ひっでーな、とたいした傷でもないのにディーノは親指の傷を示す。もう殆ど血は止まっている。羽織っただけの白いシャツに飛び散っているのは、ペスカトーレのソースだ。血ではない。

 時刻を確かめると一時過ぎだった。さすがに空腹を覚えて、ルームサービスで昼食を運ばせる。雲雀の躰はディーノが居間まで運んだ。当然だ。もう多少は歩けるような気もしたが、いってやるつもりはない。思ったとおり傷は開いて、でももう落ち着いている。些細な怪我だ。

 でも、利き手に怪我をさせたのはまずかった、と雲雀は思う。それを理由に、のらりくらりと手合わせの相手を断ってくるかもしれない。今日は雲雀だって、とてもやれやしないが、明日は回復して……いやどうだろう。今日はたぶんずっと部屋にいて、ディーノは無駄な口説き文句の語彙を開陳してみせ、金髪はやけにきらきらしている。自信はなかった。このところ、いつもこんな風にディーノの短い滞在期間は終わっている気がする。

 ぐ、と傷に歯を押し当てて親指をしゃぶってやった。うあ、と小さくディーノは声をあげて、雲雀はゆっくりと舌で弄ってから唇を放した。

「介抱

「うん、あーありがとな」

 雲雀が頼んだのは、ローストビーフのサンドイッチと、サラダだ。高級ホテルだけあって、いい肉を使っている。カンパーニュも香ばしかった。

「牛も馬も、味は大して変わらないよね」

「そうか?結構違うと……」

「褒めているんだよ」

「いやいや。拗ねてんのか?」

「拗ねてない」

 咄嗟に答えて、しかし、どうだろうか。もう、怒ってはいない。拗ねているのかもしれない。

「恭弥がいったんだぜ。好きに聞き出せって」

 確かにそうだ。ディーノは焦らして責めて弄って、それでも雲雀は最後まで口にしませんでした。もう自分で自分を褒めてやりたいくらいだったのだ。

 大体雲雀は、誕生日なんて何の意味もないと思っている。年齢ですら、というか年齢でカテゴライズして学習や生活の場を限定することすらくだらないし、従う必要もないと感じている。まして生まれた日などいかほどの強制力もないのだ。

 だがディーノが日付を知れば、無理をしてでも日本に来るし、プレゼントと称して何やかんや押しつけてくるのはわかっていた。余計なものは持ちたくないといっても、納得しないだろう。あれだ。田舎の年寄りみたい。実際には雲雀は並盛の出身で、知る限り地方に親族はいなかったが、何かイメージ的にはそのまんまだ。違うのは0の数が2つ3つといったところだろうか。

「わざわざ来ることないから。プレゼントとかもいらない」

 いってから少し笑った。来日まで拒む必要はなかったかもしれない。この人が勝手に苦労しているのだ。

「いや、来るよ。来るだろ」

「来たいときに来ればいい。誕生日とかどうでも良いよ」

「無茶いうなよな」

「無茶するなっていってる」

「それが無茶だろ。会いたい時に会うってんなら、もう一日だって離れられねぇ。そしたら、恭弥、絶対うざいっていうぜ」

 それはまあ確かに。だが何事も、試してみなければわからない。

「毎日だって会いたい。恭弥が産まれたことを毎日だって祝いてえけど、オレはお前みたいに自由じゃねーから、何かもうひとつ理由が必要なんだ」

 ごめんな、とちっとも謝ってない顔でいうのだ。いつの間にやら隣に来て、雲雀の頭をなでている。

「いうほど自由じゃないよ」

「いや、……恭弥?」

 ディーノは目を見張っている。おかしな人だ。わかっていない筈はない。だからたぶん驚いたとしたら、雲雀が口にしたことそれ自体だ。

 だが雲雀だって、こんな当たり前のことに気づかずにいられるわけもない。如何に並盛の支配者で、風紀委員長で、雲雀恭弥であろうとも、自由ではいられない。雲雀はいつだって厳格に雲雀恭弥であろうとしていて、それはとても自由であることに似ている。それでも、そうあろうとしている時点でそれは自由ではないのだ。雲雀だってものを欲しはする。執着もある。何にも縛られないなんて嘘だ。

