ねこのここねこ



 仕事を終えて食事を取り、ディーノは自室に戻った。このところ忙しなくしている嫌いがあったのだが、今日は随分早く切りがついた。買ったものの仕舞い込んだままになっているDVDから適当に選び出し、何か飲みながら観るかと基本的にサイドボードの飾りと化しているコニャックを取り出す。
 と、そこで幸福な休息時間は終わりを告げた。ノックの音。直感など働かせなくとも、それが何かは予想がついた。案の定ドアを開けるとロマーリオがたっていて、例の案件の確認事項が増えたのだとすまなそうな顔をしていう。だが九時五時で切りがつくような職種についていないという事実は、重々骨身に染みている。むしろその度に付き合わせることになる部下が気の毒だ。ディーノは大人しく階下の執務室へと戻った。
 運ばれてきたコーヒーを飲みながら書類を確認していく。酒には強い性質とはいえコニャックを口にする前でよかった。また幸い先方の都合で確認事項が増えたというだけで、特にトラブルというほどでもない。いつもなら賑やかに仕事に励んでいる部下たちも、この時間では自宅か、そうでなければ屋敷内に与えている部屋に戻っていて、今は右腕と一人きりだ。
 いや違う。鼻にかかった鳴き声がして、小さな黒猫がドアの隙間を擦り抜けて来た。
「お、キョウ。来たのか。どうしたおいでおいで」
 手招きすると大きな金の眼をきらきらさせて走り寄ってきた。ぴんと上を向いた尾はなんとも得意げだ。うずうずと高さを目測しながら足踏みをすると、ぴょんとディーノの膝に飛び乗った。いつもながら小さな体でたいした跳躍力だ。
「ボス、ここ間違ってるぞ」
「わり、今確認するあーおまえはほんとにかわいいなー」
 語尾を限りなく「にゃー」に近く発音しつつ、ディーノは書類を受け取った。ふと顔を上げると部下がなんとも珍妙な面持ちで固まっている。いったいどうしたというのか、しばらく考えてディーノは気づいた。もしかして先ほどの自分の発言の後半、膝の上で盛大に喉を鳴らしている子猫に向けていったものを、自分にいったと勘違いしたのだろうか。
「うーああ、そのな、ロマーリオ」
「どうしたボス」
「……いやなんでもねえ」
 訂正するのも失礼な気がする。ディーノとしても無駄に部下を傷つけたいわけではない。それに自分より一回り以上年上で背の高い男であろうとも、ディーノにとって部下たちは皆押しなべてかわいい存在だといってもいい。
「おおどうした、おまえさんも来たのか」
 重い扉の向こうの微かな鳴き声が聞こえて、ロマーリオはいったん閉めたドアをまたあけた。前足の先だけが白い黒猫がするりと部屋の中に入り込んだ。そのまま当然のようにディーノの膝の上に登る。
「ああもう大人しくしろって。このじゃじゃ馬猫。しょうがねえなー」
 また「にゃー」だ。二匹とも甘ったるい嗜めの言葉を意に介した様子もなく争いが勃発したが、じきに双方が居心地のいい体勢を見つけたようだ。先客ははっきりとはしないが生後二ヶ月がいいところかと思われるし、濫入者も中どもの域だ。乗ろうと思えば乗れなくもないだろう。絶えず黒の毛並みを撫でている左手は諦めるとして、右手は空いている。くるりと椅子を回してデスクに向かいさえすればすぐに仕事は再開できる。
「だめだろ、アッロードラ。おまえのほうが年上なんだからなー。ああもうかわいい、宝石みてぇだ」
 にゃ、と非難めいた声をちびスケがあげる。多分手が留守になったからだろうとロマーリオは思ったが、ディーノはそう受け取らなかったらしい。
「妬くなよ、おまえだってかわいいぜ? …………あ、うんロマも」
「俺はいい。それよりちゃっちゃとすすめてくれ。そんなんじゃ週末日本に行けねーぞ」
「おう。おまえらごめんなー。ディーノ君は明後日からしばらく留守にするからな。不肖の弟子が会いたい会いたいっていって仕方ねぇんだよ」
 楽しい週末に思いを馳せたのか、なんとも浮かれた声で謝ってディーノはキョウの頭をぐちゃぐちゃにする。そんな可愛らしい話だったか、とロマーリオは自問する。要は手合わせをしにコンスタントに来日せよ、との御用命だ。リング戦云々は終わり、雲雀は高校に進学した。家庭教師としての役目は一段落している。だから当たり前のようだがかかる費用はキャバッローネ持ちで、一応一般人ということになっている風紀委員長は勿論、こうも浮かれて度々ボスが海を渡るようではボンゴレに請求するのも不可能だ。
「お兄さんお姉さんたちのいうことを聞いていいこにしてるんだぞかわいこちゃんめ。あ、てかあいつらどこいったんだ? 集会かなー。おまえたちも、大人になったらいっていいからなー」
 身を捩るようにして愛撫に没頭している猫たちは、まるでわかっているように相槌の鳴き声をあげた。あんまりかわいいので、ディーノはもっと強く、唇の端をくすぐってやる。
 年長者たる猫たちも皆、この一年ほどの間に立て続けに拾ってきたものでまだ年若い。鼻先や手足が白いものもいるが、皆往々にして黒猫だ。一匹飼いだすと、似た柄の子が目につくようになるということなのだろうか。意識したつもりもないのだが、雨の日、それとも冬の日、一匹でいる子猫を見捨てられなくて引き取っているうち、気づけば屋敷は黒猫ばかりになっていた。この二匹はまだ小さいので許していないが、あとの子たちは時折夜の猫集会にも顔を出しているらしい。
