「おかえり」
 チャーター機をすっとばして訪れた日本、駆けつけた並盛中学でかわいいかわいいかわいい弟子にそんなことをいった。大事なことなので三回いう………までもなく、葉が落ちる音でも目を覚ますという触れ込みの人は僅かに身じろぎをする。
「あなた………………ふ、ぁ」
 ぼんやりとした瞳が焦点を取り戻す。途端にきらきらと黒く輝きだすから不思議だ。どんな魔法だろう。
「よくがんばったな」
「あれ、僕まだ」
「ちげーだろ。十年後の記憶がオレにも与えられたんだよ」
「………ふうん」
 興味がそそられたらしく、小さな手がオレの顔や髪をぺたぺたと触った。他意のない様子に、思わず苦笑する。どうしたってオレは、こんな風に教え子に触れることはできない。思えば初めからそうだった。ただの生意気な中学生、いうことを聞かない弟子だと思っていた頃から、オレは戦うたび、おぶってやったり怪我の治療をしてやったりするたびに、その酷く細っこい身体や柔らかい肌にとんでもなく動揺させられていた。自分だって同じくらいの年の頃の記憶はそう薄れたものでもないのに、触れただけでも壊れてしまいそうな、全く別の生き物のようにも感じられたものだ。実際生き物としての性能が違うそうなので、あながち間違ってはいないのだろうけれども。
 そして、この情けないほど理性的ではいられない我が平常心は、十年後も何ら変わりがないらしい。我が家庭教師たちの力によってオレは十年後の記憶を得た。実際に十年後に行った恭弥ですら知らないこともオレは知っている。例えばいい兄貴分、統括の家庭教師だとかなんだとかほざいていたいい歳した男の内心だとか。
「ねぇ、………あなた」
「ん?」
「あなた」
 困ったように瞳をしばたかせる、その動作にやられた。だってそんなもの、自由極まりない雲雀恭弥との交流の中で、見たことも聞いたこともないものだ。
「あなた………………ムカついてる?」
「………………………あ、ああ。そうだな」
 ほんの数日前、いやほんの十年前といった方が正しいのかもしれないのだが、前というか最近、何とかオレをムカつかせようとしていた人とは思えないような頼りなさげな表情を恭弥は浮かべていた。だがそれに気づく前に、決定的な肯定の一言は深く考えもせず唇に乗せられていて、最早取り返しはつかないのだった。だがそうだ。そうだ。口にしてから気づいた。オレはムカついていたのだった。
 十年後のオレ自身に。
 何とも馬鹿馬鹿しい話だというのは、自分でもわかっている。しかも相手は恭弥を見るたびに自分の恋人を………まあつまりは十年後の恭弥らしいのだが、思い出してしまうという体たらくで、やらかしたことといえば挨拶というには欧米人の感覚からすると少しばかり逸脱したキス………それだけで、いやまあそれだけでも十分万死に値するとは思うのだが何分自分のことである。恋人も………間接的に得た記憶というか知識によるとむしろ勝ち鬨を挙げて止めを刺しそうな人ではあるが、悲しまないとは限らないので、まあ今回は見逃してやっても、いい。すごく気に食わないけれども。
 だから多分、オレが何にムカついているのかといえば、その不埒な男が恭弥を鍛えたという、その一点なのだった。あの状況下で他に選択肢がなかったのはわかっている。むしろ未来のオレはよくやってくれた。他の瑣末な………統括の家庭教師として留意すべき事柄など一顧だにせず恭弥を鍛えてくれたのだ。だがオレはそんなことはわかっていて、それでもただムカついていた。
 理性的な理由なぞありはしない。ただオレ以外の誰かが恭弥を鍛えた、それが許せなかったのだ。
「………………………………………………ごめん」
「へ!? っていやなんでおまえ」
「あなたを、十年後のあなたを………………守れなかった」
「いや! そこは気にすることないだろ、自業自得だし! てかおまえは守ってくれたじゃねぇか!!」
 誰よりも優しいのだと、そんなわかりきったことを得意げに呟いた自分の声音までオレは覚えている。いうまでもねぇよ、と突っ込みたいところだ。恭弥はやさしい。そんな人を不甲斐ない自分のせいで傷つけてしまった自分を殴ってやりたい。だがまさか慈愛に溢れる行動とはいえ怪我人を思い切り蹴り飛ばす人がそんな殊勝なことをいいだすとは、流石に十年後の自分もオレも思いつきもしなかったというか。
「………ムカつきなよ」
「………………へ?」
「なんでムカつかないの。ありえない」
「や………それでなんで………」
 ムカつくというのか。この優しい子どもが精一杯やってくれたのはわかっている。だがそれ以前にそんなことは期待していない。未来の自分が望んでいたのは、なんとかしてこの子どもが生き延びて元の時空に戻ること、そして我が恋人があんな窮屈な場所から解放されて思うがまま、雲雀恭弥として生きること。その場所があの球状の機械そのものを指していたのか、それ以外の物を指していたのかは、今のオレには窺いしれない。
