「ねこのこ」「こねこ」



 山の中の、打ち捨てられたようなログハウス。男は周囲を用心深く確認する。誰もいない。当たり前だ。日差しが木で遮られているとはいえ夏のことであり、黒い背広で身を包んだ人間にはここまでの道のりを登ってくるのは、信じられないほどの苦行だった。何でこんなにも蒸し暑いのだろう。
 建物の入り口に近づいて息を潜める。確かに人の気配を感じた。いや実際には物音一つしたわけではない。それでもわかるのは闇の世界にいる者の勘といっていいのだろうか? 思いついて男は苦笑した。ドアに身を寄せ中の者に聞こえるくらいの声で囁く。
「ねこのこ!」
「ここにいるぜー」
「「こ」しかあってねえ! つうかなんで恭弥連れてきてんだボス!」
「ん? いいだろ演習だし。ボノだろ、はいれはいれ」
「君達何ぬるいことやってんのかな。咬み殺すよ」
「えー別にいいだろ。誰だかわかったんだからさ」
 ドアを開けると上司とその猫が何やらいちゃいちゃしていた。男は大きく息を吐く。演習とはいえ、当たり前だが潜伏先設定のログハウスにあるご立派なエアコンは稼動させてはいない。外と気温は大差なかった。いやむしろ更に暑い様な気がする。お疲れさん、というと同僚がクーラーボックスから冷えた水の瓶を出してきてくれた。ああまるで生き返るようだ。
「オレの子猫ちゃんが恭弥だってこと知ってる奴は少ないからな。ロマとボノと……イワンくらい?」
「なにそれ、僕は猫じゃないよ」
「ん、いずれはっきり知らせようとは思ってんだけどな。恭弥イタリア来ねぇ?」
「やだ。だったら暗号なんてやる必要ないだろ」
「あー、でも練習してても損はねぇよ。面白そうだし。まそれで、あれでも充分誰かはわかるって話だ」
 暑さの発生源は暑くないものなのかと男はぼんやり考える。よくもあそこまでひっついていられるものだ。カーテンの隙間から外を見ると、どうにも平和な風景が見えた。いや実際平和なのだ。夕刻になったら別チームの攻撃からボスを護衛しつつ次の潜伏先まで移動、その後ホテルに移動して宴会に突入する予定だ。ああビール飲みたい。
「他のやつらは仲のいい師弟だと思ってるからさ。あ、ボノだなって」
 ああそれはねえなあ、と男は考えた。少なくとも今回の演習に参加する連中全員にとっては了解事項だろう。幹部連中が口が軽いというわけでは決してなく、まあなんというか、見れば判る。
 だが他の連中でも、ボスはドア越しに話しかけられれば誰だかすぐにわかっただろう。それだけ気心が知れている。結局は命の取り合いをする場でもそれが一番力を持つのだ。あとはやはり勘。演習を何度やっても、戦闘状態のときほどそれが研ぎ澄まされることはない。逆に戦いの場であれば、姿が見えなくても声が聞こえなくても、敵か味方かの判断くらいはつく。キャバッローネのボスともなればなおさらだ。
「あなたは甘いんだよ。命がいくつあっても足りない」
 つん、と横を向いた子猫もそれは判っているだろう。ああ全く暑いなあとついひとりごちると、もうエアコンつけちまうか、と同僚が笑った。
inserted by FC2 system