「恭弥―。竹買ってきたぜ! 竹!!」
 やっと手に入れたそれを脇に抱えて、日本の中学校にある応接室のドアを勢い良く開けると、真面目な顔をして日誌に向かっていたオレのかわいい弟子はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「うん。笹だね」
「笹?」
 そういえば購入した小さな花屋で、そんな説明を聞いた気がする。多分外国人がはしゃいで日本の祭りを満喫しようとしていると、まあ間違っちゃいないんだけどもそんな風に考えて懇切丁寧に説明してくれたんだろう。二十代半ばぐらいの、笑顔がかわいらしくて親切なお嬢さんだった。オレの質問にも律義に答えてくれたし、明らかに不勉強なこちらの様子に不安になったのだろう、わからないことがあったらいつでも電話を下さいと、店の会員カードに自分の携帯番号やメールアドレスまで書き込んでくれたりもしたのである。異国の地ではそう花屋を利用することはないし、あったとしてもそれは仕事がらみのことであろうから、店を出てすぐにそのカードは申し訳ないが捨ててしまったのだけれども。
 そんなわけであれこれとレクチャーを受けたにもかかわらず、恥ずかしいが竹と笹の違いもよくわかってはいない。正直いって、この失態の理由の一つにはオレの日本語の語彙力の問題があろう。それなりに必死に語学を学び、ビジネスの場でもプライベートでも差し障りを感じる場面はだいぶ減ってきたとはいえ、基本的に必要とされる、優先順位の高いカテゴリーの単語から順に記憶していくわけで、植物に関する言葉なぞほぼチンプンカンプン。せめて学名ならといいたいが勿論そんなわけもなく、幼い頃家庭教師に叩き込まれた筈のラテン語どころか、母国語ですら、実物と単語をイコールで結べといわれたならばそうそうに降参することだろう。つまりはオレは、もともと植物に関する知識なぞ最小限のものしかないと、そういう訳だ。だから思わず抱えていたそれを持ちあげ矯めつ眇めつしてしまったわけだが、さっぱり違いはわからない。だが確か数ヶ月前、恭弥と食べた懐石料理に出てきた竹の………子? か何かは確かに今目の前にあるそれとはさっぱり様子が違った気がするけれども、その料亭の庭に植わっていたのは聞いた話では確か竹で、見た目にもそう違いがあるとも思えない。
「ま、まーいいじゃねーか。竹でも笹でも………ってよくねぇか」
 取りあえず誤魔化そうとして、だがオレは恭弥の国の文化を馬鹿にするつもりはない。適当に返そうとした言葉を撤回して、頭を下げた。最低だ。オレだって樅の木の代わりに松を使えとか、ミモザの代わりに向日葵を使えとかいわれたらさぞや盛大に腹をたてたに違いない。文化を尊重するのは大事なことだ。
「ちょっとあなた、それここに飾るつもりなの?」
 だがいつもながら読めない弟子は違うポイントで剝れてみせた。執務机の後ろ、窓を開ければ風できっと葉が揺れるだろう位置に設置しようとしていると、明らかに嫌な顔をした。ああそのちょっと尖った唇に今すぐちゅーしたい、と短冊に書くわけには流石にいかないので、オレは曖昧に笑ってみせた。
「なんだよ、いいだろ。楽しそうじゃねーか」
「外から見える」
「あ、そか。ちょっとずらすか」
 他人の目なぞ気にしないように見える恭弥でも、応接室だけでお祭りをやっているのが知られたらまずいと思ったのかもしれない。委員だけで楽しそうなことをやってるとか誤解されたら、生徒たちの心証が悪くなる、とか
「別にどうでもいいけど。あなたってイベントごと好きだよね………イタリア人ってみんなそうなの?」
「ん? んー………どうかな。人それぞれじゃねぇか?」
 実のところオレ自身だって自国での祭日や祭りに関心が高いかと問われればそうでもない。なんとなくまだまだ未熟であると認めるだけな気がして公言しにくいのだけれども、マフィアのボスなんて稼業はそれなりに多忙だ。ナターレだのイースターだのならともかく、ちょっとした祭りやイベントなら、あ、と気づいた時にはもう終わって数日たってたなんてことも少なくない。
