「今日は僕があなたに夕食を御馳走するよ」
 翌日も朝からみっちり修業して、空が暮れなずんできた頃にかわいいかわいいかわいい弟子がそんなことをいう。
「へ? え? や、えええ?」
「だから僕が夕食を御馳走するよ」
 驚きのあまり………大事なことなので三回奇声を上げたオレに、恭弥はもう一度同じことを繰り返してくれた。ほんとに成長した………いや、えええ? 暗くなりきる前に戦いをやめて食事の話などをしだすだけでも異常事態だというのに、御馳走? GOCHISOU? オレが知らないだけで何か徒競走の一種でもうひと勝負とかいいだしてるんじゃなかろうな。
「なに、いやなの」
「そんなわけねーだろ恋人の手料理!」
「じゃないよ」
「あ、そうなのか」
 ちょっと落ち着いた。
「イタリア料理なんて作れるわけないだろ。やったことない」
「ああうん、いや、それでも嬉しいぜ」
 別にイタリアンでなくとも、おにぎりでも目玉焼きでもなんなら冷や奴でもいいから手料理を食したい、という願望は滾るほどあるのだけれども、恭弥がオレのことを考えてメニューを考えてくれた、それだけでうれしい。
 別に恋人に奢ってほしいとかそんなことを考えていたわけではない。幸い自分は金銭的に余裕があるし、しかも相手は中学生で、例え年収百万ユーロかそこらの倹しい生活を送っていたとしても、恋人に財布を開かせようなんて夢にも思いはしなかったろう。だが、中学生とはいえ並盛は僕のもの風紀委員の予算も僕のものといってはばからない委員長様が食事代を一度持ったくらいで困らないことはわかりきっていたし、きっとオレのことを考えてたまには御馳走してあげたいとか、そんなことを考えてくれたに違いないのだ。どうしよう今なら空も飛べそうだ。
「どこらへん? 駅前か?」
「うん」
 オレの手を引いて、恭弥が歩きだす。なんだか少し得意げに見えて、オレは少し反省した。食事に行く時はそれなりに下調べをして恭弥の好きそうなハンバーグや和食の店を選ぶようにしてきたつもりだけれど、先回りしてセッティングするより、恭弥の好きな並盛の店を聞いてやった方がよかったのかもしれない。
 辿りついた先は、小さな洋食屋だった。
 正直に言おう。浮かれ切っていたにもかかわらず、店の前に着いた時にはすでに、何か嫌な予感がした。あまりこう、魅力的とはいいがたい店構えだったのだ。壁に貼られた薄汚れたメニュー、マフィアのボスですら同情を禁じ得ないほど傷だらけのナイフ&フォークがニス以外の何かで光沢を得た楕円形の籠に収められている。妙に靴底に吸いつくような………吸収性のあるゴム床、赤白チェックの年代を感じさせるオイルクロス。オレと恭弥の他に客はいない。いや確かにオレも、恭弥の群れを嫌う性格を慮って、個室を頼んだり、小さな店なら貸し切ってしまうこともある。だが他に客がいない、この動かしようがない事実がここまで人の不安感を掻き立てるものだったとは。オレは心の底から反省をした。
「お待たせしました」
 整髪料なのかそれとも自己生産ななにかなのか由来はわからないそれで髪を纏めている男が、皿を運んできた。既に必要は明らかにないと思うが予約でもして、料理を頼んでいたのだろうか。特に注文はしていないのに運ばれてきたそれに向きあって、そしてオレは固まった。
 正直にいってオレはあまり好き嫌いがない。国の自邸で雇っているシェフが有能だったので幼いころから恵まれていたせいもあるだろうし、自己努力にもよる。マフィアのボスともなれば会食の機会は数え切れないほどあって、いちいち要望を通すのにも気を遣うし、正直面倒だ。しかも流石一流の店となれば、嫌いなつもりの食材も一度食べてみたらば予想以上においしかったりするのである。そんなわけで仕事に伴って世界中を飛び回る日常の中、用意される食事に文句をいった記憶はほとんどない。母国のメニューに執着するよりもその土地のものを食べたほうが驚きや感動を得ることができる。しかしそうはいっても長期の滞在が続くと、食べなれた味が懐かしくなるもので、日本のみならず取引のあるいくつかの国の、かなりの改正が試みられたイタリア料理、であるといいはっている何ものかを食した経験もしばしば。その中には正直シェフを殴り飛ばしてやりたい、と冗談でなく熱望するような原形をとどめていないにも程がある品物もあったわけだ。だがここまで。ここまで懇切丁寧にイタリア料理のみならずパスタとしての原形をとどめなくなるまでゆでられたスパゲッティーニに相対したことがあるだろうかいやない。
「食べないの?」
「いや! 食う! 食うぜ!!」
「そう。早く食べないとのびるよ」
 いやもう十分のびてるだろ。だが恋人の期待に満ちた瞳にあらがえるはずもなく、意を決してオレはその、スパゲッティ アラ ボロネーゼらしきものを飲み込んだ。まずい。ああ予想以上にまずい。正直ディナーで、食前酒もアンティパストもすっとばしてパスタが出てくるなんて、拍子抜けもいいところなのだけれども、今はその事実に感謝せざるを得ない。一品以上付き合う自信なんて、まったくもってさっぱりない。
「おいしい?」
「………おいしい? って?」
