折れていたはずの右腕も繋がっているようだ。
「どうして……」
「ん? 起きたか」
 視線を向けると、壁に寄りかかる形で座っている男がいた。明り取り一つない部屋なのに、何故か視界には何の問題もなかった。あの、金髪の男だ。
「まだ日のさしている時間だ、外に出るのは我慢してくれ」
「どういう、こと?」
 予感のようなものを感じながら、それでも聞いた。到底認められる話ではない。
「陽の光を浴びると死んじまうんだ。今のおまえは」
「……何を馬鹿な」
「試してみるか?」
 うんざりとした様子で男が答える。近づくとぐ、と腕を掴んだ。避けることさえできなかった。
「生きたいって、お前がいったんだろ? 恭弥」
「僕のこと」
「部下の名前はみんな知ってる。これでもな」
 思わず後ずさりをしようとすると、死体だとばかり思っていた男にぶつかった。呻き声があがる。改めてみれば見覚えのある顔だった。髭面で黒髪の、力自慢の騎兵の男。もしや、ここにあるのは皆、死体ではないのか。
「負け戦だった。上が軍功を欲しがって無茶な作戦を立てた所為だ。つまりは。でもオレの部下を、そんな馬鹿な理由で殺させたりしねぇよ」
「……」
「まあもう、傭兵隊長でも何でもねぇけどな。夜が更けたら、どこでもいい、少しずつばらけて移動しろ。人間に見つかるとやばい。ここらは特に迷信深い連中が多いって話だしな」
「人間……」
「そう、人間。おまえはもう人間じゃないんだ。わかるか?」
 簡単に受け入れられる話ではない。僕の体に何らかの変化が訪れたのだと、薄ぼんやりと悟ってはいても、人であることまで手放したつもりはなかった。反論しようとして、だがそこでとまった。目の前の男が、勇ましい傭兵隊長様が、今にも泣きそうな顔をしている。
「やだ」
「うん……そうだよな。ごめんなオレは」
「泣かないで」
 大きく目を見開いた男が、口唇にむしゃぶりついてきた。舌を絡めて、吸って、そこで初めて自分の犬歯がひどく尖っていることに気づいた。自分のものか、それとも相手のものか。血の味のするキスは信じられないほど甘美だった。
 戸惑ったのは何故か、性別よりも人種の差だった。窮屈極まりなかった国を後にして阿蘭陀船に密航、流れ着いた先も居場所はなく、傭兵として各地を回った。戦いは好きだ。自信もある。だがどこへ行っても、自分の容貌が、訛りの残る言葉が、余所者だということを教えてくれた。細かに国土が分かれた大陸では下らないことと思うけれども、彼らにとって人種の差は重要なことらしかった。ユダヤ人、それともジプシー、軍に必要不可欠な刑吏すら彼らは忌むべきものと見做す。ましてや自分はどうだろう? 忘れ去ったつもりでも、故国の宗教や倫理を捨て去ってはいないせいかもしれない。心無い言葉に傷つくことはなく、むしろ咬み殺すことで自らの居場所を作ってきた。だが娼婦でもなければ、自分とこんな風に深く交わろうとする人間があろうとは思えなかった。粘膜と粘膜が擦れあうたび、気の遠くなるほどの快楽が自分を支配するのがわかった。
「本当は」
「うん」
「こんな形でおまえを生かしたいわけじゃなかったんだ」
「僕が怪我したのは僕の責任だよ」
「そうかも、しれねーけど」
 困ったように微笑む顔はまるで子どものようだった。
 ほんの一日かそこら前まで、この男も同じように日のさす戦場を駆け回っていたのだ、と気づく。どうやってこんな力を手に入れたものか、死に掛けている部下たちを救おうと奔走して、その願いは叶ったのにこんなにも打ちひしがれている。
「あなたはこれからどうするの?」
「どうするかなー」
「……」
「もうちょっと、ここでオレができることをするよ。死なせたくない。おまえたちをただ単に地獄に落とすだけなのかもしれないけど、それでも」
 一緒に来て欲しいと、そう口にすることは出来なかった。彼はもうすっかり決めてしまったのだ。生きるのは難しい。こんな体になればなおさら。それでもだからこそ、死ぬことは出来なかった。一度救ってもらった命だ。

























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