「じゃー今日はここまでな」
 きゅ、と鞭で縛りあげて、そう宣言する。太陽は今にも地平に沈まんとしていて、既に世界は薄暗い。夜間の戦い方もいずれは教えてやるつもりではいるけれども、今はもっと仕込んでやらねばならないことがいっぱいある。力もあるし勘の鋭い子だ。ちょっと手助けしてやるだけでとんでもなく強くなることだろう。
「まだやれる」
 いうと思った。ここ数時間ずっと、「咬み殺す」「まだやれる」「うるさい」の三語しか聞いていない気がする。壊れたレコード盤でも内蔵されているんではないかと、正直ちょっと不安になったりもしたのだ。いやそんなはずもなかろうが、どんな無理も通りそうな、生意気が生意気という武器を持って生意気という学ランを羽織ったみたいな、子どものことである。いや、あちらに請われて家庭教師をしているわけじゃなし、だいたいちょっと気が強いくらいの方がのちのち力を蓄えるものだ。それに学生時代なぞ、教師や社会の仕組みに反抗するのが仕事みたいなものである。何の問題もない。だがそうはいっても、もうちょっとこう、友好的な態度をとってくれても罰は当たらないのではないか。
「こーこーまーでー。疲れちゃ明日に続かねぇぞ?」
「明日も来るの?」
「何だよ、嫌だっていっても来るぞ。待ってろよ」
「誰が」
 かわいくないことをいいながらも、戦闘マニアが唇を緩める。そういえば出会って二日目、昨日はまともに会話もできなかったし、そもこちらのいうことを聞いている様子すらなかった。しばらく、いや一度引き受けたからにはずっと、オレは彼の師匠として面倒を見てやるつもりだと、そんなこともわかっていなかったのかもしれない。
「あ、怪我してねーか? 見せてみろ」
 戦意を捨てたらしいのを確認して鞭を解く。治療してやろうと駆け寄ったのだが、力いっぱい手を払われた。このじゃじゃ馬め。
「寝る前に脚に湿布貼っとくんだぞ? あ、あとほっぺんとこ擦ってるから消毒しとけ」
「うるさい!」
 できればこちらで治療してやりたいところだが素直に聞く筈はない。一万歩譲って忠告してやったのに、怒鳴り声と同時にばん、と屋上への鉄製の防火扉が目前で閉められた。このやろう。学校を愛する風紀委員長がこんなことしていいのかよいいんだろうな。いっそ潔いほど自分自身が正義だとでも信じていそうな子供だ。
「あー………怒ってんなぁ」
「しょうがねぇな、ボスは。最初っからここまで尻に敷かれるとは先が思いやられるぜ」
「………………うん?」
「あっちはお子様なんだからよ。イタリア男としてきっちりリードしてやれよ」
「あ、ああ」
 呑気な声で茶化すのは我が右腕である部下だ。その発言がどこか理解不能で、オレは首をかしげた。いやそうでもないか。実際オレは情けないことに、まだ子どもの弟子に手を焼いている、さぞ情けない様に見えることだろう。オレはこっそり溜息をついた。





「あ、ボノ。ホテルの手配をしておいてくれるか?」
「ホテル?」
「おー、恭弥といくから。山だとか海だとか、足場の違うところで修行してみようと思ってな」
「何だよ水くせぇ。そういうことはさっさといえよな」
 けっこう本気な声音で叱られて、思わず謝った。実際悪いとは思っている。地方とはいえぎりぎりな日程で宿泊の準備を頼んで、負担が少ない筈はない。だが正直にいえば、恭弥の成長がここまで早いとは予想外だったのだ。それに、少しずつとはいえ、ここまで打ち解けてくれるようになるなんて。強い人間を好むらしいとはいえ、見るからに人嫌い、といった態度を崩さない弟子だ。だがこのところ、雑談やアドバイスにも耳を傾けるようになってきている。手は焼けるがかわいいところもある子なのだ。
「あんまりこうるさいことはいうつもりもないがな。恭弥は中学生だ。焦って無茶なことはしてやるなよ」
「おお、わかってる」
 先の戦いが設定された修行なのだ。大きな怪我でもされたら元も子もない。
