白夜の吸血鬼


「恭弥ー。そろそろ起きねぇ?」
「んー………」
「体がなまっちまうぞ。この寝太郎」
「む」
「ほら夜だぞ。夜ごはんの時間だぞ」
「………うう」
 眉間に皺を寄せて、ぎゅうぎゅうと閉じられていた瞼が薄く開いた。漆黒の闇に似た黒が見えて、あ、やばいと思った。この国に来て、そして夏になってからこちら殆ど見ていない色だ。空の色としても、恋人の目の色としても。
「ん」
 鼻から洩らすような声を出して、恭弥はオレの首筋に吸いついた。小さな痛みが走って、それからちゅうちゅうと何ともかわいらしげな音がする。
「ハンバーグもあるんだぞー?」
「んー………」
 恭弥はいやいやと首を振って血液を摂取する業務に戻った。血を吸われるのは構わない。他の奴のものなど吸われるよりはるかにましだし、恭弥はひどく小食で、しかもこの頃は体を動かすことも少ないせいか本当に少量な血しか必要としてはいないらしい。だがハンバーグの「ハン」と聞いただけで目を輝かせるこの子どもの反応としては特異なものだった。
 常夏の南の国からこの国に移住してきたのはほんの数か月前のことだ。小さいが信者数はそれなりなこの古い教会を任せたいという話を聞いた時は、正直当惑した。もちろん、自分の力が必要とあれば、どんな理由があろうとこの身を投げ出すのは神に仕える者として当然のことだ。この国ではプロテスタントが主で、国教ではない我が宗派の教会はどれも規模が大きいとはいえないけれども、いうまでもなく自分の役割として期待されているのは布教ではない。乱暴な言い方になるけれど、自覚無自覚にかかわらず、その良心の中に神がいるのであれば、宗教や宗派の違いなど何ほどのものであろう? だがこんな考えを口にするつもりはなかった。この国の少数派として信仰を得ている人たちのために尽力するのが自分の役割だ。否やなど唱える筈もない。
 だが、あの南の国を離れることを手放しで歓迎したとは言い難い。常夏の国、教会の畑で採れる豊富な農作物、豊かな自然、家族のように親しくなった信者たち。それらももちろん理由の一部を占めてはいたが、何とも罪深いことに、オレがあの国を離れたくなかった理由はただ、一人の少年と離れたくなかった、それだけのことだった。罪深いことこの上ない。許される感情ではないのだ。オレは還俗まで考えて、だが彼はずっと暮らしてきた古い城も生活も捨てて、移住に同意してくれた。
「くわねぇの?」
「いい」
 背中を撫でながらも僅かな望みをかけて聞いたが、即座に否定された。ごろりとベッドに横になる。
 この国に来てすぐの頃はよかったのだ。大きな問題もなく信者たちにも受け入れられたし、生活にも不便はなかった。恭弥の好きなココナッツジュースは流石にこの国では作られていなかったけれど、定期的に取り寄せることは可能だったし、海産物が豊富な国とはいえ牛肉が手に入らないわけもなくハンバーグも作製可能だった。それに、サワーライスに特産のスモークサーモンを載せて出してやると、ずいぶんと喜んで食べてもいたのだ。
 だが夏が来て、そして白夜になった。吸血鬼である恭弥は、伝承の怪物のように陽の光を恐れるわけではない。浴びたからといって灰になるわけでももちろんない。多少ひりひりするようなことはいっていたが、あのほぼ一年中夏の国にいた頃だって平気で外を闊歩していた。だが昼となればそれなりに体力は落ちるし、それ以前に毎夜闇の中で力や能力を回復させていた側面があるらしいのだ。いやそれは、人だって多分同じなのだけれども。
 そんなわけで白夜に入ってからの恭弥はほぼベッドの上でうつらうつらしている。弱っているというよりは体力を温存しているのだとわかってはいるし、本人にもそういわれた。吸血鬼なら棺桶で寝た方が暗くて体力も回復できるのではないかとも思うが、そういうわけではないらしい。というか、そんな別のところで寝られたら寂しくてオレが死ぬ。
「シャワーでも、浴びるか?」
「いー………」
「く、ねぇよ。な?」