「でもさ、やっぱ恭弥とは、いろいろ祝いたいじゃねーか」
「それがわからない。日本の祭りが物珍しいの?」
「………そうじゃねーよ」
 わからないならそれでいい。オレの勝手な拘りだ。この自由で気儘なかわいい弟子とはそう長い時間を共に過ごせるわけじゃない。オレは本国で仕事があるし、恭弥も日本での学生生活がある。でもだからこそ一緒にいられる時間を大切にしたいし、特別な日があるなら一緒に過ごしたい。月に会える日は一週間にも満たなくとも、恭弥が高校を卒業する頃には一年分くらいの時間を共有できるようになるかもしれない。祭日だのなんだのだっていつかは網羅できるかも、と。
「あ、ほら飾りもいっぱい買ってきたんだぜー。綺麗だろ」
「ああこういうのってやっぱり売ってるんだ………商店街とか用なのかな」
「え? 知らねーけど………ネットでも売ってったって聞いたぞ? 普通は買うもんじゃなかったのか?」
 クリスマスツリーのごとく飾りもセットで売っているものだとばかり思っていたのだが、実際は笹とは一緒に売られてはおらず、部下に頼んでネットや問屋で入手可能か調べてもらった。綺麗だ、なぞと褒めてもみたが紙袋からだして並べてみると、その飾りのほとんどは繊細な作りに驚きを感じるものの、素材のせいかひどく安っぽく見える。ぺらぺらで光沢のあるプラスチックを多用しているせいだろう。ここに来る途中、店先なぞで見かけたそれは、風に吹かれ絶え間なく揺れているせいかただきらきらとして綺麗だった、という印象しかないのだが。
「どうかな。盛大に祝ってる地域もあるんだろうけどね。あまり個人で祝うって感じじゃないかな。ただ折り紙とかで飾りをつくるんだと思ってたけど………やらないよ」
 もしかして我が弟子は読心術かなんかの素養があるのだろうか。折り紙といえば、ザ・日本文化。一度弟弟子に教えて貰って散々な出来栄えのものしか作れなかった記憶はあるが、あの繊細な作りにはなんとなく憧れがある。そりゃオレは鶴を習っても亀を習ってもただ美しい色紙をぐしゃぐしゃと固めただけ、みたいな紙屑しか作成できなかったけれど
「紙屑を吊るした笹とか、この部屋に置くわけには………聞いてる?」
「おおびっくりした………オレサトラレ?」
「サト………?」
「いやなんでもねぇ」
 小首を傾げる我が弟子の頭を撫でてやる。全く反則だと詰りたい程かわいい。大体どう考えても過剰反応で、だがこの醜い心の内をできれば知られたくない、そう思うとどうにも平常心ではいられないのだ。
「ロマンチックな祭りだよなあ。天の川の両岸に住んでる恋人たちが、晴れてれば年に一回会えるって日なんだろ?」
 如何にもな作り話だと思いつつ、その引き離された恋人たちにはつい感情移入せざるを得ない。誰よりも会いたい、顔を見たい人に、会いたいときに会えないのはオレも同じだ。実際にオレ達を引き裂くのは川ではなく海。いや直線距離で結ぶのなら、飛行機で行き来する現状を鑑みるなら、ユーラシア大陸こそ諸悪の根源であると、そう断じることも出来そうな気はするが。
 だが伝承にすぎないとはいえ一年に一度とは! どんなにか苦しいことだろう。正直情けない限りのマフィアのボスとしては一週間もあればとっくに限界を超えてる。会いたくて会いたくて………だがなんとか自分を誤魔化しつつ仕事に励んで、部下たちを巻き込むことに多少の後ろめたさを感じつつ先送りをして纏めた土日分の休みを利用して日本に向かう。恋人のもとに。
 考えてつい苦笑した。恋人。そう恋人の筈だ。だがセックスはおろかキス一つしてはいない。ああ、あの甘美な、ぷくっと膨らんだ頬を宥めるためにした数回を別にして。自分のこの持て余した感情を伝えはしたし、恭弥はそれを拒否はしなかった。そうだ。だがだからといって、この醜い衝動を押しつけていいという理由にはならない。恭弥はまだ子どもで、何もわかっちゃいない。あのどこまでも自由な人に、オレがそうしたいという我儘やら、恋人同士はそうするものだなんて常識論でこちらの意向を押しつけたりしたくない。それは間違っている。だがオレだけが無様な欲望を抱えている、こんな関係がはたして恋人同士といえるのかどうか。
