ぬばたまの夜渡る月に


「もっと」
 ふと意識が覚醒して、だがいまにもまた眠りの世界に戻ろうとしている。そんな中で考えもなく、ただ言葉が口をついた。だが、ずっと髪を梳いていた無駄に大きな手の動きが止まって、雲雀はむっとした。この程度の要求、叶えられないなんて躾の悪い馬だ。
「ねえ………もっと」
「あ。ああ。うん、髪な!」
「うん」
 他に何があるのだ。ちょっと頭を撫でるのがうまいからって、自惚れてるのではなかろうか。いや、そのうまいかどうかだって、雲雀は他の人間に触らせたりするわけではないので、比較したわけではないのだ。
「………」
 ならばと雲雀は手を伸ばした。自分で触るのも、正直にいえば嫌いではない。
「って! ひっぱんなって、恭弥!」
「………わっがまま」
「えー………そうくるかー」
 あたりまえである。触らせてやったんだから触らせなければいけない。
「知らない。もう触らないで」
「おお? マジで?」
「マジで」
「なんだよ恭弥も撫でてほしいくせにー………ってわかったごめんなさい。いーじゃん、オレはどうしてもこう、触りたくなっちまうんだよ」
「ふむ」
 まあその気持ちはわからないでもない。
「恭弥の髪は綺麗だからなー」
「なにそれ」
 だがベッドライトの明かり一つでも、きらきらしているのがわかるような人に褒められても微妙な気持ちになるだけだ。べつにあんな風に無駄に派手になりたいわけではないけれども、反応に困る。
「なんかこう、すごい黒くてさ」
「そうだろうけど」
 日本人であり、不良ではないのだから髪は黒くて当たり前である。だいたいいつも彼のそばにいる髭の部下だって十分黒い髪ではないか。いや年が年であるから、近くによれば白い部分が見つかったりするのかもしれないけれども。
「なんつーんだろうなこういうの。綺麗で吸いこまれそうだ。カラスみたいな黒?」
「縁起が悪いね」
 いいたいことはわからないでもないが、実際あんな黒光りする髪だったら二三日洗っていない疑いを持たれそうな気がする。
「じゃああれだ、オニキスみたい」
「なにそれ」
 まあどうしたって、黒なんて万国共通で縁起の悪い色なのだろう。鴉とか悪魔とか鬼とか。日本だと鬼は割とカラフルなイメージだけれども、イタリアでは違うのだろう。この世ならざる存在なのだからそれも当然だ。あまりいい気分ではないけれど。
「ん? そかしらねーか。日本だと、黒はどんなふうに表現するんだ?」
「………………ぬばたまの?」
「あ、やっぱ宝石なんだな。玉だもんな。まがたまみたいなのか」
「勾玉は宝石とは限らない気がするけど。実だよ。黒い実」
 いいながらもそれがどんな形の実なのかも知らない。気が向いたときだけ出席している授業の中の知識として知っているだけだ。イタリア人じゃなくとも、こんな普段使わない言葉、呪文みたいな響きしか持たない。黒だとか夜だとか髪だとか、とりあえず黒いものにつく枕詞。ぬばたまの。
「へー………」
 ぼんやりと、窓ガラスの向こうの空を眺める。こんな枕詞が使われていた頃の人々ならば、きっと「ぬばたまの」とは表現しなかったであろう空だ。カラフルなネオン。派手々々しい夜景。
 だがその上にぽっかり浮かぶ月は、そのころと変わらないままの筈。思い出したのは枕詞とセットで習った和歌で、いや思い出したはいいすぎだ。こちらの呪文はうろ覚えもいいところ。それでもなんとなく頭の中で唱えた。ぬばたまの夜渡る月に。
「恭弥は月みたいだよな」
 聞こえたのかと思った。
 だがマフィアのボスは真面目な顔をしていて、どうやら冗談ではないらしい。太陽みたいな人が口にするには、冗談みたいに恥ずかしい台詞だ。
「月は黒くないよ」
「なんかそういうイメージってことだろ。夜とか、月とか、そんな。ずっと夜だったらいいのになー」
 きゅう、と抱きしめてくるから笑ってみせてやる。ぬばたまの夜渡る月にあらませば。
「僕は体が持たないね」
「いやー流石にそうなったら多少は節制できますよー、うん」
「帰るの」
「………きょうやー」
「あした、帰るの?」
「ああ。ちょっと仕事が入っちまった。………いいこにしてろよ。すぐ戻ってくるからな」
「僕はいつもいいこだよ」
 ぬばたまの夜渡る月にあらませば。はるか昔の時代の人間も、そして今を生きる自分も考えることは大して変わらないのかもしれない。もし自分が月だったなら! いや違う。雲雀恭弥は雲雀恭弥で、この並盛にいるのは自分の意志だ。そこは譲れない。だが考えないでいられるというわけではないのだ。
「オレが月だったら毎晩恭弥に会いに行けるんだけどなあ」
「………」
 ぽつんとそんなことをいうきらきらした人の髪をぐちゃぐちゃにしてやる。そういえばしばらくこの髪も触れないのだ。今晩の内に触り倒しておかねばならない。
「………あーもーかわいいなちくしょー」
 こっちの台詞である。だが大きな手が、自分の髪を梳いてきたので、雲雀は黙って目を細めた。ああ、ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを!




















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