一昔前
に流行っただろ?バウリンガルだかミャウリンガルだか。あれのボンゴレバージョンの最新機種だ。そういって禍々しいばかりの微笑を浮かべながらオレの元家庭教師が差し出してきたそれを、恭弥は大人しく受け取った。何の変哲もない黒のヘアバンド、といいたいところだが残念なことにそいつには二つの三角の飾りがついている。多分これがもっとちゃちくて丸い飾りだったとしたら、ねずみの国の土産か何かだろうと微笑ましく思ったかもしれない。だがこれはどうみても彼らの天敵だろう動物の耳で、おもちゃというにはあまりに精巧に、まるで本物みたいに出来ている。
 ちなみにオプションだということで尻尾もあった。アンテナ、だそうだ。実に胡散臭い。わが師には並々ならぬ恩義を感じているし、師弟関係を解消した後も何くれとなく世話になっている。だが彼が懐からそれらを取り出したとき、いやもう疑う余地もなく、罠だ、と思った。からかってるだけだろう、どうみても。なんとも悲しいことだが体を張った経験の積み重ねによる理性的な判断である。
 だが恭弥はそうは考えなかったらしい。動物の気持ちになれるんだぞ。リボーンが囁いた言葉はまるで呪文のように効いたようで、一も二もなく頷いた。あの恭弥が。オレとしたら、全く納得がいかない。どう考えても自分のほうが誠実で真っ当で親身に頼りになる家庭教師である。説得を試みたのだがリボーンに側頭部に蹴りを入れられただけで終わった。っていうかこの状況なら、まずトンファーを構えて睨みつけてきそうな人は何の反応もない。僅かに口元を緩めて例のブツを宝物のように両手で握り締めている。
 うん、これはもう仕方がない。どう考えても反対のしようがないではないか。それに恭弥は大事なボンゴレの雲の守護者で、リボーンだってそうそう性質の悪いものを押し付けてきはしないだろう、多分。そう考えてオレはしぶしぶ了承した。オレの了承がこの場でどれだけの意味があるのかは謎だが。歩く災厄が窓から去ると、わくわくと恭弥は携帯で草壁に応接室の人払いを命じる。耳をつけたまま猫を探しにいこうとするのは必死で止めて、オレは部下に猫の入手を頼んだ。
 で、この状態である。応接室で。ふたりきりで。猫耳。なんだこれ。
 それなりに時間は経過しているのだが、部下は未だに帰ってこない。さもありなん。ペットショップで買ってしまえば簡単だが、オレが日本で飼うことはできないし、恭弥も無理らしい。だから野良のやつを捕まえてきて、恭弥がしばらく遊んだ後に、みつけたのと同じ場所に帰してくれと頼んだのだ。だがなかなか難しいのだろう。どこにいるかもわからないし、みつかったらみつかったですばしこいし、銃を構えてフリーズ、と命じたところで聞いてくれはしない。うんそう考えると、本当に効果があるならあの猫耳はかなりお役立ちかもしれない……って、いやそうじゃない。
 大きく息を吐いてオレはちらり、と恭弥のほうに目をやった。もう仕事気分ではないようでぼんやり椅子の背にもたれている。まあそれは珍しいことではない。真面目ではあるがいつも結構な気分屋だ。問題は頭上に鎮座ましましているその飾りのほうである。ぴく、と僅かに動いた気がして目を見張った。気のせいだろうか。風とか。
 って。
 
とんでもなくかわいい。
 ついでに思い切り凝視してしまって息を呑む。いやいやかわいいのはいつものことだ。問題ない。こう見えてもオレは結構な規模のファミリーのボスである。常に平常心を保つぐらいのことが出来なければやっていられない。大体かわいいものをすごくかわいいものに足せば、とんでもなくかわいいものになるくらいは小学生でもわかる論理である。驚くほどのことではない。こう見えてもオレはマフィアのボスなのだ。そうだ。