 猫集会。なんとも魅惑的な響きだ。実際ディーノは何度か後をつけたこともある。部下には内緒で屋敷を抜け出し、だが猫というのは勘が鋭い動物だ。夜道で何度か転び気づくと見失っていた。だが自分でいうのもおかしいが、気のいい仲間たちと暮らす我が家も、月明かりに照らされると非常に古色蒼然たる佇まいに見える。鋭角的な塔、裏の鬱蒼とした森では鳥がクフホークフホーと鳴く。ギイっと音がして鉄門が僅かに開き、その隙間を潜り抜けて長い尾が美しいうちの黒猫たちが外に出て行くさまはまるで映画のワンシーンのようだったとディーノは思う。
「そのことなんだけどよ、ボス。あんまりあいつらを夜に外出させねえ方がいいんじゃねえか?」
「ん? そりゃ多少は危険かもしんねぇけどよ、ここらは車の通りも激しくねぇし。うちに閉じ込めるのもかわいそうだろ。ネロなんかすっかりたくましくなっちまって、ここらのボスなんだとよ」
 誇らしげにいう男はマフィアのボスだ。ロマーリオはついつい溜め息をついた。いや、向こうの世界の方が世襲などない分シビアかもしれないが。
「いやそういう意味じゃなくてだな」
「じゃあなんだ?」
 だがなんといって説明すればいいだろう。止めるというなら、ここまで猫が増える前に止めるべきだったのだろう。だが、猫の一匹や二匹、キャバッローネにすれば養うのは容易いことで、それが五匹六匹ともなると、あと一匹やそこら増えたところで何の違いがあるだろう。子どもではないのだから、ボスが飼いたいといえば反対する理由はない。だがファミリーの人間からすれば、ここまで増えるとも、ここまで黒猫ばかり拾ってくるとも思っていなかったのだ。
「最近シマでな、うちのファミリーの連中が恐れられているらしいんだ」
「……そうか」
 ディーノは眉間を手で押さえると、大きく息を吐いた。結局はよくある話だ。
「仕方がねぇよ。因果な商売だからな。悲しいもんだな、この街のために頑張ってるつもりだけど、なかなかわかってもらえねぇ」
「いやそうじゃなくてな……」
 無理矢理笑顔を作る上司に、ロマーリオは眉をあげる。だがだから何と説明すべきか。どう聞いてもくだらない話なのだ。馬鹿な噂だと一笑に付されるべきもの。
 キャバッローネのボスが黒魔術に嵌っている、とか。どうやら街で噂になっている。今は二十一世紀で、非現実的な能力を持つ輩が跋扈するマフィアの世界でも、悪魔崇拝で敵を倒すという話はついぞ聞かない。街でも流石に最初は笑い話だったようだ。だが夜な夜な、まるでホラー映画のように黒猫が城から抜け出し街を闊歩していると、目撃者が増えるにつれ恐れられるようになった。
 命知らずな小学生が肝試しをしようとしているのを捕まえた部下から相談されて知った。そういえばどことなく、配達に来る食料品店の店主や時々顔を合わせる花屋の娘がそっけないとは思っていた。だがまさか、キャバッローネは呪術には手を出しておりませんと訂正して歩くわけにも行かない。より疑われるのがオチだろう。だが仁義に厚いマフィアとしては一度飼い猫として引き入れた以上、追い出すわけにはいかなかった。第一ディーノが納得しないだろう。
「お前ら……慰めてくれるのか?」
 感極まった声に視線をやると、健気な黒猫たちがかわるがわるディーノの鼻先を舐めてやっているところだった。ああ本当に、見た目が黒いだけでいい猫ばかりなんだよなあ、とロマーリオは思う。
「大丈夫だボス、まっとうに商売してりゃ、いずれ誤解も解けるさ」
「ああ。……ああ、そうだよな」
「それに来週から日本だしよ、リフレッシュを兼ねて遊んで来いって」
「そうだな……恭弥に会えるんだもんな」
 ぎゅむぎゅむと黒猫を抱きしめながらディーノが呟いた。ものすごく嫌な顔をしながらも猫たちはディーノの膝から下りない。日本にいるあの黒猫はどうだろうか? ロマーリオが見たところ確率は五分五分といったところで、だがあの雲雀恭弥がそこまで気を許しているらしいことが既に奇跡なのだ。しかし、本人がわかっていないのだからどうしようもない。
 取り敢えず今後の目標はこれ以上黒猫を増やさせないことだ。街を歩かせればものすごい嗅覚で黒猫を拾ってくるから目が離せないが、日本に行けば今度はあの猫にかかりきりになってくれることだろう。誰に向けてるのか問いただしたいような甘い声も聞かされずにすむ。それで大人しくしているような猫ではないからだ。
 まったく本人に自覚がないのが問題なのだ。部下から指摘するのもどうなのかという話だ。それに正直にいえばここまで増えるまで気づかないとは思っていなかった。だがネロだのノッテだのとからはじまって、少しずつ名前は核心に迫っている気がする。
「あー……恭弥に会いてぇなあ」
 にゃ、とキョウが鳴いて、ディーノの頬を舐めた。自分を呼んだと勘違いしたのか、それとも嫉妬か。ロマーリオは薄く笑んだ。猫たちは皆ディーノに懐いていて、よく甘えている。膝の取り合いなど、今夜に限ったことではないのだ。だが彼らには悪いが、最後の黒猫がボスの寵愛を掻っ攫ってくれる日をキャバッローネの人間は心待ちにしている。
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