「ひさしぶりだな」
 平静に平静に。そんな呪文をこのアジトに入ってからずっと心中で唱え続けたせいだろうか、なんでもない調子で挨拶ができたというだけで、思わずディーノは安堵する。
 日本にある最新鋭の設備を備えたマフィアの………マフィアじゃないと言い張っている団体のアジト。その奥まった位置にある部屋。一般的に応接室と呼ばれる雲雀の居室はいつも凛とした空気に満たされている。文机の前に座った弟子の背中もまた、つついたら折れそうなほど美しくぴんと延びて、ディーノはつい身惚れた。これは呪文なぞ唱えなくともいつものことだ。
「そう? この前会ったばかりじゃない」
「まあそういうな。そう感じられたってことだ」
 馬鹿なマフィアのボスにしたら弟子に会えない間は一日千秋の思いだったといっても過言ではない。まあちょっと慌ただしくなってくると日付の感覚も曖昧になるという側面も無きにしも非ず、だが。
「恭弥。またボンゴレからの縁談断ったんだって?」
「なんで知ってるの」
「んーまあ色々と」
「僕が結婚なんてしたがる筈ないだろ」
 吐き捨てるみたいに呟いた様子にどれほど仄暗い悦びを感じているか、そんなことこの人は知らないのだ。
「そういうと思ったぜ」
「あなただってしてない」
「ん? んー………オレはまあほら、マフィアのボスだから」
「普通逆じゃないの」
 そうかもしれない。だが心優しい人ばかりのファミリーのボスなので、今のところ自由を許されている。もちろん最初からそうだったわけではない。ディーノもまた、付き合いのあるファミリーからいくつも縁談を持ち込まれて、だが諦めきれない人がいるのだと長年世話になっている部下に打ち明けてからは、そういう話はこちらの耳に入る前の段階で堰きとめられるようになった。あれからもう数年経っていて、幼かった子供は大人といってもいい年齢に、結婚さえできるような年齢になっていて、その成長を傍で見守りながら、打ち明けることもできず、諦めることもできないままでいるなんてこと、部下たちは知らない。イタリア男としてこれほど情けないことはない現状である。きっとどれだけアプローチしたって相手にされなくて当然な、どこぞの令嬢だか人妻だかに懸想しているとでも思われているのだろう。
「どうかな。まあ、写真だけでも見てみろよ」
 とはいえ当の相談した相手である部下は、未だに上司が愚かで臆病な片思いを続けていることなぞ百も承知だろう。自分が勝手に思っているだけだから名前も教えられないのだといったのが効いたのか、どちらかといえば昔から過保護な性質の男であるというのに詳しく詮索してくることすらなかったのだけど、ほんの数日前、いかにも我慢も限界といった様子で「誰が相手かは知らないがなボス」、と忠告してきた。「誰が相手かは知らないがなボス、告白したからって即咬み殺されるってことはないだろう。逆にうまくいくかもしれねぇじゃねぇか」と。他人ごとだと思っていってくれる。打ち明ける勇気なぞ自分の中のどこを探しても見当たらない。
溜息を押し殺しながらアタッシュケースを開ける。まったく告白どころかこんなことをしているなんて。だが幼い、まだまだ子どもだったころを知っているからこそあと一歩が踏み出せないのだ。こんなマフィアのボスなんかより、もっとふさわしい相手がいる筈。
「なにそれ」
「ああボンゴレから預かってきた。お前断るにしろちょっとは確認しろよ………ってうわ!!」
 文机の上に置いた見合い写真を、次の瞬間には次の瞬間にはすごい勢いで投げつけられた。畳の上に散らばった数冊の冊子を苦笑しながら拾い上げる。
「あ」
「なに」
「………いやなんでもねぇ」
 何故だろう、摘みあげた自分の動作がまるで汚いものに触るかのようで、ディーノは慌てて両手でつかむように持ち替えた。汚いのは自分だ。このお嬢さんたちは皆、教養もあり、美貌も優れ、しかもマフィアの家に生まれたってだけでこんな羽目に陥っているだけなのだ。裏がある人間はいないことは、この写真を任された時点で確認している。