 さっきわが弟子がいそいそとあれを装着した時だって、オレは非常に平静だった。奇声も上げなかったし、床に崩れ落ちたりもせず二本の足で立派にたっていた。飛びついて抱きしめたりもしなかった。簡潔かつ明瞭に非常にかわいらしいという旨の感想を伝えただけである。厳格な元家庭教師だって、これをみれば成長したと感涙に咽ぶに違いない……っていやそれはねぇか。ねぇな。
 とにかくオレはいたって平静だった。師匠の威厳を守るためには取り乱すわけにはいかないのだ。甚大なる努力の果てに穏やかな笑顔を浮かべて見せたオレに、恭弥はふんと鼻を鳴らして見せた。かわいくない。かわいい。うん、これもいつものことだ。
 ふわあ。みれば恭弥は大口を開けて欠伸をしている。遠慮の欠片もない、大仰なやりようだ。喉の奥まで見えてしまいそうな。それだけ眠いんなら寝てしまえばいいじゃねぇかと思うのだが、恭弥は躰の要求には従順なくせ、時折思いついたように抗って見せる。重そうな目蓋と釣りあがった眦。そういえば寝るのが仕事みたいな我が国の港近くに住む野良たちも、時折こんな表情を浮かべている。こんな大きな欠伸も、猫らしいといえば猫らしい。そしていつもどおりの仕草でもある。
 ぺろり、と赤い舌が覗いて上唇を舐めていった。これもまた猫っぽいといえば猫っぽいが、いつもの見慣れた仕草だ。うん、何を取り乱すことがあろうか。
「何?」
 いつもどおりの調子で恭弥がつまらなそうに声をかけてくる。まだとろんとした、眠そうな目つきだ。
「何って何が」
「変な顔」
「……むう」
 
それはいけない。とりあえず頬を叩いているとわが想い人が笑いながら立ち上がった。恭弥、声をかけると殊更にゆっくりと近づいてくる。焦らしているのかもしれない。
「あったかい」
 オレの頬に触れて暖を取るその冷えた指を握った。何でおまえそんなにかわいいことを。いやかわいいのはいつものことだ、いつものことなのだが。この神聖なる応接室で行為に及ぼうとすれば、ほぼ確実にお怒りになることは今までの経験で知っている。いやそうでなくとも、オレが動揺するのを見るのが面白いのだろう、時々妙に積極的に振舞ってくるくせ、こっちが調子に乗るとこんなとこにとんでもなく汚らわしいものが落ちてる、みたいな視線を投げかけてくる。あれはちょっとへこむ。こういうととんでもなくひどい奴みたいだが、いや実際ひどいんだけど、オレは恭弥のそういうところが嫌いじゃない。後先考えずに興味津津で、そして試してる。その相手が自分なことが嬉しい。
 だが今はそれどころではない。断じてそれどころではないのだ。部下たちはまだ帰ってこない。彼らは今、平和な日本の住宅地で野良猫を捕まえる、という下手な暗殺よりも難易度の高い任務を遂行中である。もちろんオレは彼らを信頼している。きっとうまくやってくれるだろう。だが、堅気ではございません、とわざわざ日本語で顔に書いてあるような厳つい男たちのことである。職質でも受けていないだろうか、通報でもされていないだろうかとついつい要らぬ心配をしてしまうのだ。また猫という生き物は、あまりこう、道の真ん中を堂々と歩いていてくれはしない。民家の裏庭とか、公園の花壇の隅とか。うん、それらとあいつらを合わせると、どっからどう見ても不審者だ。
 いや野良ならまず飲食店の裏口辺りにもいるかもしれない。繁華街の路地とか。あいつらだって自分の容貌はわかっているだろうし、そういうめだたない場所から探すことにするだろう、そう考えてほっとして、だがすぐに気づいた。ここは並盛である。