「俺らはみんな、そんな偏見とかないつもりだしな。それに喜んでるんだぜ。これでボスもやっと一人前だ、ってな」
「ははっ。なんだよそれ」
 そりゃいつまでたっても家庭教師を傍らに置いたマフィアのボスでは、それが如何に強い殺し屋であろうとも、とても一人前ではないと見做されても文句はいえないのかもしれない。だが、弟子をとって初めて一人前、なんて初耳である。思わず苦笑した。しかし、人に教えることで改めて学ぶことが多いのは事実である。実は子煩悩な我が部下はそんなこと、今さらな話なのかもしれないけれども。





「恭弥のやつ、人の言う事なんか聞きゃーしねーし戦闘マニアだし負けず嫌いだし………」
 は、と気づいて口を噤む。確かに手は焼かされているがかわいいところもある弟子だ。愚痴だとでも思われたら困りものである。
 数日ぶりに訪れた並盛中学校は戦いの匂いを放っていた。全く皆子どもばかりだっていうのに。だが、オレの弟子に関していえば、不安なところは全くない。恐ろしいほどの勢いで、オレの教えることを吸収していく。それを見守るのはオレの喜びだ。だから安心してくれと、元家庭教師や弟分たちに、修行の成果をかいつまんで報告する。あらゆる場所で彼を鍛えたこと、素晴らしい才能を持った子どもであることを。
「まあ雲雀に関しちゃ心配してねぇ。おまえにまかせたことだしな」
「………リボーン!」
 思いがけない言葉に、驚きを隠せない。同時に胸が温かくなった。彼は下手な世辞などいうという発想すらない人だ。きっと素直に喜んでいいのだろう。
「しかし出会って半月もしねぇうちに婚前旅行か………めでてぇ報告を聞く日も近そうだな」
「………へ?」
 だが続けられた言葉が全く理解できずオレは固まった。コンゼン? ってなんだ? 修行旅行じゃなくて?
「ディーノさん」
 さっぱりわからない。オレは救いを求めて弟弟子の方を見やった。前に顔を合わせた時より少しばかり日に焼けた弟弟子は、照れたような笑みを浮かべる。
「あの、俺正直びっくりしましたけど………でもその、なんていうか」
「ツナ?」
 不審に思って促すと、弟弟子は一つ納得したように頷いた。
「その、おめでとうございます! お幸せに!! あの、俺がいうのも失礼かもしれないですけど、ヒバリさんと、すごくお似合いだと思います」
「全く失礼だぞ、恋愛の機微もわかんねーようなガキがなまいうな」
「リボーン」
「だが俺もそう思うぞ。ヒバリは破天荒だがしっかりしてるからな。だいたい、おまえみたいなタイプはさっさと連れ合いを作った方がいい」
「………………………え」
 二人が何をいっているのか、理解するまでにだいぶ時間がかかった。だが理解すると同時に、危機感がものすごい勢いで押し寄せてくる。やばい。どう考えたってやばい。誤解だ! だがどうしてこんな勘違いをされたものやら、さっぱりまったく理解できない。
「あ、あの、な?」
「はい」
「オ、オレ別にゲイじゃねぇし! 恭弥のこともそりゃ大事に思ってるけどそれは弟子だからで、恋人だとかそういうのは」
「ディーノさん!!」
「はい」
 きっ、と真面目な顔をして弟弟子がオレの顔を見据える。怖い。何が怖いってその肩に腰かけたまま禍々しいオーラを放っている元家庭教師が怖い。昔奴の気にいってたデミタスカップを割っちまった時にも、確かこんな笑みを浮かべていた。
「見縊らないでください。俺はそういう偏見ない………って断言できる程、そういう人たちと会ったことない、ですけど。でも、当人同士の幸せが一番大事なことなんだってことぐらい、俺が子どもでもわかります」
「え? いやその、な?」
 どうしよう、明らかに恥ずかしがって、それか偏見を恐れて言い訳したぐらいに思われてる。だがこれ以上何と説明すればわかってもらえるのだろうか。
