男殺油地獄(人形浄瑠璃特別講義)



「与兵衛は夜が明けるまでに借金を返さなくちゃならなかったからね、お吉に現状を訴えたんだけど、金を貸せば夫に疑われることは判りきってたし日頃の行いもあったからうんとはいわなかったんだ。だから油を取り替えてくれといって、後ろから脇差を抜いてこっそり近づいたんだよ」
「おお」
 ごくり、と唾を飲んで頷いたのはマフィアのボスだという男だ。
「刃に灯火の光が当たってお吉は怪しんだけど、与兵衛は脇差を持ち替えてなんでもないという。でもお吉は逃げ出して、それを捕まえる。頤を突いて腹を右から左に裂く。それでもまだお吉は子どもの元に行こうとするので追いかけるんだ」
「うわあ」
 素人でもわかる。女がそこまで切られて、まともに動けるものか。だがベッドの上、フロアランプの仄かな灯りの元、やくざな商売を生業にしているはずの男は目を丸くして話にのめりこんでいて、正直面白い。ああここに、蒟蒻とか濡れたタオルでもあればよかったのに。散々脅かしてやれただろう。
 だがどう考えても、日本芸能の講義には不向きな状況である。先程も申したようにベッドの上、付け加えるならば双方衣服は着用していない。睦言のヴァリエーションの一つとして、日本芸能に関する外国人への啓蒙活動は一般的か否か? だがこんな話になったそもそもの事の起こりはこの男のへなちょこである。それはもう疑いようがない。
 いつものように応接室に現れた男に連れられて雲雀はいつものホテルに行って、そしていつもの、といいきるにはまだ躊躇いが残る行為に及んだ。その後、サイドテーブルの上で開け放しになっていたローションの瓶を片付けようとして、この男は見事にひっくり返した。
 ミスった、という微かな呟きが耳に入ったときには、雲雀の鳩尾から下はびしょびしょになっていた。太腿が合わさった窪みに液溜まりができる。大体いつもミスった、の一言で終わらせて反省がないから、こうした失敗をまた犯すのだ。きちんと見たことはないが、瓶だってそう簡単に中身が全て零れるような構造にはなっていないだろうに、ディーノのへなちょこはいつだって予想の斜め上を行く。実際この程度、まだまだましなほうだ。だがだからといって腹がたたないかといえばそういうわけでもない。濡れた感触が非常に不快であるし、口にすればからかわれるのが判っているから黙ってはいるが、雲雀からすればそういった行為に伴う品の類は出来るだけ視界に入れたくないというのが本音である。やはり一度痛い目にあわせておいたほうがいいようだ。液体を拭き取るか、それとも咬み殺すか。一瞬迷って、だが雲雀は枕元に置いておいた愛用の武器に手を伸ばした。そして、次に我に返ったときは何故か再び躰を繋げていた。この流れは今思い返してみても非常に不可解であると雲雀は思う。
 そして終わってみれば、ほぼ一箇所だったベタベタが体中に塗りこめられていて、腹がたたないはずがない。腹がたたないはずがないのだが、指一本動かすのも今は億劫だった。後でディーノに躰を洗わせてやるとしても、今はそれすら面倒だ。ごろごろしながらなんとなくくだらない話をする。そのうち、外的要因から連想がそこに向かったのは当然の帰結だった。油地獄。オレには天国だった、とディーノはいった。それも面倒だから否定しないでおいてやる。
「お吉が油樽をひっくり返したからね、血と油で二人ともぬるぬる滑る。だから油地獄」
「……うーん。えろっちいな?」
「まあ、そうかもね?」
 大衆芸能であり、多分当時はそういった効果も狙っていたのだろう。如何にも扇情的な内容だ。風紀を乱す内容は腹だたしいが、現代だってテレビや映画をはじめ若者を惑わす内容のものは少なくなく、要は本人の心構えである。
 ディーノは頷いて、海外でも初期の演劇は宗教劇の形態をとってはいたが、如何に民衆の興味やエロチシズムを煽るのが重要だったかだとか何とか。いつの世も人間の本性は変わりなく、だからこそ律することを学ぶべきなのだろう。
「人形浄瑠璃だけじゃなくて、歌舞伎でもやってた演目らしいけど」
「へえ、じゃあ舞台に油を塗ったのか?」
「そんなことしたら木の板だもの大変でしょ? ふのりを流したらしいよ」
「あー……殺人の話だもんな?」
「へ?」
「血糊みたいなもんだろ? 内臓の液体で、腑糊」
 さすがマフィアのボスだけあって発想が物騒である。間違いではあるが雲雀は少し見直した。
「海藻の液だよ」
「海藻?」
「うん、布海苔。昔の人は髪を洗うのに使ったんだ。ほら、ぬるぬるするだろ?」
「ふむ?」
 首をかしげているディーノをみて、雲雀もこれでは判りづらいかと気づいた。そう料理などするわけでもないが、それでも日本人ならば昆布だのなんだの、海藻を水に浸ければどうなるのかは予想がつく。だがこの男はいくら日本語が堪能でも、所詮はイタリア人なのだ。
「あのねつまりは」
「わかった! わかめ酒みてーなもんだろ? さっきの恭弥みた……ぐふ」
 わかったのは馬鹿は死んでも直らないということだ。それと実際必要になれば気力はどこからでもわいてくる。渾身の力で突いてやるとディーノは二つに折れて呻いた。
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