「じゃ、ないよ」
「………………へ?」
「恋人同士じゃないよ。夫婦だ」
「え、や、きょ!! ってえ?! 誰が!! 誰と!?」
「ん? だから織姫と彦星だろ」
「………………ああ、うんそれな」
 他に誰がいるっていうんだ。愚かな自分を罵りつつ頷いて見せて、だがそこで固まった。
「って、なんだその、織姫となんたら、って夫婦なのか?」
「うん。なんだあなた本当に知らないの?」
「おお、初耳だ」
 素直に頷く。恭弥と祝うべく準備している段階で何度か祭りに関した話を聞いた気はするが、細かいところは記憶にない。ただ引き裂かれた愛し合う二人、という話から年若い恋人たち、というイメージで凝り固まっていた、というか。
「その彦なんとかって奴は単身赴任なのか?」
 問い返しながらもイメージが一致しない。花屋の店員さんやなんやらから得た情報から、なんとなく幼い、ロミオとジュリエットみたいな愚かで無鉄砲で清らかな恋愛のイメージだったのだ。古典的悲劇。だが新たに知った日本の伝説はむしろ悲劇でも喜劇でも古典的でもなんでもなく、いうなら橋田壽賀子的現代的悲喜劇。愛を試されるという事実からいえば、むしろより難関かもしれない。
「違うよ。牛飼いに単身赴任も何もあるわけないだろ。織姫の父親である天帝に邪魔されて」
「え、なんだよ舅に引き裂かれたってだけなのか? 情けねー男だな」
 同じ遠距離恋愛に身悶える男として何とはなしに連帯感を抱いていただけに、この情報は受け入れがたかった。天帝だか何だか知らないが、夫婦になっているのに妻の実家の横槍に唯々諾々と従うとは! 文化が違うといえばそれまでだが、だとしても情けない話ではないだろうか。
「まあ仕方ないんじゃないの。大体昔話だ」
 だが誰よりも個人の心がけや行動を重視しそうな厳しい人が、そんなことをいいだすものだから驚愕する。
「いや駄目だろ! だって夫なんだぜ!? 夫のくせに自分たちの生活する場所も決められないとか」
「草食動物なんてそんなもんなんじゃないの。どうでもいいよ」
「いやそうはいってもだな、いくらなんでも………いや」
 たかが昔話に何を熱くなっているのだ。はっと我に返って、だが苛立ちはまだ少し残っている。だって夫婦なのだ。オレが恭弥と結婚できたら片時だって離しはしな………いのはあの自由な人相手に無理なことぐらいわかってはいるけれども。でももう少しはこちらの要望を主張できそうな気がする………つまり接触的な問題に関して。いくら恋人といっても、そしてオレの方がどれだけの覚悟が決まっていようとも、恋愛関係なぞいとも簡単に壊れてしまうのだということもオレは知っている。しかも恭弥はまだ何もわかっちゃいないのだ。そんな状況で、どうして同性同士の性行為なんて教えることができるだろう。普通に育っていたら、全く知らなくても不思議はない事柄だ。事実オレだって恭弥に出会うまでは、全くの他人ごと、自分には関わりのない世界の話だと思っていたのだから。
「夫婦だからとか何だからとか、そういう前提で人を評価するのはおかしいよ。会いたかったらその夫婦だって会うだろうし、一緒に暮らしたきゃ暮らすだろ」
「いやだから一年に一度しか会えねーって話なんだろ?」
「本気で会いたければいくらでもやりようはあるよ。それより天帝の怒りを買う方が問題だってだけだろ」
「うあー………そうかもなあ」
 恭弥のいうことは極論で身も蓋もないが、正論でもある。手っ取り早く七夕の日に駆け落ちするとか、神話の人間である為の無限の時を利用して強固な橋だとか飛行機だとかロケットだとか作るとか。いや色恋にかまけて仕事を疎かにしたことを天帝は非難しているわけだから、自動牛餌遣り機、とか自動機織り機とか作った方が話は早いかもしれない。
「だいたいあなたが偉そうにいう資格なんてない。あなただってそのなんとかいう組織に気を使って、好きに動かないでいて」
「へ? いやなんの話だ?」
「だからその組織だよ。あなたが僕に勝手に入らせたがってる」
「………ボンゴレ?」
「それ。顔色窺って、馬鹿みたい」