「ふん」
「怒るなって。そうだ、なんか条件とかあるか? オレがとりなしてやるぞ」
 馬鹿な恋情を抱えているとはいえ、彼の幸福を誰よりも願っているという気持ちに嘘はない。筈だ。自分の仕草一つで、奥にある醜い嫉妬やら執着やらが明らかになってしまいそうな罪悪感から、ディーノは思わず提案の言葉を口にした。
「条件?」
「おう。ほらなんかあるだろ、なんか」
「かぐや姫じゃあるまいし、馬鹿じゃないの」
「へ?」
 意味がわからない。だがかわいい弟子は如何にも嫌そうに眉をしかめた。
「指輪をを持ってきました、匣を持ってきましたとかいわれたって、結婚してやる義理はないよ」
「ああ」
 そこまでいわれて思い出した。まだ幼い、日本語の勉強を始めたばかりの頃読んだ記憶がある。宇宙人の娘が無理難題を突き付けて貴族の男たちの求婚を端から退けたあげく、時の天皇のアプローチすら袖にしてもといた星に帰るという話だった筈だ。日本最古の童話なのだそうである。西洋の童話は実は恐ろしい意味が隠されているだとか心理学的に分析するとどうだとか、そんなことが適当な周期で話題になるものだが、日本の童話だって恐ろしさでは負けたものではない。求婚した男たちは皆要求の品を用意できず振られたうえ、もれなくすべて不幸になるというとんでもないファムファタルっぷりで、ハッピーエンドなぞ何処を探しても見つからないありさまである。
「って条件ってそういう意味じゃねぇよ。ほらあるだろ、胸はでかい方がいいとか、髪が長い方がいいとかそういう」
「なにそれ」
「いやそうはいったって普通は重要なんだぞ、そういうとこも」
「あなたはどういうのが好きなの」
「え?」
「胸がでかい方がいいのかって聞いている」
「え、や、そんなことないぜ。小さいのは小さいので」
「嘘くさい」
 嘘ではない。むしろ平たい、存在を主張するのはかわいらしい乳首だけ、みたいな胸に惹かれる………というか修行の旅の間に温泉に浸かった際目にしたそれを未だに夢に見たりする状況である。だが弟子は見るからに頬を膨らませて難しい顔をしている。
「そんなことねぇって。かわいいじゃないか小さいのも」
 思わずフォローの言葉を口にして、次の瞬間には気づいた。雲雀がそんなことを気にしている筈はない。どこからどう見ても胸が小さくて当たり前な男の子である。多分風紀的な意味でイエローカードだったのだろう。
「オレのことはいいだろ。恭弥はどういうのがタイプなんだ? そういや今まで聞いたことなかったよな」
「強い人」
「………………え?」
「強い人がいい」
 マジか。ディーノは思わず弟子を見返して、だが相手は頬を赤らめながらきゅ、と唇を結んで視線をよそに向けている。だがいくらなんでも。雲雀らしいといえばこれほど雲雀らしい返答もなかろうが。
「いや、強いかどうかもいいけどな、他にないのか? 美人なのがいいとか、優しくてかわいいのがいいとか」
「なにそれ」
 ディーノの知る限り誰よりも美人で優しくてかわいい人は、まるで凍りついたように表情をなくしていた。
「あなたの好みを押し付けないで」
なんでわかったんだろう。ディーノが思わず息を呑むと、雲雀はますます怒りを募らせたようだった。だが当然の条件ではないだろうか。自分が雲雀を幸せにすることはできないけれども、いやできないからこそ、かわいい奥さんをもらって誰よりも幸せになってもらいたいと思う。それこそ、ああ自分の出る幕はないなと潔く思い切れるくらいに。
「あなたは勝手に美人で優しい奥さんを貰えばいいだろ。僕は関係ない」
「そういうこというなよ。オレはおまえには幸せになってほしいんだ。強いってだけじゃなくなんか」
「………しらない」
 ふいと雲雀はそっぽを向いた。瞬間的に怒りがわく。身勝手な感情なのは自覚していたがどうにもならない。こんなにもおまえの幸福を願っているのになんでわかってくれない?
