コスプレについて考えてみる



「ちょうどよかった。先週改装が終わったとこだったんだぜ。まあ入って入って」
 仕事が一段落したので、僕はイタリアの、ディーノの私邸を訪れた。顔を合わせるなりひっぱっていかれたのは、彼の私室と同じ階にある部屋の一つだった。今まで入ったことはなく、だがまあ彼の邸宅には空き部屋など腐るほどある。そうそう覗いて回るわけにもいかない。
「へぇ……すごいね」
「間取り的に一番らしいかなって」
 日本家屋=狭いというイメージには異論を唱えたいところだが、確かにあまりに広い和室というのは、寺か旅館のようで少々落ち着かない。四畳半程度の面積の庵で日本三大随筆の一つを書き上げた人間もいるくらいだ。民俗柄といえるのかもしれない。多分この馬鹿みたいに広い屋敷の馬鹿みたいに広い部屋の中で一番狭い部屋で、それがこの男の部屋のすぐ横にあることが何とも愉快だった。突飛なほど金持ちな人だから、普段は箪笥か物置の一つだとかいわれても驚きはしないつもりだ。
 無駄な荷物は持たないつもりでも、いつのまにやら中の嵩が増えるスーツケースを下ろして伸びをする。新しい畳というものはどうしても安っぽく見えるものだ。だが反面藺草の香りには心が休まってまるで故郷にいるような気持ちにさせられる。
「あ、ちょっと待っててくれな」
 流石に庭には手が回らなかったのか、障子を開けると豪勢に溢れかえっていた何とも華々しい色彩を鑑賞していると、後ろでディーノが押入れに嵌め込まれた和箪笥を探っている気配がした。
 振り向くと広げられていたのは錆鼠の白鷹の御召し。畳み慣れていない人間が何度も広げてはしまいこんだのだろうことがわかる妙な皺がついてはいるが、良い品だ。かなり値が張ったことだろう。
「じゃーん!! 着てみてくれよ」
「え……ここで?」
「あたりまえだろ?和室が出来たら着ると思って何着か用意しておいたんだ」
「枚、だよ。別に着物じゃなくちゃいけないって決めてるわけじゃないんだけど」
 確かに日本ではそのほうが落ち着くからとプライベートは殆ど着物で通している。だがここはイタリアで、この部屋から一歩外に出れば異国の風景が広がっているのだ。郷に入ったところで郷に従う気など微塵もないけれども、正直気はすすまなかった。
「そういうなって。着せてやるからさ」
「無理だろ」
 オチが見えている。
「いいじゃねーか。ほら着せてさ、脱がせる楽しみ?」
「何それ。人形遊びでもしたいのかい」
「えーわっかんねぇ? 恭弥」
「悠長な話だね」
「着物の恭弥は色っぽいなっていう話だよ。ほら、な」
 覚束ない手つきで御召しを広げると、僕の首筋に当てて得意げに頷く。鏡があるわけでもなくこちらからは見えないのだが、まあそう難しい色味ではないだろう。だがそもそもこんな大胆な犯行予告を聞かされて、僕が大人しく着替えるとでも思っているのだろうか。
「な?」
「やだ」
「いーだろ。ぜってー似合うから。な?」
「…………仕方ないね」
 そんな理由で嫌がっていたわけではない。まだ昼過ぎなのだ。だが気づくと僕は頷いてしまっていて、全く仕方ないのは自分だ。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めワイシャツのボタンをはずす……とそこで首筋に噛み付いてくる行儀の悪い口があった。
「何? 着替えるんじゃなかったの?」
「んー…………ん? や、そうなんだけどよ」
 待てねぇ、と子どものようにいってくるので苦笑する。それ見たことか。


「あなたはこういうの着たりしないの?」
 奇跡的にたいした皺も寄らず放置されたままだった着物を身に纏いながら聞く。
「え? いや一応お揃いで誂えはしたんだけどな。一人じゃ着れねぇし。着せてくれる?」
「そういう意味じゃないよ」
 ノックの音がある。つまり和室のように設えてはあっても、入り口は樫板のドアのままだということだ。顔を覗かせたのはいつもの部下で、茶菓子としてずいぶん豪快なサイズの御萩を運んできた。この短時間で準備したのだろうか、よくもまあ。だが障子の向こうの景色は少し薄暗いようだった。日が翳っただけだろうか?それとももう夕方なのだろうか。いやまさか。
「久しぶりだな、恭弥。まあゆっくりしてってくれ。ボスは今日はもうオフだしな」
「マジで! やった!! 恭弥、泊まってってな」