「いやおま…」
 そりゃ気を使っていないといったら嘘になる。腐ってもボンゴレ。内部分裂を起こしていてもボンゴレ。だが協力姿勢を示しつつもその中で如何に我がファミリーの影響力を強めていくか、その計略のもとにオレはずっと動いてきた。それは我がファミリーのためであり、そして、先々のことを考えればこの少年のためでもある筈なのだ。
「オレは………会いに来てるだろ?」
 口から零れた弁解の、そのあまりの空々しさに吐き気がした。本当はもっと会いたい。ずっと一緒にいたいのだ。だがそんなオレの言い訳なんて馬鹿馬鹿しいと恭弥は切って捨てるだろう。死ぬ気や意地だけで、とても不可能だと思われたことを可能にする、そんな局面をオレも恭弥も何度もみているのだ。だがそれでもそれよりもずっとずっとたくさん、無念のまま終わる人々の姿をオレは見てきているのだけれども。
「そんなの知らないよ」
「知らないとか、いうなよ」
 ああ今日は楽しい七夕の日だったのに。飾りつけをして短冊を書いて。一生恭弥と一緒にいれますように、っていう一番の願いは漢字で書けるように練習までした。そのへたれ男と奥さんは多分イタリア語は読めないだろうから。それから和食でも食いにいって、恭弥が書いた願い事は、できる限りオレが叶えてやる。めいっぱい戦いたいとか、思う存分戦いたいとか、好きなだけ戦いたいとか、そんなことを書くんだろう、このかわいい戦闘狂は。だからオレは思う存分甘やかしてやって、だけどより切迫した、どうしようもなく切実な望みの方、運が良ければ半世紀ほど先に、下手を打てばすぐにでも御利益があったのかどうかわかるはずの一番なのは本当だけれども綺麗ごとだといわれれば否定しえない望みではなくて、気を抜けば今すぐにでも完遂すべくふらふらと体が動きそうになる望みの方はとてもとても短冊になぞ書けはしない。どうして書くことなどできるだろう? 
「だいたい夫婦だからってなんだっていうの。あなたって本当にくだらないことばかりいう」
 この目の前で不満気に動く、百日紅みたいな色した唇に、とか。いや、まだいってない。書いてもない。
「おまえなあ」
 今すぐキスしたいああ書けるはずない。
「あなただって家庭教師のくせに」
「あ、ああ」
 言葉もない。褒められた状況でないことなぞ把握している。
「家庭教師のくせにキスの一つもしないじゃないか………」
「………………」
「………………………あ」
 かあっという音が聞こえるみたいに、突如としてだれか見えない人間が赤いペンキのついた刷毛を振り回したみたいに、恭弥は一瞬にして真っ赤になった。指摘してやることはできなかった。殴られたくないというのももちろんだが、今オレもきっと、熟れきったトマトみたいな顔をしているに違いないからだ。
「あ、あのこれは別に」
「なんだ恭弥もしかしてキスして欲しか………ぐわ」
 振りあげられた拳は滅多矢鱈で威力なぞほとんどありはしなかった。というか、隠し持ってる筈のトンファーが出てこないところを見ると、相当狼狽えている。どんなときだって恋人を咬み殺すことに躊躇いなど感じない人なのだから。考えて苦笑する。
「てか恭弥、家庭教師って………」
「なにあなた僕の家庭教師じゃないの」
「いやもちろんそうだけどよ」
 そうだけど、普通家庭教師は教え子にキスなんてしない。でもそんなこと恭弥だってわかってるだろう。たぶん彼は「恋人」なんて言葉、口にできない程恥ずかしいのだ。気づいて、こちらの方が恥ずかしくて、いたたまれなくなった。まだ幼くて初心なかわいいひと。わかっているのに欲しくてたまらない。ああきっと普通教え子はこんなかわいくも、かけがえがなくもない筈だ。そうでなければもっと、この世界の風紀は乱れ切っている、筈。
「ああもう! 恭弥!!」
「僕は………だからあなたが思うようにすればいいって話だよ。他人や何とかいうマフィアの思惑なんて気にする必要はない、って」
 不貞腐れたような唇に苦笑する。おまけに睨みつけてもきて、それなのにこちらをこんなにもキスしたくて仕方がない気持ちにさせるなんて詐欺だ。