「だって、あなたあんな奴に」
 いわれてやっと、得た筈の記憶が蘇った。蜥蜴だか蛇だかの三下。オレの攻略法が知れていたのは不覚だが、だからといって負けていい理由にはならない。全てはオレの、十年後のオレの弱さが招いたことなのだ。
「だから………気にするなって」
「………じゃあなんで」
 がばっと、顔を挙げた恭弥の表情は、もうすっかりいつものものだった。かわいい………いやそうじゃない。たしかにかわいいのだが、先ほどまで確かにあった、しおらしさとか反省の表情がさっぱりきっぱり拭われて、そこにあるのはただきらきらきらきらした瞳、戦いを前にして喜びに輝いている顔だ。いや確かにかわいいのだけれども。
「ムカつかないの。戦いなよ」
 オレは思わず見とれて、そこで気づいた。恭弥は戦いたいという。あんな三下に手傷を負ったオレ、の十年前のオレに。オレは恭弥の先生だから。
「ムカついてるよ。オレはオレが不甲斐ねぇ。あんなやつに負けるなんてな」
「そんなの」
「恭弥」
「僕の方がだ」
「え?」
「十年前の僕に戦いを任せるとか、僕じゃないみたいだ。………腑抜けてるよ」
「いやそれはおまえ」
 彼には彼なりの理由があったのだと、フォローしそうになって苦笑する。十年後へ行った恭弥自身よりもこちらで何も知らずやきもきしていただけのオレの方が、十年後の彼のことを知っているとはおかしなものだ。
「あの人、あんなに心配していたのに」
「………おまえなぁ」
 そりゃ目の前にいた人間のことの方が、よくわかる、というのは仕方がない。大体そりゃもう十年後のオレはわかりやすくへこみまくってたから。だけど、だけども。………………ムカつく。
 あ、と気づいた時にはもう、オレは大声をあげてかわいいかわいい恋人のことを怒鳴りつけていた。
「オレだってすっげーすっげーすっげー心配してたっての!! なんだよさっきからあんな情けない奴のことなんかどうでもいいだろ! あーもームカつく!! おまえはオレとだけ戦ってればいいんだよ!」
「そんなのこっちの台詞だよ馬鹿! なんであなたさっさとあっちに来ないの?! 会えたと思えばあんな情けない男のことばっかり信じらんない! ほんとにムカつく!! あなたは僕のことだけ見てればいいんだよ!」
 いやおまえ無茶いうなとか、それはオレであってオレじゃないしとか突っ込む前に、そして最後の衝撃的な台詞が脳に到達する前に、恭弥はトンファーを構えて突っ込んできた。慌てて鞭を構えて応戦する。かなり頭に血が上っているらしく、恭弥は頭から直線的に向かってきて、オレはその攻撃を何度か弾いて勢いを殺すとそのまま鞭で絡め取った。
 正直あっけなく勝負はついて、だが意外といえば意外。彼は向こうであの情けない奴とずっと修行をして六弔花も倒して………そこまで考えて気づいた。オレは、この子どもの攻撃パターンなぞ十分に承知しているのだ。十年後の情けないこと極まりないオレがそんな理由で負けたことを知った時は何とも納得がいかない気分になったけれども、こう考えるとまあそれはそれで順当な結果であると思えなくもない。
「きょ………恭弥?」
 だが相手はそんな結論に達する筈なぞない、戦闘狂の恋人だ。これはもう怒ってらっしゃるだろうと、恐る恐る顔を覗き込む。だが恭弥はそれなりに圧迫感のあるであろう鞭のことなど一顧だにもせず、ただぼんやりとした表情を浮かべていた。
「ねぇ」
「ん? どうした、痛かったか?」
「あなた、ムカついてる?」
「………ああ、さっきからいってんだろ。ムカついてる」
 そういえばこの弟子は、未来に行く直前までなんとかオレをムカつかせようと頑張っていたのだった。苦笑して俯いた頭を撫でてやる。仕方がない、頑張ったご褒美だ。今日一日彼の望む通り思い切り戦ってやろう。
 そう思って鞭を解いてやって、だが身動きすらしない。思わず顔を覗き込もうとするとそっぽを向いた。
「なんで?」
「いやおまえ、そういうこときくか?」
「なんで?」
「だからほら………おまえをオレ以外の奴が鍛えたからだろ」
 あらためて口にするとたいそう恥かしい。オレ以外って、一応十年後の情けない奴ではあるもののオレ自身なのだ。懐が狭いことこの上ない。
 だがやっと視線を合わせてくれたかわいい人は、好戦的に瞳を煌めかせるでも呆れたような顔をするでもなく、ただくすぐったそうに唇を緩めた。
「うん」
「いやうんておまえ」
「僕もだよ」
「恭弥?」
「僕もムカついてた」
 ぽそりとつぶやく人は耳まで真っ赤だった。
 かわいい。ああかわいいったらない。なんてことだろう。お互いを一番ムカつかせるのも一番幸せにするのもお互い自身なんて。ああ世界中にいってやる。こんな理想的な師弟なぞ他にいるものか。だからこんなかわいい子を鍛えてやれるのはオレ以外にいないのである。

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