 意味がわからない。それなりに食事を共にした経験の中で、この子どもが味音痴であるという兆候を見出したことはなかった。多少ハンバーグや寿司ネタの一部を偏愛する傾向はあるけれども、むしろこの年頃にすれば感心するほど好き嫌いがなくこちらが用意した食事を口に運んでいた。だがそれ以前の、味覚を判断する能力すら欠如していたとすれば? それとも日本という風土自体が、ぐずぐずに湯がかれた麺類に寛容な理解を持っていたとしたらどうしよう。何度か食べた蕎麦も、そして四国が特に盛んだときいた饂飩もなかなかおいしく、少なくともアルデンテという言葉の意味くらいは理解しているように思えていたのだけれども。
「恭弥は………食わねぇの?」
「なんで」
「いやなんでって、なあ?」
 恭弥の前に運ばれた皿の中身は、さっぱり目減りした様子がない。いや、フォークで掻き混ぜられた様子すらない。体調が悪いのだろうか。今すぐ医者に連れて行きたい。いや、別に食事を放棄してこの場から逃げ出したい、ってわけではない、多分。
「草壁がさっきなんかおにぎり渡してきたから。おなかすいてない」
「へぇ………」
 完璧な主従関係に嫉妬した………以前に怒りがこみ上げた。いや、多分断ったと思うよ、思うけど、梅でもおかかでも、なんなら塩むすびでもいいから取り合えず渡してくれてもよかったじゃねぇか。だが例え腹が満足していたとしても、目の前にある皿を消化しなければならないという現実は変わりなく、そういった意味では正しかったのかもしれない。空腹は多分最大の調味料………その程度で誤魔化されてくれる相手ではないのが問題だ。
「はやく食べなよ」
「あ、………うん、そうだな。でもそのさ、わりいんだけどオレもあんまり腹へってねぇっていうかいや! 気持ちは嬉しいんだぜ恭弥! うん、もう一口食っちゃおっかなーなー」
「そうだよ食べなよ」
「うんそうだな………食べちゃおっかな………」
「イタリア料理はカロリーが高いからね。おなかがあまりすいてないなら、あとで体を動かすといいよ」
「………」
 ここで閨房へのめくるめくお誘いなのだとか、そんな甘いことを考えられるほどおめでたければよかったのに。だが恭弥はわかりやすいほど瞳をきらっきらさせていて、誤解のしようもない。ときどきメーターが振り切れちゃった、みたいな対応を示すこともあるけれども、基本的には色っぽい展開に持っていこうとするたびにひどく落ちつかなげな表情を見せてくれるのだ。
「………おっまえ、なあ………」
「なに? ほらもう一口食べなよ」
「いやもう、わかったから」
「まずい? ムカついた?」
「………」
 わくわくと恭弥は顔を近づけてきて、ああなんでこいつはこんなにかわいいのだろう。ムカつくかムカつかないかといわれれば確かにムカついていて、だがそれは料理がまずいからではない。しかしそれと同時に、この子どもが殴るだとか蹴るだとかいっそ武器を振りかざすなどといった方法でなしに、自分の要望を通そうとしている、それが嬉しかった。多分ほとんどのことを自分の力を示すことで解決してきた人がオレの内心を酌もうとしてきてくれている。どうして喜ばずにいられよう?
「戦わねぇぞ?」
「………………なんで?」
 なにその鳩が豆鉄砲食らったような顔。だが一瞬のちには恭弥はさもムカついた、という表情を浮かべてオレはなぜだか安心する。悲しませるよりは怒らせるほうがまだましだ。少なくともこの子ども相手にはそんな気がする。
「だーめ。人は晩飯食ったら風呂入って着替えて寝るもんなの。決まってんのそこは」
「なにそれ。知らないよ」
「うん、今日おぼえたな。忘れんなよ」
「………殴るよ」
「った! いやおまえだってあれだろ、横っ腹痛くなるぞ。今日は終わり!」
「そんな軟弱なことにはならないよ」
 いくら内臓筋を鍛えるといっても限界はあって、運動をして食事をした後の内臓が動けばどうしたって痛みが………ってどう見てもまだ食べてないな、恭弥。
「なります。いいから今日はもう終わり、な?」
「あんまりまずくなかった?」
 そんなわけあるか。だがわが勉強熱心な生徒は興味深げに皿の上の何かをフォークの先でつついて、あ、と声をあげたときにはそれはくるりと一巻き、小さな口の中に押し込まれていた。
「なにこれ………」
「あー………多分その、パスタじゃねぇぞ?」
 一イタリア国民としてここは主張しておきたいところだ。たとえ我が弟子がどのように店側に注文にしたにしろ、この料理はパスタではない。それに限りなく似ていない別の何かである。
「………これを食べて戦わないとか………馬鹿にしてるの」
 そうきたか。
「大丈夫だ。オレは意外とねちっこい男だからな。明日みっちり戦ってやる」
「ムカついた?」
「おう。びっくりするぐらいまずかったぜ。な、今日はもう寿司でも食いに行かねぇ? ロマがなんか新しい店見つけたっていっててさ」
「………うん」
「じゃ、行こうぜ。な、明日はいつもより早く迎えに行けると思うから」
「当然だよ」
 途端に上機嫌になった子どもに苦笑する。まったくこの子どもはかわいいったらない。こんな子を強くするためとはいえしょっちゅう怒らせねばならないオレの苦労にも気づいてほしい………まあいったん手合わせとなれば本気を出しても出さなくても逆鱗に触れることになるので結構簡単なのだが。

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