 自習になった学生のように僕の家庭教師だという男が喜ぶ。一応曲がりなりにもボスであるのだから、自分で決めてもよさそうなものだと思うのだが。
 彼の部下は部屋の隅の炉を……炉かあれは、開けて湯を沸かし始める。どう考えても茶室の間取りとしてはおかしな感じで、だが暇ではなかろうに上司にこんなことを覚えさせられたのだろうことを思えば指摘する気にもなれなかった。ああ、うん、炭の置き方も間違ってるけど。
「で?」
「で?」
「何着たりしないって?」
「……ああ。あなたはイタリアの昔の服着たりしないの?」
「いや、日本とは違うしなー。そういう風習はねぇよ。劇とか、そういう祭りがあるとかなら別なんだろうけど」
「へえ、あなたかぼちゃパンツとか似合いそうなのにね」
「かぼちゃパンツ……ここらじゃハロウィーンはそんな一般的でもないけど。っていうかかぼちゃって頭にかぶるんじゃなかったっけ?」
 二度褒めてやるつもりはない。黙っているとわかったらしい茶を点てていた筈の彼の部下が爆笑した。次いで目の前に置かれたのは図らずも濃茶になってしまいました、という感じの茶がたっぷり入った椀だった。誰か部下にレクチャーさせたほうがいいかもしれない。
「昔の服だったら地下の倉庫にしまってあるはずだぜ。ボス」
「ワオ。いいね、出してきてよ」
「いやおまえ……なんだよそれ。知らねーぞ」
「初代の服は捨てずに処分してねーのがある。多分たまには虫干ししたりしてはいる筈だからな、着れなくもないんじゃねぇかな」
「汚ねーだろそれ。本当に管理してるのか?」
「いいからはやく持ってきなよ」
 しばらくして目の前に広げられた衣服は、確かにかなり傷んでいた。埃っぽい臭いもする。ベルベットの丈の長いジャケットにはところどころ虫食いの穴が見受けられ、繊細なレースのシャツも似たような被害状況だった。
「いやこれは流石に着れねーだろ。なんかシャツすごく黄ばんでんじゃん」
「絹だからな。どうしても日に焼ける」
「おまえなんでそんな得意そうなんだよ」
「だがな、このレースは多分全部手仕事だぞ。機械なんてなかったろうし。かなり値が張ったろう」
「そりゃ確かにそうかもしんねーけど」
「すごいね。はやく着てみなよ」
 かぼちゃ、と評するにはスリムな形だった半ズボン(ニーブリーチズというのだとロマーリオが教えてくれた)を手渡すと露骨に嫌な顔をする。往生際が悪い。
「ほら」
「いやだってなんかこれ汚ねーじゃん?」
「いつだってどろどろのバスローブ着たままがーがー寝てるくせに何繊細ぶってるの。さっさとしなよ」
「それくらい着てやりゃいいじゃねぇかボス。オレはもう行くぜ」
 にやにやしながら彼の部下が部屋を後にする。ああ、ちょっと失敗した、かもしれない。悔し紛れに睨みつけてやると、金髪がなんだかもじもじした。
「だって短パンって……恥ずかしくね?」
「気にすることない。似合うよ」
「似合いたくねーし!! ……やめろって」
「ほら」
 首筋にシャツを当てて頷く。少しばかり黄ばんでる細かなレースが、金色の髪と白い肌に良く映えた。高い襟だから彼の首に浮かんだ柄は殆ど見えない。
「ね?」
 やっぱり似合う、そう思って、そこで気づいた。鏡があるわけでもなし、彼からは見えないのだ。そうだった。
 Tシャツを無理矢理脱がし、シャツを広げる。部屋に待った埃に出そうになった咳を必死で押し殺した。これ幸いと反論してくるに違いないからだ。クラヴァットはどうやって結ぶのが正しいんだろう。ネクタイとは違うのだろうが、さっぱりわからない。なんとなく、映画か何かで見かけたような形になるように弄ってみる。
「恭弥」
 名前を呼ばれて顔を上げる。首元しか見えてなかったのに、胸から上全体が視界に入った。なんてことだ。
「おまえ、顔真っ赤」
「何いって」
「埃が舞うから息止めてたんだろ。馬鹿だな」
「邪魔しないで」
 さっぱりわかってない人に構わず、クラヴァットにもう一度専心する。手持ち無沙汰に髪を弄ってくる指が、心地よかった。ぴ、と音をたててレースが引き攣れる。
「あーあ」
「……あなたって、ほんと、悪い先生だよね」
「きょうや?」
 見上げるとそれだけで何事か察したらしい。着せて、脱がせる楽しみ? もうちょっとでわかりそうだったのに、せっかちな家庭教師が僕の角帯を解いて圧し掛かってきて、不完全に結ばれたままのクラヴァットが胸元を擽った。
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