「ディーノさんのことは大好きだし、幸せになって欲しいって、すごく思うんです。応援します」
「ん………あんがとな?」
 って礼をいってどうする。だが弟弟子の真摯な愛情が嬉しくて、気づけば口にしていたのだ。しかし彼は如何にも嬉しそうに微笑んで、ああ真っ直ぐないい子だ。
「えーと。オレまだ仕事が残ってるから、取りあえず帰るな! ツナ、頑張れよ!!」
「はい、ありがとうございます!」
 とにかく今日は駄目だ。日を置いて説明しなければ、とても理解してもらえる気がしない。オレは逃げ出すようにその場を後にした。





「よお、恭弥」
 応接室のドアを開けると、弟子は書類から顔をあげて首を傾げた。
「跳ね馬。どうしたのあなた、変な格好して」
「な! 何処が変な格好だよ黒のスーツだぞ。むしろマフィアにとっちゃ正装っつうか!!………いや」
 それなりに拘りのある装いである。思わず反論を続けそうになって、咳払いで誤魔化した。
「ああ。あなたマフィアだとかいってたよね」
「………おお。覚えていてくれて嬉しいぜ………。あ、そうだ恭弥。これいるか?」
「何これ。花束?」
「ああ、そこらへんにでも飾っといてくれ」
 ただの花束じゃない。赤の、薔薇の、花束である。ホテルを出るときに部下たちに、忘れものだぜボス、とうやうやしく渡された。その意味がわからない程オレは馬鹿じゃない。なんとか釈明を試みたが全く取り合って貰えなかった。そういえば弟弟子にも今まで何度か釈明しようとしているのだが、そちらも全て不首尾に終わっている。
「ふうん。草壁」
 だが恭弥にはそんな花束のサイズも色も、全て些細な問題であると受け取られたらしい。特に声を高めるでもなく風紀副委員長の名を口にすると、即座にノックの音がして、応接室のドアが開いた。なんだこれ、忍法か何かか。
「お呼びですか、委員長」
「うん。これ跳ね馬から貰ったから。活けておいて」
「………………………へい」
 打てば響く反応を返す恭弥の部下が落とした沈黙に、どんな意味があるのかは考えたくはない。
 オレも、まずいかなとは思ったのだ。だが部下から受け取った花束。捨てるのは花がかわいそうだし、いやそもそも部下に運転してもらってここまで車で来たから、そこらへんのごみ箱に廃棄する、ってわけにはいかなかった。そして校舎の中で適当な女子学生に御譲りする、などという行為を試みてコントにもならず不審者扱いもされずに済むだろうと楽観的に考えるには、あまりに花束が大きすぎた。だからオレは結局応接室までこれを持ってきてしまったのだ………まあこの部屋はよく花が飾ってあるし、無駄にはならないだろうと思って。
「で?」
「で、って?」
 恐る恐る問い返す。何でこんな花束持ってきたんだとか、聞かれてもオレはこの場を乗り切るだけの言い訳を思いついてない。ていうかむしろオレが聞きたい。
「何でそんな恰好なの。葬式帰り? そんなんで戦えるのかな」
「へ? いや、ほら、オレこれから………国にかえるからさ、それでこんな格好なんだけど」
 ヴァリアーとの闘いが無事終わり、オレにはもう、この国に滞在し続ける理由はない。本国での仕事も溜まっている。とはいえ、もう次の渡日の予定が来月の中頃に決まっている………という事実をさっき花束を渡されたときに部下から聞いた。だからそう落ち込むなよボス、と肩を叩かれて、だからオレがいつそう落ち込んだ、と突っ込みたかったが何とか飲み込んだ。このところオレのスルースキルのレベルは格段にあがっているのだ。
「帰るの?」
「え? いや、それはほら」
 途方に暮れたような弟子の様子に、オレは体中の血が頭に向かっているのを感じていた。かわいいいやそうじゃない。未だ一勝もしていない恭弥がオレを帰したがらないのは当然のことだ。
「仕事が溜まってるからな。でもまたすぐにこっち来るぜ。そしたら好きなだけ戦ってやるから」
「………うん」