「………認めねぇ」
「は? あなたなにいって」
 大体強いって何だ。雲雀は守護者の中でも群を抜いた戦闘力を誇るが、肉体的な強さは永続的なものではない。いずれ歳をとりそこに衰えがみえたところで、マフィアの世界には時々いる、女性というよりは武装したグレズリーに似ているみたいな熊に迫られたらどうする。結婚するのか。仕事で戦って、その上休日や余暇の時間はその熊と戦うというのか。
 その想像は、例えば雲雀が成人男性として当然のことながら他の熊とキスしたりセックスしたりしているかもしれない、という可能性よりもずっとディーノを打ちのめした。それはただ単にずっとリアルに想像できた、ということなのかもしれない。だが許せない。何があってもその役目はディーノのものである筈だ。
「許さねぇよ。強いってなんだよ。おまえ何考えてんだ!」
「うるさい。僕の人生だろ。放っておいて!」
「放っておけるわけねーだろ!! 強いからなんだっていうんだよ! おまえ、強いからってオレと結婚してくれるとでもいうのかよ!!」
 はっと気づいて口を噤む。だが全てが遅かった。広い和室の中で、ディーノの追い詰められた叫びだけがいつまでも反響しているような気がした。この世界が終った時にも、きっと人は今の自分と同じような気分になるのだろう。
「あ、いや………恭弥、これは」
「………………………するよ」
「え、や? 恭弥?」
 だから彼が零した言葉の意味を、ディーノは全く理解できなかった。ただ呆然と、その赤くて美しい唇の動きを見守る。
「するよ。なんなのあなた、僕をからかって楽しいの。相手にされてないことぐらい、僕だってとっくにわかってる」
「きょう、や?」
「馬鹿にしないで。もう顔も」
「好きだ」
「「え?」」
 発した言葉に一緒になって驚いてどうするという話だ。だがディーノは、力ない、とはいえ振りあげたのが他の男性かそこらの熊であったなら「渾身の」と形容詞をつけたであろう平手を咄嗟に掴むと、それにキスをした。尊敬のキス。彼にとって異国の人間であることを逆手にとって、そこや、他にも額や頬にならば何度もした。どこよりも惹かれる場所に唇を近づけることさえできない代わりに。だが今この瞬間ほど、全身がしびれるような感覚を得たことはなかった。
「愛してる。きょうや」
「嘘」
「じゃねぇ。もし許してくれるならオレが、他の誰でもないオレが、おまえを幸せにしてやりたい。一番傍に置いてほしい、おまえの心の」
「跳ね馬………な、にいって」
 こちらを見上げた塗れた瞳。赤い頬。それだけでディーノにはすべてがわかった。今までどうして気づかずにいたものだろう。この誰よりも美人で優しくてかわいい人の愛情は自分に向けられているのだ。
 ほんの数分ほど前まで、馬鹿な、自己犠牲だか自己憐憫だかで構成された決意を後生大事に守ろうとしていたことなぞ、今はさっぱり脳裏にすら浮かばなかった。ただ今さっき自分に呼び掛けてみせた、とんでもなくかわいらしい唇に見惚れていた。キスをしたい。いうなれば愛情のキス。だがその一言でいいあらわしてしまうには、あまりに多くの感情を含んでいる気がした。友情に厚意、憧れに懇願。そして遺憾ながら欲望も。それは彼の唇に見蕩れながらも、同時に彼の全てに口づけたいとそう願っているからだろうか? 昔習い覚えた詩を引き合いに出すまでもなく、どう考えても狂気の沙汰だ。
「恭弥」
 だがだからどうしたというのだ? ディーノはうっとりと眼を細めると、そのあまりにもかわいらしい果実を堪能すべく唇を寄せた。
「愛してる、きょうや………………って、うわいって!!」
 しかしその甘さを味わう前に、ぺちんと軽快な音がしてディーノは両側から頬を挟みこむように叩かれたことに気づいた。なんということだ。咄嗟に悲鳴をあげてしまったものの、頬の痛み自体は大したものではない。僅かに熱く感じられ、だがそれは彼に叩かれる前からかもしれない。だからもし痛かったとすればそれは心の方だ。
「………きょうや?」
 おそるおそる問いかける。天国から地獄。いやこの場合は月から地球、といったところだろうか。今さら拒絶されたらと思うと、とても堪え切れる気がしなかった。
「恭弥、どうした?」
「うん、そうだね」
 小さく頷いて愛しい人は顔をあげてくれた。だがディーノは思わず息を呑んだ。雲雀はにやりと、真摯な愛情を向ける相手の笑顔への形容詞としてあまり選択したくない言葉だがどうみてもにやりと微笑んでいたからだ。
「きょう、や?」
「そうだね、あなたが正しい」
「へ? なにが」
「あなたのいうとおりだよ、結婚には条件が必要だ」
「え、ちょ、ちょっと待て恭弥」
 ディーノは慌てた。確かにいった。何か条件はないのかと。だがこの歳になれば自分がどういう人間かは把握している。ディーノはマフィアのボスで、あまり褒められたものではない人生を送ってきた男で、つまり流石に自覚していることだが、美人でも優しくもかわいくもない。十かそこらの子どもの頃なら、金髪でおとなしい性格をしているというだけで、周囲の大人たちはかわいいと褒めてくれたものだが、今は遺憾ながらもうさっぱり育ちきった裏稼業の男なのだ。ついでに胸もない。
「うん、やっぱり指輪かな? 匣よりも」
「ん?」
