「恭弥―。そろそろめしだぞ」
「ああうん。どうしたのわざわざ」
 自己流で学習しようと試みたのか、彼の本棚で見つけた、四分の一ほどまで間違いだらけながらルビを振ってある日本語の文庫本から顔を上げた。取り敢えず、ディーノの喋り方が時々微妙に古臭い理由はわかった気がする。高度成長期の若者の群像劇。咬み殺したくなる内容だった。
 彼の昼間の居場所である執務室の方が、食堂に近い。いくらプライヴェートが何たるかも理解していない人の自室といえども、多少はこの城の奥まった位置にあり、人の出入りも少ない。小規模な迷路のような屋敷の見取り図を全く把握していなかった初日あたりはともかく、それ以後は内線を掛けてくるくらいで、わざわざ食事だと知らせに部屋にまで戻るなんてことはしてなかったはずだ。
「ん? 着替えにきたんだよこのやろー」
「なに今頃気づいたの」
 髪をぐちゃぐちゃにされてむっとする。が、はじめてみたディーノの背中の完成品は、チェリーのシロップがカピカピに乾いてかなりいい感じだ。四本の指が八の字を描いた、赤黒い軌跡がよく見える。
「さっきはじめて気づいた。つか突っ込まれた。おっまえ悪戯してんなよもう」
「意外と鈍いよね」
 グレーのタンクトップを脱ぐと、ディーノはクローゼットを漁りだした。肌には何の痕も残ってなく、そのつもりもなく塗ったくってやっただけなのだから当然なのだが、すこしつまらなかった。引っかいてやればよかった。
「まあなあ。ロマーリオにも怒られちまった」
「そうかもね」
 ちょっと警戒心が足りないかもしれない。この人の無駄に大きな背中なんて、誰だって落書きしてやりたくなるに決まってる。
「恭弥はまだガキなんだから、昼間っから苛めてやってんなよ、ってさ。自業自得だって。オレも反省してる」
「何それ。僕苛められてたの?」
「無理しなくていいんだぜ」
 してない。というかそんな面白いことをされていたなら、ぜひとも仕返しをしてやらなければならない。咬み殺して、それから背中に花柄を描くとか。楽しそうだ。
 だがこれっぽっちも心当たりはなく当惑してしまう。縞柄くらいにしておいてやった方が、いいかも。
「やっぱ子どもの食い物取るってのはさ、なかったよなー」
「なんだそんなこと」
 つまらない。流石にこれでは咬み殺す気にもなれない。
「怒ってねーの」
「べつに」
「そっか。やさしいな、恭弥は」
「……馬鹿じゃないの。僕がやらなきゃあなたぼろぼろ零してただろ」
「えー? ひでーな。そりゃタルトってちょっとはじけやすいけど。あ、待てよ」
 へらへらしているちっともわかっていない父親は放っておいて部屋を出る。世の父親というものは皆こんな風にうざったくて空気を読めないものなのだろうか。まさか。あれが特別だ。
「お、恭弥。これから飯か?」
 振り向くと例の御節介なディーノの部下がいた。これは思い切り咬み殺せということだろうか。渡りに船だ。
「大丈夫か? ボスが無茶いったらオレにいえよ。ああ見えてもな、根は優しい人なんだから」
 だが笑顔を浮かべた男は、ちっともわかっていないようだった。いや、腐ってもマフィアのナンバーツーだ。意図的なものかもしれない。
 