 僅かに唇を緩める、その様子にどきりとする。彼はいつも、オレが忘れていたような素直さだとか純粋さとか、そういったものを体現してみせて、オレはいつだって落ち着かない気分にさせられる。
 かわいい。だからいやそうじゃない。オレはいきなり、ある可能性に気づいて、衝撃のあまり固まってしまった。
「………………マジ、かよ」
「なに」
 オレはこのところずっと、部下たちや弟弟子や元家庭教師などに、まるでオレ達が………オレと恭弥が付きあっているかのような扱いを受けている。実際そのような関係ではないし、何でそんな勘違いをされたのか、さっぱりまったくわからない。それにそんな態度をとる奴らの大方には、オレの過去の交遊関係はそれなりに知られている筈なのである。それが何で………と正直当惑しているのが現状だ。
 だが恭弥がそういう趣味の持ち主だとすれば、全ての謎が解けた………とはいわないまでも、ほとんどの疑問は氷解するのである。いくらなんでも普通に考えて、ただ弟子を責任もって面倒を見ている、というだけなのに、まるで恋人同士みたいな扱いを受けるのは間違っている。もしかして、恭弥は同性に興味を持つタイプの人間で、それを他の皆が知っているということなのかもしれない。中学生がマイノリティな自分の性癖を他人に公表する、なんて、どう考えてもあり得ない話のような気がするけれども、なんといっても相手は雲雀恭弥だ。他人の思惑なんて、頓着する必要すら感じていない気がする。
「あの、あのな」
「だからなに」
 なにって。流石にオレだって、単刀直入に聞く度胸はない。
「その、恭弥は彼女、とかいるのか?」
「? いない」
「いや、彼女じゃなくてもさ、好きな女の子とかいないのか? かわいいなー、みたいに気になる子」
「いない。そんなことにかかずらっている暇があるなら、戦っているべきだよ。それに女子って、例外がないわけじゃないけど基本的に群れてるし………興味ないな」
 やっぱり。いや、結論に飛びつくのは早い。たまたま好きな子がいないだけかもしれないし、オレだって恭弥の年の頃は、日々差し出される殺伐とした案件に圧倒されるばかりで、恋愛沙汰など考える余裕もなかった。
「じゃ、彼氏とかいるのか? いやオレは偏見とかないし、いいんだぜ、正直にいって。ほら彼氏とかじゃなくても気になる奴とか」
「あなた何馬鹿な………」
「失礼します」
 ノックの音がして、恭弥が応答した次の瞬間にはゆらり、と陽炎のように草壁が応接室内に存在していた。花瓶を抱えて。恭弥の趣味じゃなさそうだし、多分式典にでも使うんだろうなーって感じの、とんでもなく大きくて主張の激しい花瓶だ。きっとそれにしか入りきらなかったんだろう。オレは申し訳ない気分になった。
「こちらに飾っておきますね。あとで何か、花台になるものを探してきます」
 執務机には恭弥が書類を広げているし、とても置くようなスペースはないと考えたのだろう。草壁は恭しく、ソファの前の応接テーブルの上にそれを置いた。途端に応接テーブルが、ちょっと無骨な花台みたいに見える。明らかに花束が大きすぎたのだ。オレが選んだわけではないにしろ、どうにもいたたまれない。この部屋を大事に思っているらしい恭弥は明らかに目を丸くして、花束に視線をやった。
「あなた………」
「いや、ごめんな。でかすぎたよな? でもオレとしたらこれをおまえに渡さずにはいられなかったっていうか」
 まったく情けないいいわけである。処分に困って弟子に花束を押しつけたとか。だが恭弥はまるで今さら呆然、といったふうに見遣っていた花束から視線を移すと、まじまじとオレを見つめた。どうしようどうにも落ち着かない。
「あの、僕は、こういうとき、どういったものだか………わからないんだけど」
 とぎれとぎれの言葉を聞いた途端、罪悪感に襲われた。オレはなんてデリカシーに欠ける対応を取ってしまったのだろう。きっとオレが選んだわけでもない花を渡しただけなんだって、ばれたんだ。