 道に迷った子どものような顔をしている人の両頬をつねってやった。思ったより硬いので、ぐにぐに揉んでやる。

「自由じゃないよ。会いたいときに会えない」





 いきなり抱きすくめられて、手のやり場に困った。まるで万歳のような姿勢になる。癪なので、肘で肩の辺りを抉ってやる。

「……ごめんな」

「怒ってないよ」

 すぐに力を緩めてきたので、別にもう痛くはない。顎の下で柔らかく輝いている髪を、ひっぱってみる。

「そうか、やさしいな。恭弥は」

「やさしくないよ」

「やさしい。気づいてないだけなんだろ」

「……ふうん」

 つい、ひっぱる手に力をこめる。

「……って。だからさ、五日。会って」

 今会っているのに、馬鹿な人だ。笑ってしまう。だから、仕方がない。

 会いたいというのなら、会いたいときに会ってくれない人に、会ってやってもいいと思った。

「うん」

「プレゼントも」

「大概図々しいよね、あなたも」

「うん、だから」

「何にするつもりなの」

 ううん、と唸るとディーノは顔を上げ、隙間から自分の首に下げていたネックレスを引き出すと、細長いチャームを掲げて見せた。

「こういうのはどうだ? コルノ。幸運のお守りなんだぜ。……ってぇ。痛いって。水牛の角がモチーフなんだ。お前牡牛座だし。星座石だったら、サファイアだけど」

「そうやって、ひとの失態をつつくんだ……」

「えー、いいじゃん。おそろい」

 ぶう、とふくれる。それくらいでかわいくなると思ったら、大間違いだ。

「で。あなたのお守りは何」

 ディーノは固まって、だが懸案の茶色い唐辛子みたいなものが、そんなご大層なものじゃないのはわかりきっている。つけているのをはじめてみた。単なるアクセサリーとして、ぶらさげているだけなのだろう。

「何の話だ?」

「もっておいで」

「いや、そんなたいしたものじゃなくてだな」

「いいから。みせてごらん」

 そういえば、所持品検査は無理矢理にやらせないほうが、仕事がはかどるようだった。またすっかり硬くなった頬にキスしてやると、何らかの葛藤を乗り越えたようで、しぶしぶと隣室に向かう。と、ドアのあたりで、笑うなよ、と台詞を投げた。笑ってやりたい。

 ベッドルームから、旅路用らしい大きめの、使い込まれた茶のショルダーバッグを運んでくると、内ポケットから手のひらサイズのプラスチックケースを取り出した。

「……これ?」

「これ」

 目の前に出されたそれは、もうすでに見慣れたものだ。実用品をお守りだという感覚は嫌いじゃない。だが実際に命がかかった状況では何の役にも立たないだろう、本当にお守り程度のサイズだ。いつも上着のポケットに入っていて、それでいて手合わせの時に邪魔になってはいないようだった。大体ディーノが、自分のためにそれを使うところなど見たことがない。

 ぽこん、と音をたてて蓋を開ける。ピンセット、消毒液、軟膏、短い包帯に絆創膏。いつもどおりのちゃちな装備だ。ロマーリオが車にでも積んでいるらしい本格的な救急箱を取りにいっている間も待てずに、ディーノは手合わせの後、雲雀の顔や躰に薬を塗りたくる。素人が勝手なことをしてくれるなと、忠言を何度も受けているらしいのに、結局しばらくそわそわした挙句、治療を始めてしまう。せっかちなのだ、と雲雀は思う。ロマーリオが戻ってくるか、薬のほうが底をついてしまうかして、この大層なお守りがディーノ自身に使われたことはない。

 銃で撃たれたり、骨が折れたときに役立つわけもない。大体こんなへなちょこが、治療になんて手を出さないほうがいいに決まっている。それでも、人を傷つけることを悲しむ人は、こんなおもちゃみたいなものを手放せないのだろうと思った。

「恭弥に会うときは必要だろ? だからお守り」

「うん?」

「いつでも、恭弥に会えますように、って」

「……うわぁ」

 下手糞な嘘に笑ってしまった。そうやってもっと嘘をつけばいいと思う。部下よりも、雲雀よりも自分の躰が大切なふりをして、だってついているうちに、嘘も本当になったりするものだ。

「これでいいよ」

「へ」

「誕生日。これがいい。十セットくらい持ってきて」

「……う、恭弥、……あー」

「何?」

「騙されねぇぞ。十回会いたいって意味じゃねーんだろ?」

 この戦闘マニアが。恨めしげに囁くから、首に咬みついてやった。雲雀にしたら褒め言葉だ。笑っている顔は見られないほうがいい。

「会うたび戦ってるわけじゃないだろ、もう。このエロ馬の所為で」

 がっちりと、頭を捕まえたままでいってやる。遠慮のない力で抱きしめられた。身を捩っても、ほとんど緩まない。胸に頭を埋めたまま、くぐもった声でどうやら謝っているらしいのに、同時に笑ってもいる。どうにも痛くて、しかし嫌というわけではなかった。戦いについて思う。

 やっぱり五日は、どうにかして手合わせに持ち込もう。思い切り傷つけて、傷ついて、そして思い切り傷に薬を塗りこんでやる。鞭につけられるのとはまるで違う、あの痛みを、今度はディーノにも与えてやるのだ。













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