 夏といってもずいぶん涼しい北の国だ。自分だったら確かに、なんだかんだで疲れていたりなぞしたら省略したいと考えたことだろう。だが恭弥は普段ひどく綺麗好きで、それを知ってるからこそ不安になった。
「なあって」
「………っるさ」
 きっ、と睨みつけられて喜んでいる自分は大馬鹿者だ。だがこの目だ。この目。闇と同じ黒の色。
「………………るの?」
「へ?」
「するの?」
 その目に見惚れていると、白い足の甲がするりとオレの頬を撫でていった。
「な!! おま、え」
「………変な顔」
 小さく笑うと恭弥は、ゆっくりと体を起こした。頭が沸騰しそうだ。いやそれはもう、このところずっとそうだ。
「しねぇよ。だめだ」
「どうしていまさら? 別に病気じゃない。短い間のことだよ」
「だからって、大事にしなきゃダメだろ」
 恭弥は黙って、もう傷口すら残っていないはずのオレの首筋にキスをした。そしてきちんと目を開けてオレを見た。ああこの色。それだけでオレは自分の箍がはじけ飛んだのがわかった。いやはじめからそんなものありはしなかったのだ。
「恭弥、ああ恭弥」
 足を開かせ、太腿の付け根に噛みついた。どくどくと血が脈打っているのがわかる。それに妙に興奮した。
「ね、………ねえ」
「ああ、大人しくしてろ」
 既にかなり肌蹴ていた襦袢の帯を外す。露わになる、白い肌に描かれた赤い柄に眩暈がしそうだった。鬱血の跡。享楽の印。薄い被膜越しにオレにはけして味わうことのできない妙なる美酒が溜まっている。せめてそれが消えないように、上から舌で嬲り、吸った。
「ディー、ノ」
「恭弥。ああおまえ、オレを吸血鬼にしちまったのか?」
「して、ないよ、まだ」
 漏れる息の隙間からそんなことをいう、つれない人の指がオレの髪を弄った。
「あなたなんて、インキュバスがいいとこじゃないか」
「………はは」
 返す言葉もない。カーテン越しにも薄く日の光が入り込むこんな部屋で、オレはずっと恭弥に溺れている。流石にミサや大きな仕事は放り出してはいないが、それだって多大な自制心の果てに何とかこなしているだけのことだった。恭弥はずっとうつらうつらしていて、下手すると食事すら食いそびれそうで気が気でなくてずっとそばに付いている。
 普段ならば陽の光の射しこむうちから体を重ねるなどとんでもない。全くしたことがないわけではない、ないわけではないが、自分にも神に仕える者としてのせめてもの良心のようなものがあるのだ。だが、陽に晒される白い肉体、恋人のかつてないほど大人しげな様子、そんなものはなんとか耐えきれても、あの黒い瞳、闇を溶かしこんだような目の色が自分の前で露になるだけでもう駄目だった。
 ああなんてひどい人だ。小悪魔。吸血鬼。せめて同じ存在になりたいと切望している男をインキュバスにしてしまうなんて! あのふしだらな下級の悪魔はどんな悪行を行うんだったか? ああそうだ、確か睡眠中の女性を襲うのだ、全くいいえて妙ではないか。我が恋人は今はその蕩けたような黒い瞳にオレを映しこんではいても、しばらくすれば眠りの中に引きこもってしまうのだ。
「ディー、ノ」
 細い指が愛しげにオレの首筋をなぞった。なんということだ。本人すらもはや許されるはずはないのだと切って捨てた神という存在に、邪悪なはずの吸血鬼が縋っている。
「あなたは神様と仲良くしてる方が似合っているよ」出会ったばかりの頃彼はそういったのだ。「しばらくの間なら僕は待ってあげる」。オレの覚悟はもう決まっていたというのに。
 インキュバスは他にどんなことをしたのだったか? 溶けた思考の中でオレは思い返す。そう、眠りの中にいる女に精液を注ぎ込んで、悪魔の子を妊娠させる。
「ディ、ノ。………ね」
「ああ、………わかってる」
 恭弥は吸血鬼で、それ以前に男だ。そんなことはわかっている。全くどれだけの意味があろう? 吸血鬼とインキュバスの子どもを作る。それが叶うまで、いやそのあとも離しはしない。オレは僅かに残った白いままの肌に唇を寄せ、愛しい人の名を呟いた。

















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