「その、僕はそういう趣味はなくて。いや、だからといって、その、偏見というか、変な目で見てるわけじゃなくて………あ、でも、その、知識もないし、無神経なこといってしまうかもしれないけど」
「………」
「でも、あなたがあなたの好きな生き方を選択するのを否定するつもりはないし、いやそうじゃなくて、好きな風に生活して欲しいと思うし、自由に生きて欲しいと思う、し。でも、その、僕としたら」
「………」
 ぽかんと口を開けて、オレは恭弥が常ならぬ様子で言葉を選びながら、訥々と話し続ける様子を見守っていた。ああ、なんていうことだ。
「僕としたら………いやでもあなたのことは嫌いじゃないし、あなたと戦いたいっていつだって思ってるし、だから誤解しないでほしいんだけど、そのつまり」
「きょうや」
「え?」
 びくり、と誰よりも優しい性格をしたオレの弟子は身体を強張らせて、オレはひどく焦った。
「口説いてない、口説いてねぇよ! 大丈夫だから!」
「え?」
「誤解だ! 口説いてねぇよ。その、いきなり花渡したのは悪かったけどこれはその、うんあれだ、戦いが終わった記念っつうか」
「あ」
 音をたてても不思議じゃないくらいに、一瞬で恭弥は顔を赤らめた。きまり悪そうに、袖の中でトンファーを探っているような動きを見せると、そのあと諦めたみたいに力を抜く。
「そう。あ………の、僕てっきり」
「いや、オレが悪かったよ。紛らわしい真似しちまった。あ、恭弥が悪いってわけじゃないんだぜ? かわいいし魅力的だし、おまえのその真っ直ぐな………純粋なとこもすごく大事に思ってる。でも、な。なんていうか、よくわかんないけど」
「うん。僕もあなたのこと、その、嫌いじゃないし………あなたは強いし戦ってると楽しい。でもそういうのは、その」
「ああ、わかってるって。………あー、じゃ、その、それじゃまた来るな」
「すぐ咬み殺されにきなよ」
 怖いな、と笑いながら手を振ってオレは応接室の外に出た。ドアを閉めた瞬間、大きく息を吐く。なんだ、単なる思い違いか。恭弥はゲイじゃなかったんだ。
「まったく、あいつらが変に気を回すから、オレまで勘違いしちまいそうになったじゃねーか」
 思わず零して、髪を掻きあげる。途端小さく胸が痛んだ気がして、眉を顰めた。このところ戦いの後処理に追われ、睡眠時間も明らかに足りていない状況である。疲労が溜まっているのかもしれない。





「なーんてこともあったよなぁ」
 ここ数日でめっきり空気は冷え込み、世界は秋の気配を漂わせている。だから、あんな懐かしい記憶が蘇ったのかもしれない。オレは思わず目を細めて、ベッドの上で寝がえりをうった。
「なに、後悔してるの」
 白い指がオレの髪を引っ張る。だが詰る声は笑いに塗れているから、これは面白がっているだけだ。
「ああ、後悔してるぜ。イタリア男としちゃ、もっとスマートな口説き文句から始めたいところだった」
 ここはもう、歯咬みでもしたいところだ。結局その後、告白めいた言葉を口にできたのは数カ月あとのことだった。それだって思えばいっぱいいっぱいで、格好のついた台詞だったとはいいがたい。
 あの日から数週間後、再び渡日したオレは、恭弥と手合わせをすべく並盛中学に向かった。いつもどおりいつもどおりと成田から並盛まで念仏のように頭の中で唱え続けたのが災いしたのか、いつもどおり発音された筈の「よう、恭弥」は即座に我が右腕を大爆笑させるほど盛大にひっくり返ったアクセントを纏っていた。そして、「よく来たね」と平静に応じてみせた恭弥も、屋上に向かうべく立ち上がった次の瞬間には、右手と右足が同時に前に出ていて………つまりオレ達はあの、お互いに性的対象ではないと表明しあった筈の問答が原因で、逆にとんでもなくお互いを意識してしまっていたと、まあそういうわけだ。加えて部下たちがことあるごとにオレ達を二人きりにしようとしたし、デートのセッティングをされたり、旅行をするよう企まれたことさえあった。