 かわいいかわいいかわいい人の声は、この狭い応接室で、まるでカエサルが全軍を叱咤する怒声のように響いた。つまり賽は投げられた、と。それともルビコン川を渡れと。いやオレが渡ることを期待されているのは天の川、それともユーフラテス大陸だろうか。ああこの子はちっともわかっていないのだ。ボンゴレがなんだ。そんな覚悟、こっちはとっくのとうに決まっていたというのに。
「だから僕は………ちょ」
「ん」
 まずは僅かに膨らんだほっぺたに。そして途端にぎゅううっと力いっぱい閉じられた左右の瞼に。盛大に刻まれてしまった眉間の縦皺に。それから………唇に。
「………恭弥」
「ん………んん」
 子どもっぽいキス。それ以上のことはきっとまだ早い。だがこれだけのことでこんなにも心が満たされるなんて、駄目な大人はまったくさっぱり知りもしなかった。ああ先生なんて自称していても、こちらが教わることの方が、とんでもなく多くていけない。
「きょうや」
「ん!」
 思わず下唇に舌を這わせて、だがかわいい人は、まるで振り向いたら後ろに幽霊かジェイソンかリボーンでも立っていた、みたいにびくりと震えてみせた。だから次は馬鹿みたいに音をたてて唇の端に。それからもう一度頬に。ゆっくりと背中を撫でてやると、力が抜けてくるのがわかる。
「やっぱさ、恭弥。その織姫となんとかっていう奴らもやっぱり幸せなんだと思うぜ」
「何それ。会えなくても?」
 あ、もっと会いたいんだな。ごめんなオレ頑張るななんていったらさぞや暴れるに違いない。大体これ以上赤い顔なんてしてみせたら、脳の血管でも切れないとも限らない………オレの。だからもう一度背中を撫でて、抱きしめる腕の力を込めた。
 窓の外に目をやれば、日の長い七月でもようやく空は茜色に染まり始めていた。これから短い夜になる。天気予報の通り今日は晴れ。きっと二人は短い逢瀬を楽しんでいる筈だ。ああまったく自分が幸せだというだけで、関係ない男女の幸せまで願ってやる心持ちになろうとは、これも今まで知らなかったことだ。
「会えなくても。それにさ、向こうは空にいる奴らなんだぜ? こっちとは時の流れが違うかもしれないだろ。宇宙ができた頃からいるとしたら、相当な頻度で会ってることになるんじゃねぇか?」
「しょっちゅう会ってたら鬱陶しいかもしれないしね」
「このやろ。………それにさ、会えない間は寂しいけど、恭弥が並盛で元気でいる、って思うだけでオレは幸せだ。だからそいつもきっとさ、服とかアクセサリーとか、それとも自慢の牛肉とか持ってさ、恭弥に会いに」
 さっきまでの自分を思い出す。嵩張る笹を抱えて、派手な飾りを携えて、恭弥はきっと喜ぶだろうななんて思いながら中学校の廊下を走った。もうすぐ夜で、笹はきっと飾りつけられないまま終わるだろうけど。
「その人が会うのは僕じゃないよ」
「ああ、そうだな。じゃあそこまで幸せじゃないかもしれねぇけど」
「………ばか」
 かまわない。だってもうオレの願いは叶ってしまった。恭弥の願いは空になんて叶わせてやらない。
 それに久しぶりの逢瀬だっていうのに他人の願いなんて顧みる気にはなれない筈だ。オレだって渡日してすぐの日は、多少のことで仕事ができたなんていってくるんじゃねーぞ、ってオーラを振りまいてて大層うざい、と前に部下にいわれた。そういったって何かあったらもちろんボスとして対処しているし、大体どれだけうざかろうが遠慮なんてしてくれない癖にたいしたいいぶんだと思うが。
 だからまあ彼らも是非お気づかいなく、幸せな一夜を過ごしてくれとそう思うわけだ。その何とかいう情けない男だって、久しぶりに家に帰って妻と会って、きっと他人のことなぞ考えている場合では………と、そこまで考えて気づいた。天の川を渡る、ってどちらが渡るんだろう? ついつい自己投影してしまったせいか、それとも日本の古の婚姻形態は通い婚であったといつだったか本で読んだ記憶があるのでそのせいか、単身赴任した男の方が妻を訪ねるのだとばかり思っていたが、よく考えなくても牛飼いなんて職業は土地に密着したものだ。妻を取り上げられた揚句引っ越せなんて、いくらなんでも首肯しないことだろう。