 小さな街のことで、そう栄えた繁華街でもない。そして秩序様が厳しかった。以前たまたま近くを通りかかったときは丁度緑化計画が進められているところで、キャバクラや立ち呑みの店の前には躑躅の美しい植え込みが整備され、街路樹の花水木が満開だった。建物の壁には落書き一つ、ピンクチラシ一枚もなく、ネオンも控えめだ。五時に童謡の放送が流れるまでは下校途中らしい赤いランドセルを背負った女の子たちが楽しそうにおしゃべりしながら道の真ん中を歩いていた。そして建物の入り口あたりで、限界まで躰を小さくしていたダブルのスーツの客引きたち。年齢的にも性別的にも職種的にも、この水商売の男たちのほうにより感情移入してしまったオレはなんとも居たたまれない気分になったものだ。寄付金は潤沢にもらっているから、基本的に繁華街には介入していないというのがそのとき見回り中の本人の弁だが、あれが繁華街っていうんならヴァチカンなんてソドムもいいところだ。
 もう一度、圧政者は豪快に欠伸をして、オレの肩に片手を置いてソファに乗りあがった。てっきり猫らしく丸くなるのかと思えば、思い切り躰を伸ばしたまま横になる。つまりオレの膝の上には引き締まった太腿が二本行儀よく並んでいる状態で……これは触っても良いということだろうか? だがいまオレはそれどころじゃなく、いや本心からそれどころじゃない状態なんて恭弥と出会ってから一秒たりともありはしないのだけれどもそれはそれ、部下の安否を気遣うマフィアのボスなのだ。最悪警察に捕まったところで金にコネ、やりようはいくらでもあるのだが、異国で慣習も違うだろうし正直避けて通りたいのが本音である。ていうか今オレがこの頼りないこと極まりない理性の糸が切れるのに任せて何がしかの行いを遂行した場合、並盛の秩序様のご要望にお応えすべく猫を追っていたのだという言い訳は果たして警察の方々に通るのか否か。
「……ねえ」
 囁くような声に思考実験が停止させられて視線を上げると、オレの手は主の意向を無視して恭弥の喉元を無遠慮に擽っているところだった危ねぇ。
「違うよ。……もっと」
 唇の端を引き上げて、恭弥はつい引っ込めたオレの手をとった。これはもうあれだ。とりあえずそうだ。少なくとも最後までやらなければそんな自信など毛ほどもないがまあとにかく機嫌を損ねはしないだろう。オレはつい身を乗り出し、しかし恭弥はそこで握った手を引き寄せて自分の喉元にあてがった。目を細め、躰の力を抜いて息を吐く。かわいい、だがこれもいつもどおり……じゃない。これじゃ本当に。
「恭弥、なんかいつもと……違ったりするのか?」
「違う?」
「感じ方とか……考え方とか?」
「何それ」
「……ほら、猫っぽかったり」
「まだ猫が来てないから猫がどう感じてるのかわからないよ」
「いやそうだけど」
 強請られるまま、顎の辺りを擽ってやりながら聞く。精神の修練になりそうだ。いや無理だ。恭弥はリボーンの説明を疑っていないらしく、何当然なこと聞いてるの、みたいな態度である。
「……ああ、そうだね、眠い」
「いやそれいつものことだろ」
「いつもじゃないよ。それにいつもより眠い」
「へえ」
「あと……おなかがすいた」
「……出前でもとるか、ここ動けねぇし」
 オレの右手に懐いてる人の丸っこい頭を、もう片方の手で撫でた。仏教で不浄な手とされているのは左だったか、右だったか? 日本は確か土着の神と同時に仏教にも影響を受けている。雲雀恭弥と宗教なんてとてもとても関連付けられないけれど、こんな反社会的団体の長になるべく生まれたオレだってそういった事柄から自由ではない。
 
オレの手は生憎両方とも既に汚れていて、それでも何度もオレは彼に触れた。正と邪、浄と不浄。相反するものが存在する、それは多分人間だけのものだ。幼いころは潔癖なまでにマフィアが是とする所業を許せなかった。ファミリーを継ぐ時に納得しなくても無理にそれらを飲み込もうと決めて、そして今、いやいつも、恋人の前でオレは相反する感情を携えている。汚したいけれど汚したくない。恭弥が知ったら何を今更と笑うだろう。僕は何にも汚されたりしないよ、とそんなかわいくて嬉しくて寂しいことを多分きっといってくれることを知っている。