「その後、さんざん聞いたからもういいよ。だいたいあなたのはなんか、スマートとはいわない気がする」
「このやろう」
 照れたような口調でいってくるのだからよろしくない。かわいい。スマートではないらしい台詞を耳元で思う存分囁いてやりたいような気分になる。
「じゃ、どういうのがスマートなんだ?」
「え?」
「教えてくれよ、スマートな口説き文句ってやつ」
「馬鹿じゃないの」
 だがついからかってやったのはまずかったらしい。途端に目つきがとがって、どうやら拗ねてしまったようだ。
「いわないよ、そんな恥ずかしいこと」
「そういうなって、あれだぞ、思ったことを口にしないと、身体に悪いぞ」
「なに、あなたのそれって健康法か何かだったわけ?」
 頬を引っ張って、その癖もう瞳は怒ってない。大体口にしないだけで考えてるって頃は否定しないのだ。
「い、ひゃひゃひゃひゃ………ひゃ!」
「大人しくしてなよ」
 ほっぺたを思いきり引っ張った形で引き寄せられて、咬みつくようなキスをされた。多くを語らない男らしい人なのだこのやろう。
 つきあいだしてはや十年近く。その間、好きだといわれたことは数えるほどしかない。それでもそのことに………他の理由で揉めたことなら何度もあるが………不安を感じたこともないのは、恭弥がどういう人間かわかっていることもあるし、また、口に出さなくても、ずっと、多くのものを与えてくれたからかもしれない。
 だがそれでも、あの日のことを時折思いだしてしまうのは、仕方がないことだと思うのだ。あの日。恭弥がオレが告白していると勘違いして、そして断りの言葉を口にしようとした日のことだ。結局お互いに思い違いをしていて、さらに自分の感情すら把握していなかったと、そういうことに尽きるのだが、あの時はもういっぱいいっぱいで、自覚するのはまだ先のことだった。
 
恭弥は訥々と、言葉を選びながら、お断りをいれようとした。この人が、わかりづらいけれど誰よりも優しい人だということは、その時のオレはもうわかっていたけれど、でもそれと同時に、彼が人の感情というものにあまり頓着しない傾向があるということも、いやというほどわかっていた。いつだって、思ったままを口にする人で、それで他人がどう思うか、とかどう感じるか、とかそういったことを深く考えることはない。多分彼が自分をしっかり持っていて、他人の言動に右往左往するような経験がないから、相手の感情を思い図る必要性を感じないのだろう。どうせ本人でなければわからないことだと、潔く切って捨てそうだ。
 
だがあの日、恭弥はオレを傷つけないように、悲しませないように、なんとかして言葉を選ぼうとしていた。恋愛関係になれたのは、男同士だということや双方がそれまでそういった嗜好をもっていなかったんだか自覚していなかったんだか、まあそういう状況だったことを鑑みると、僥倖のようなものだと思っている。いや今さら彼に師匠としての愛情だけを注げといわれても、無理、だとしか答えられないが。ただ、あの日、何よりも大切なものを、オレは彼から貰ってしまっている。性的な匂いすらしない、ただの真摯な、愛情だといっていいようなものを。だからオレは、断りの文句であったことを知っているにも関わらず、あれを、あの日のことを大切に思っているのだ。
 
きっとあれが恭弥からの告白。年上として、師匠として、先を越されたのは手落ちというより他ないから、スマートではないらしい言葉を、何度も伝えたくなることぐらい、許して欲しいものだ。懲りないオレは、朱に染まっている耳に、そっと唇を寄せた。










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