「ねぇ」
 妻の側が引っ越すか実家に帰るとかで、年に一回夫の元を訪れる、とそういう話も不思議ではないわけだ。
「ねぇ、って」
「へ? ああ恭弥。どうした」
「だから、聞いてないの? もうすぐ並盛も夏休みなんだよ、って」
「あ? ああそうか。長い休みだもんな。楽しい時期だな」
 そういえばヴァカンツァの季節だ。イタリアではもっと早くから学生は休みを満喫しだすからさっぱり忘れていたが、日本でも、夏休みには長期休暇が約束されているのだろう。普段から土日でも学校にいるような子どもだけれども、勉学を離れる時間も子どもにとっては大切なものだ。ぜひ掛け替えのない体験を持ってほしい………ほら、あれだ、カブトムシを咬み殺すとか。こちらはマフィアという職種に従事する人間として、学生ほどの休みは保障されていない。イタリアでは休みの長さは企業それぞれの判断に基づいており、また会社そのものは運営していて、交代で休みを取る、という体制が殆どである。うちはかなり個々の負担が多い職種であるし、名目上は家を持っていたりアパルタメントを借りていても、本部で寝泊まりして帰宅しない日々が続いてる、みたいな連中も少なくないから、普通の企業よりは長い休みを保証する、という体制を取っている。とはいってもそれは一般的なファミリーの人間の話であって、仕事自体は間断なく運営されている以上、オレや、遺憾なことに幹部の一部にはどうしても過剰な負担を強いる状況になってしまうのだが。だがそうはいっても、一年の他の時期より休みが約束されているのは本当で、多分、大きな問題がなければ、来月はいつもより多く日本に滞在できることだろう。恭弥だって普段よりは時間があってしかるべきで、きっと上手くいけば海か山か川か………修行ってだけじゃなく交遊を深めるために滞在したりできる筈だ。
「だから、あなたがチケット取ってくるっていうなら」
「チケット?」
「そっちに行ってもかまわないよ、って」
 ほんの数分前まではこれ以上はとても不可能だとオレが考えていたよりも更に赤くなった頬。それとも悔し紛れ睨みつけられた、その眼光だろうか。
「ちょ、や………………ん!」
 何に狂わされたのかはわからない。まだ何かを喋ろうとしていた、その唇の隙間に、気づいた時には舌を差し入れて思いきり貪っていた。いともたやすく、天の川だかルビコン川だか、ユーラシア大陸だかを飛び越えてしまったオレの織姫を。
「や、…………やぁ!」
「ん………………きょうや」
「やだ………って!!」
「って、ちょ、うわ!」
 ばっちーん、とやられた。両頬をだ。いつだってトンファーを手放さない、殴るとしたら当然親指を中に内包することを常識とする人の攻撃と思えば、むしろかわいいと思ってしまう程にはオレの脳はやられている。
「あ、す、すまん! 恭弥!! オレついかあっとして…」
「別に………これくらいなんでも、ない」
「そ、そか?」
 何てことをしてしまったのだ。思わず火照った頬をおさえる。ああきっと赤く腫れて、明日には部下たちにからかわれるに違いない。正直大して痛くもなかったのだけれども、そうでなければどうしてここまで熱を持つというのだろう。
「平気、だから」
「え、ちょ………恭弥」
 もうこんなことしないとか、イタリアになんて行かないとか怒りに任せていいだしても不思議でない人がぎゅうとしがみついてきて、抱きしめ返す以外に何ができる?
 だがわかったのは人間の、いやオレの欲深さだ。こんな子どもに、過ぎた行為を教えるのはまだ早いというオレの考えは未だに変わっちゃいない。だが一つ願いが叶うと、どうして次も、その次もって具合に新たな望みが湧いてきてしまうのだろう? いけない。こんなことではいけない。イタリア。オレの、そして恭弥のヴァカンツァ。とんでもなく苦しくて、でも何より幸せなものになるに違いないそれに思いを寄せて、オレは腕の力を強めた。











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