 だが候補に挙がった条件はあまりに予測していないもので、だが聞いてやっと思い出した。かぐや姫。気位の高い日本のファムファタルは無理な要求をつきつけることで男たちを翻弄したのだ。
「恭弥、オレを信用してくれないのか?」
 せめてあの月から来た姫を擁護するというなら、無茶な条件はただ単に求婚者の覚悟を問うただけのものなのだ。だがそうはいってもこの身を捧げてもいい程愛しく思う相手に、我が真情を疑われたらやはりいい気はしない。
「そうだね。そうかも。うまいこといって部下にいわれたらすぐ撤回するんじゃないの」
「ばか」
「あなたがばかだよ」
「ああそうだな」
「え?」
 途端に不安げな様子を見せられればとても放ってなど置けないのだから。
馬鹿といわれればその通りで、だが恋愛なぞそもそんなものではないだろうか? 初めて雲雀に会った時から、ディーノは馬鹿といわれればこれ以上馬鹿な対応もなかろうと自分でも思う程、弟子の一挙一動に右往左往している。自分の職分を自覚しているならそろそろ適当な………美人だとか優しいだとかかわいいだとかいっても弟子に敵うような人がいるなどという幻想なぞ捨ててはいるが、まあとにかくファミリーにとって条件のあう相手と結婚して子孫を残すという役目を果たすべきなのは、部下の誰もが指摘しなくても自分が理解しているところで、それでもあと一歩が踏み出せない。その癖諦めきれない。馬鹿以外の何者でもない。
こんな情けないボスであるのに、どこまでもありがたいファミリーの皆は陰ながら応援してくれている。もちろん誰に片思いをしているかなんて打ち明ける筈もなく、多分とても釣り合わないようなお嬢さんだとか倫理的に許されない既婚者だとかに惚れていると勘違いしているのだろう。この前だって右腕たる部下に「誰が相手かは知らないがなボス、告白したからって即咬み殺されるってことはないだろう」と励まされて………咬み殺されることは…咬み殺されることは? ディーノは記憶の襞をなんとかしてまさぐり、そして思わず笑い出しそうになった。ああ確かにそういった。
「まあほらあれだ、多分大丈夫だ」
「なんでさ。あなた適当なことばかりいって」
「ん? んー………オレはまあほら、マフィアのボスだから」
「普通逆じゃないの」
 そうかもしれない。だがディーノは心優しい人ばかりのファミリーのボスなのだ。こんな単純でわかりやすいことを、わかってるつもりでさっぱりわかっていなかった。不徳の致すところである。
「普通はそうかも」
「ほら」
「でもオレは普通じゃねぇから。恭弥のことあきらめるわけねぇよ。だから」
「あ、ちょ、ちょっと」
「だから、な? きょうや」
 今度こそ。かわいらしい赤い実は何もいわずとも誘惑しているかのようだった。頬を撫で、唇を近づける………と、そこでぐいぐいと身体を押し返してくるいじわるな二本の手があった。
「なんだよ。恭弥はオレとキスしたくねぇの?」
「し………たくないわけじゃ、ないけど」
「んー、そっか………っていややっぱいやなのか?」
 かわいいことをいうものだから、じゃあはいと身体を近づけようとしても二人の間の差はさっぱり縮まらない。雲雀がぐいぐいとこちらを押し返しているからで、もちろん力比べとなればディーノが負ける筈はない。だがまさか力づくでどうこうしたいわけでもないので、恐る恐る質問してみる。
「いやじゃ…ないけど」
「そっか、あー………そうか」
 それだけで天にも昇る気持ちになる己を説教してやりたい。だが真っ赤な顔でいわれればかわいいだけなのだから、しかたがないではないか。
「でも条件、条件っていった」
「おお、そうだな。指輪だっけ」
 まだ信用してくれないのかと問いただしたい欲求はもちろんある。だが落ちつかなげに視線をそらす愛しい人の目論見は、どこからどうみても時間稼ぎだ。いきなりの展開に驚いているのはディーノも同じで、彼の要求もわからないではない。それに指輪なぞディーノは雲雀に何度プレゼントしたかわからない。戦いに好んで身を置く人の助けになればと、頼まれずとも手土産代わりに何度も贈った。今さらそれが一つ二つ増えたところで。
「雲の。Aランク以上の奴だよ」
「ああ、ああ。わかってるって」
 いわれずとも。ディーノは頷いてみせながら、裏のオークションやつきあいのあるファミリーから入手できそうな指輪を脳裏でリストアップした。雲の、Aランク以上の、彼の強さにふさわしいリング。
「あなたの給料三カ月分の」
「………え?」
「持ってこれたら結婚してやってもいい」
「………………恭弥!」
 だが重ねて出された条件は思いもよらないものだった。かわいいかぐや姫からのプロポーズ。我を忘れない人間がいたらそれは天人かなにかだ。
「え、ちょ、だからだめって!!」
 そんなわけでディーノはかわいいことをいった唇を味わうべく雲雀を抱きしめた。当然の対価として貰った二つの手形を目にした部下には、この世の終わりみたいな顔で「やっぱり咬み殺されちまったのか? ボス」と聞かれた。やっぱりってなんだ。
 とにかくこの手形が消えるまでに貢物を用意しなければ。キャバッローネのボスの力をもってすれば、簡単なミッションであるといわざるをえないところである。









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