「眠い?」
「さっきからいってるだろ」
 何とかオレはすべてを飲み込んで、滑らかな頬を撫でた。本当に、今にも眠りに落ちそうな顔をしている。猫っぽい。だがいっていることはいつもと変わらない……気がする。どうにもあの赤ん坊姿の理不尽が持ってきたものと思うと半信半疑だ。とりあえず出前の注文はハンバーグ弁当よりも寿司にしておいたほうがいいだろうか。
 もうすっかり耳慣れた、恭弥の一番好きな歌が聞こえる。ぴくり、と例の耳が。驚いて見つめていると、膝が思い切り腹に入った。
「おまえ、なあ」
「いいから」
 何がいいんだ。だが渋々立ち上がって窓を開ける。ああ今日はとてもいい天気だ。ドライブ日和。明日もこんな陽気なら、どこか景色のいいところに出かけようと誘ってみようか。
「ああ確かに違うかもしれないね」
 唐突に先程の会話を再開したらしい。振り向くと墨を垂らしたような瞳が陽の光を浴びて光った。
「……いつもよりすごく魅力的に見えるよ」
 衝撃的な台詞に身悶えしそうになる。未だかつてかれに恭弥がこれほど熱烈に誘惑してきたことがあっただろうかいやない。抱きしめようと一歩踏み出して、しかしオレはそこで彼の視線の行方に気づいた。
 
踵を返して一度閉じた窓をまた開ける。強敵と書いて友と読むにはちょっと語弊があるライバルに情けをかけたのは、己の身の内に実はあった博愛の精神ゆえか単なる嫉妬か。だがきっと恭弥は、こんな玩具の所為でペットを咬み殺したら、さぞや悲しむことだろう。
 
黄色い鳥が校庭の向こうの木立の辺りまで飛んでいくのを確認する。しばらく帰ってこないでいいとか、考えたのは内緒だ。
 正直多少不機嫌なまま振り向くと恭弥は声を殺して笑っていた。失礼な。我が葛藤をなんと心得る。潤んだ瞳のまま、ちょいちょいと手招きされて、いいたいことはあるのだがオレは逆らわなかった。ぎゅう、と抱きしめる。その背はまだ細かく震えていて、落ち着かせるように撫でた。かわいい。いつもどおりだ。いつもどおりのオレのかわいくて傍若無人な恋人。
「ねえ」
「ん?」
「騙されただけなんだよ、あなたも僕も」
「そうか?」
「そうだよ」
 耳が動くのは確かに見た。気の所為かと思うほど今は落ち着いたままで、長い尻尾も上を向いたまま固定されている。だがどうにもそうは納得できなくて、でもつけていた本人がそういうなら本当なのだろうか。しかし本当にそうなら、あの赤ん坊姿のヒットマンにもっと不満を持ったっていい。オレはついつい無遠慮に恭弥を見遣って、本人はあからさまに眉を顰める。かわいい。ああそれもいつもの。気づけばオレは腕に力を入れている。
「最初からそうすればいいんだよ」
 挑戦的な物言いに苦笑する。かわいい。そしてやっぱりいつもどおりだ。いつものこと。
 だが焦れたように袖を掴む、不満気な恭弥に気づいてしまう。多分恭弥は、取り乱していない(ように見える)オレが気に食わないのだ。今日はそうそう大人ぶって振舞えたわけじゃないことぐらいオレだってわかっちゃいるが、相手は恭弥だ。行動の真意を読めなんて要求、半年分くらい授業課程の先を行っている。顔を見ようとすると、向こうからぎゅう、としがみつかれる。でも無駄だ。もう全部見えてしまった。この甘えたがり。これもいつもの。そしてうん、いつもどおりならオレがいつもどおり振舞っても問題ないわけだ。頬に唇を落としながらそう考えて、オレは少し笑った。





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