大体そんなことは知ってる。優しい人だ、うんざりするほど。だから、ロマーリオとしては親切のつもりなのかもしれないが、こっちは苛立たしさしか感じなかった。トンファーを構え、だが振り下ろす寸前、ひゅっと、空気を切る音がする。
「恭弥待てって。あ、ロマ。悪いなこいつ照れ屋だから」
 正しい対応をとってやろうとしたのに、直前でディーノに止められる。既に予想していた感触。鞭の柄が首元に当てられて反抗するのは困難だ。非常に腹立たしい。
「あー……その。恭弥」
 そしてロマーリオは、ボスに全幅の信頼を向けているらしい。雲雀の行動にも微動だにせず、拘束されたのを見てから重々しく口を開いた。
「うん?」
「オレらは、いつだっておまえの味方だからな」
「…………ありがと」
「いやロマ!この状況でそれはねーだろ!」
「ボス。ちっとは反省しろ。相手は子どもなんだぞ」
「う……いやでも恭弥は怒ってないって」
「…………ボス」
 沈痛な、いかにも遺憾であります、という声だ。ふわふわの金髪が途端にしゅんとした。しゅん。何の冗談だ。
「恭弥。ボスもな、多分いきなり暇してるから碌なことしねーんだよ。な?」
「いやおまえ」
「明日はどこか連れてって貰ったらどうだ。こっち来てからは観光してないだろ。ローマでもミラノでもヘリを飛ばせばすぐ」
 観光案内には興味はない。だがその前に、何か重要なことをいわなかったか。なにか。
「…………暇?」
「いや、あの、そのな、きょうや」
 ディーノは慌てたように大仰に手を振る。無駄だ。
「何考えてるの。暇なら僕と遊んでなよ」
「いやもちろんそうだぜ? だけど仕事もな、全く確認しねーわけにはいかねーっていうか」
「ちゃんと滞りなく進んでるだろ? 大体どこのファミリーも今は休みの時期だ。もうちょい安心して俺らに任せてくれよ」
「ロマーリオ!!」
 是非もなく手綱を引っ張られた馬のような悲痛な叫びである。だが部下は頓着することなく、というのも常々上司にいってやりたいことかいってやっても聞かないことだったりするのだろう。滔々と並べ立てる。
「あんたもな、もうちょい楽することを覚える時期だろう。あんたの荷物はあんただけが背負うべきものじゃねぇんだよ、ボス」
「いやその気持ちはありがてぇんだけどな、もうちょい空気を読んでほしいっていうか」
 あなたがいうか、と雲雀は思った。常日頃の自分に対する周囲の評価に関しては全く無頓着な雲雀である。
「有難い話だよね」
「きょうや…………おまえもだぞ?」
「知らないよ。あなたはいつだって僕と遊んでいればいいんだよ」
 仕事がどうとか、ひいてしまったのがまずいけない。いつもだったら雲雀だってそんなことはしない。戦いたいときに戦うのだ。基本だ。
 だが親子となり、しかも自分はイタリアにいる。この男が来日する短い時間を惜しんで戦いを挑んでいた時期とは違うのだ。休みが終われば日本に帰るが、それでもこれからはいつだって戦える。そう考えたのが甘かったのだろう。
「遊んでやってるだろ? 午前中はみっちり鍛えてやったじゃねぇか。飯のあとは一緒に寝たし」
「……ボス。いや俺はいいけどな。若いもんの前でそういう……ことをだな、軽々しくいうんじゃねぇぞ」
「ん? あいつらにも練習はつけてやってるだろ?」
「…………何やってるのあなた」
 信じられない。
「いや! 違うって恭弥違うって! ほらたまには演習とかな、必要なんだよどうしたって。新人教育はちゃんと、それ専門の奴がいるしさ、オレは時々顔出したりアドバイスしたり」
「……本当かな」
「オレの弟子はおまえだけだよ」
 ぎゅうっと抱きしめられる。当然のことを、いかにも大げさにいうものだ。それは雲雀だって群れを咬み殺すのは好きである。ディーノには雲雀とだけ戦えなんて、そんな無茶をいうつもりもない。だが雲雀がそばにいる以上、その体力は雲雀のために使うべきだ。
「じゃあ、明日は戦ってよ」
「おう」
「あなたすぐ休むとかいうから。そうじゃなくて戦って戦って、それから」
 パジャマ。
 思い出して雲雀は驚愕した。どうして忘れていたものか、いや、いつも忘れるのである。戦ってくれるとなると嬉しくなって、頭の中がそれだけになってしまう。そして夜、寝る前に恐れ慄くのだ。あの趣味の悪いパジャマ。
「買い物」
「きょーおーや。前にいったろ? 両方は……あー」
「暇なんだろ。両方。いくよ」
「ん? 恭弥、なんか欲しいもんでもあんのか? 誰かに買いにやらせるか」
「あ! ロマ馬鹿!! いや! …………あのその」
 能天気な父の部下は、もう少し南に行くとは革製品が主産業だから二人で土産を買いに行くのもいいだろうとか、そんな話をしている。それはいい。雲雀が聞き咎めたのはディーノの反応だ。これではまるで。
「あなた、パジャマ買いに行きたくなかったの?」
「…………」
「行きたくなかったの?」
「…………え、そういうわけじゃないんだぜ? ただ、その、あれだ」
 要領を得ない。殴ってやろうとしたところで、ようやく会話の方向性がずれていると気づいたらしい髭が会話に加わってくる。
「何だパジャマ気に入らなかったのか、恭弥。何ならすぐ新しいものを用意するが」
「……そのな、ロマ」
「こういう時期だしやっぱピンクだろと思ったんだがな。ボスも好みじゃなかったか?」
「何いってんの訳わかんな」
「いやロマグッジョブだぜピンクだしふわふわだし! 肩からなんか白いレースでてるしうちの息子は天使なのかといたいいたい恭弥いてえって!」
 無意識にトンファーで父親を小突いていた自分に雲雀は気づいた。なんということだろう。思い切り抱きしめられている状況で、距離が近いからこそ武器に致命傷を与えるだけの勢いが出ない。まずはこの頑丈な手を振り解いてから、ぐっちゃぐちゃに咬み殺すべきなのだ。どうにも目の前に獲物があると、それに一撃を与えることで頭がいっぱいになってしまう。雲雀の武器は地面を蹴って加速して特に破壊力を増すものだ。咬み殺したい対象がここまで近くにいたことはないから、距離感が掴めないのかもしれない。
「ディーノ」
「…………おお」
「戦って…………買い物」
 危なかった。やはり敵は策略家である。
「えー今からか? もう店は閉まってんじゃねぇかって思うけど。てか、夕食。温かいうちに食ってやんなきゃかわいそうだろ?」
「…………」
 食べれればそれで充分でないかとも思う。だが自分のものでないタルトを食べてしまった身としては、そう酷い態度も取れない。
「な、明日な」
「……やけに拘るね」
「ん。今夜はピンクの恭弥が見れるってことだろ」
「馬鹿だね」
 まあ今更だ。パジャマは不満でも、それをディーノに見られることに関してはどうでもいい。イタリアに来て数日、流石に慣れもする。





