「あなたはどういうことにムカつくの?」
 炎を安定して出させるための修行の合間、僅かな休憩時間の折かわいいかわいいかわいい弟子がそんなことをいう。大事なことなので三回いった………のはこのかわいらしい質問ではなく、我が心中の形容詞である。打てば響く対応を実践している部下に恵まれているせいか、恭弥は同じことをもう一度聞く、だとかそんな無駄を好まない。
「あなたはそもそもムカつくことがあるの?」
「へ? ………え、ああそりゃ」
 だがそんなことを考えてる瞬間にも、恭弥は重ねて同じような質問をしてきてオレは心底動揺した。この年頃の子どもの成長には目を見張るものがある。その成長に自分は僅かでも寄与していると、そう自惚れてもいいはずだ。
 だがムカつくことがあるか、とは。なんということだろう。
 部下たちはよくやってくれているけれど、それなりの規模の事業を動かしていればトラブルや突発事項など日常茶飯事で、それでも常に平静を保っていられるほどオレは肝が据わっているわけじゃない。しかもあまりいいたくはないが、敵対会社だけではなく共同で事業を行っているような友好関係にある企業ですら、ほぼ半数はマフィアがらみというのが実情だ。跳梁跋扈とはまさにこのこと。こちらが若年だというだけで舐めてかかる輩も多くしょっちゅう腹立たしい対応が………とられるのはむしろ堅気の企業のほうが多いかもしれない、と今気づいた。ああそういえばこのまえのあれも、いやこれも。世も末だ。
「ねえ」
「えー、ああ、そりゃあ、な?」
 せっかちな我が弟子がこちらを向いて焦れたような声を出した。水の入ったペットボトルは半分以上空になっているが、もう少し休んだ方がいいだろう。
「そりゃこうやって生きてりゃ、ムカつくことだってあるぜ」
「そう?」
「えー? なんだよおまえはないとか」
「そんなわけないだろ。でもあなたはいつも怒らないし」
 おまえの中でオレはどれだけ聖人として認識されているのかと。
 だがこの子どもを前にしたとき、オレは信じられないほどの平静さを手に入れている。人の話は聞かねぇし、じゃじゃ馬だし、戦闘マニアだし。だが先の指輪に絡んだ戦いのときも、そして今、ボンゴレの守護者が相次いで姿を消している現状でもオレの中には多少の焦りはあっても苛立ちはない。信頼、とでもいえばいいのだろうか。もしムカつくとするならばそれは自分自身の不甲斐なさだけだ。
「それこそそんなわけねーだろ? オレだってプンスカすることなんてしょっちゅうだぜ?」
「うそ」
 冗談めかして答えると真っ向から、信じられない、という顔をされた。なんとまあ。でもこの子どものそばにいるとき、オレは聖者なわけじゃない。少なくともせめてもうちょっと心根の正しい奴なら、男は、いやおまえの家庭教師は狼なんだぜ、と正直に教えてやったろう。だが一応お付き合い、ということになって月日が経過して、こちらとしてももう、いわずともそれなりにぼろは見えて鍍金は剥がれている、という自己認識だったのですが恭弥。
 だが無理はないのかもしれない。なんといっても雲雀恭弥だし。それに、彼と相対するとき、オレはマフィアのボスとしては奇跡的なほど怒りと無縁でいられる。初めて出会ったときは、流石にさっぱりいうことを聞かない弟子に焦ったりもしたけれども、それでも腹立たしく感じることはなく、寧ろどうやって手懐けようかと気分がひどく高揚しているのを感じていた。そして、しばらく接するうちに彼の自由で一本気で正直な在り方を知って、ああどうしてそれに感嘆こそすれ、怒ることなぞ出来ようか。そして今度は「あなたはムカつくことがあるの」ときた。彼の目にマフィアのボスはどのように映っているのか。これでは、彼がこのままでいられるように、オレのすべてをかけて守ってやろうと、そう自分に誓ってしまうに決まっている。
「ほんと、だぜ?」
「じゃあ、いつ」
「え?」
「いつぷ………怒るのさ」
 流石に擬音を表現することのなかった小さな口が僅かに尖って、まったくそれにむしゃぶりつくことなく返答に迷っている自分には我ながら驚きを隠せなかった。ああこの子どもときたら! だが、何と答えよう。取引先に契約直前で鞍替えされたとき? 北部のファミリーに執拗に襲撃を仕掛けられたとき? それともこれはそう珍しくもないわけだがどこぞのパーティだのレセプションだのの場で育ちの悪い犯罪者がどうのこうのと露骨に陰口をたたかれたときだろうか。こんなこと、教えたくないに決まっている。
「そうだなあ………えーと…ゆですぎたパスタ、とか?」
「なにそれ」
「あーいやほら、まずいし。ムカつくかなあ」
「まんじゅう怖い?」
「なんだそれ」
「………あ、違うんだ」
 なにやら恭弥は一人納得したらしくうんうんと頷いている。正直まさか通るとは思っていなかったのだが。こんな素直な子どもに腹立たしい社会の現実など知らせたいわけがない。いずれ嫌でも気づく時が来るのだから。
「よーし、修行再開だ。今度はもうちょい炎を安定させような、恭弥」
「それくらい簡単だよ」
「おー? そうかなあ? 結構難しいぜー」
 ちょっと挑発してやっただけでわかりやすく眉間に皺を寄せる様子に苦笑する。いつだって笑顔でいてもらいたい相手を、いや笑顔なんて数えるほどしか見たことはないけれどもそういう相手を強くさせるためとはいえわざと怒らせなければならないなんて、切ない話だ。だからせめて怒るならこんな他愛もないことであってほしいと思うなんて、自分でも甘いとわかっているけれど。

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