 翌日、朝食後に手合わせをした後、買い物に行った。まずは寝具を選ぶ。モノトーンが好きな雲雀だが、あの家はいかにもそんな雰囲気ではない。茶系統の寝具やカーテンを買い、その後パジャマを選んだ。綿で黒の、白いパイピングがあるパジャマ。遠い半島でも、似たシンプルなデザインのものが売られていてほっとする。いやまさかあんなピンクでピンクでフリルなものが定番品なはずがない。
 そして自分の服も見立ててくれよと、体が八つあっても着られそうにないほど服ばかり持ってる父が馬鹿なことをいいだす。鼻で笑ってやろうと思ったのだが、気が変わった。それ相応の制裁というものは必要である。
 無駄に時間をかけて路面店を回って、やっと見つけたのはピンクでピンクでスパンコールなシャツだ。レースでもある。男物でこんなデザインのものが罷り通っていること自体、雲雀には風紀の乱れを感じさせる代物だ。ざまをみろ。
 
だが、実際着せてみると予想以上に似合ってしまい、反応に困ってしまった。思い切り部下の笑いものにしてやろうと思ったのに、残念なこと極まりない。大体ありえない話だ。ピンクが似合う父。とても受容できるものではない。しかもピンクでふわふわして肩からレースが生えている。まるで天使のようではないか。
 似合ってるよ、渋々そういうと父は嬉しそうに笑った。




 

 

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