密かな片恋の相手に電話を掛けたのは夜半、もう日も変わろうかという時分のことだった。
 明日は一日ずっと、いや後処理も考えればその後の半日ほどももはや付き合いとしかいいようがない宴に忙殺される予定だった。日頃の感謝と礼を。そんな気持ちもないではないが、実際に心の底から礼を述べたい部下達は忙しく立ち働いていて、結局は親交のあるファミリーの人間や政財界の御歴々を接待する場となる。まあその裏で寄付金を募ったり事業への出資を呼びかけたりと利得がないわけではないから、どこのファミリーもトップや幹部のために機を見ては酒宴の席を設けようとするわけだ。一応体面というものもありそうそう安く上げるわけにもいかず、収支はとんとんといったところが現実なのだが。
 そんなわけで明日のために先回りして仕事を進めていて、ここ何日かまともに寝てもいない。だが宴の場で主役が大して盃を返しもせずに意識を失ったりしたら沽券に関わる。今日はきちんと睡眠をとろうとして、だが眠らなければ眠らないほど眠くなくなるとはいったいどういうことなのだろう。ベッドに潜り込んだもののさっぱり眠れず、酒の力でも借りようかとサイドボードから取り出したコニャックを飲み干して、だが酒精が奪ったのは意識ではなく理性だったらしい。気づけばオレは携帯を開きアドレス帳の「folletto」の番号を呼び出していた。小妖精、腕白な子ども。日本語に訳するならそんな意味合いの単語、本当にそれだけの存在ならよかったものを。いや、そんな単語で登録していた時点で、アウトというか思考回路がかなり痛い状況になっている自覚はあるのだが。
 呼び出し音が鳴りはじめた時点で我に返った。だが今切っても着信履歴は残るはずで、どう説明すればいいか。頻繁に日本を訪れて強請られれば戦ってやって、それなりには懐かれているとそう考えたいわけだが、少なくとも理由もなく突然電話を掛けて不審がられないほど距離を縮めてはいない。そんな理由で躊躇った数秒後にはもう応答があった。たぶんあの他にこんな曲を着信音にしている人間はおりませんと主張してまわっているような、個性的な旋律が元凶なのだろう。大なく小なく並がいい。あらゆる意味で「並」という言葉とは無関係に見える人の愛する歌だ。
「もしもし」
「うあ! 恭弥か? わり! ごめんな!!」
「……何? なんだか判らないけど咬み殺すよ」
「……判んねーなら咬み殺さないでくれるか? よう、恭弥」
「うん」
「元気か?」
「まあまあだね」
「今何してる?」
 驚きだといっていいほどスムーズに進んだ社交辞令に気が抜けて、気づけばどうしようもない質問を繰り出していた。何をしているからどうだっていうんだ? フェミニストを気取ってみても所詮は仕事人間、その他のプライベートの人間関係は二の次三の次である。過去付き合いのあった女性たちから深夜にこんなくだらない電話がかかってきたら、速攻でうんざりして関係を切りたくなったことだろう。いや向こうはもう夜ではない、朝、多分学校に着いている。だからといって迷惑でない時間帯ではなく、そっけない対応を予想して首を竦めた。
「悪い。学校だよな、見回り中?」
「……違う」
「まだ授業は始まってないよな」
「授業中だったらそもそも電源を入れてないよ」
「おお」
「公共の場でのマナーを守れない輩は咬み殺す」
 
そもそもお前は授業に出ているのかだとか、そういう基本的な問いは口にしないでおく。口煩いと思われたくないということもあるが、自分も勉強熱心とはとてもいえなかった身の上だ。
「じゃあ日誌書いてるとこか?」
「それは放課後。……ねえ、あなた本当に知らないんだ?」
「何が?」
「なんでもない。あなたこそこんな時間に何してるの。もう寝たら?」
 イタリアと日本の時差は八時間。ちょっと調べれば判ることだ。だが恭弥がそのちょっと調べる労をとるとは思いもしなかった。少しは自惚れてもいいのだろうか。
「眠れないんだ」
「眠れないの」
「ああ」
「よくわかるよ」
「お前が?」
 受話器越しに聞こえる嘆息。眠りが浅いだとかなんだとか聞かされた覚えは確かにあるが、修行中にみた限りではいつでもどこでもとんでもなく眠る子である。
「眠れない」
「いやおまえ今から寝るなよ。ほら、まだオレ正解当ててねぇし」
 寝たければ寝たい時に彼は寝るだろう。今にも通話を切られてしまいそうな気がして、必死で止めた。何をしているか知りたい? ああそうだ、自分がまさかこんな詮索好きな性格だったなんて知らなかった。だが何よりも電波だけでもいいから繋がっていたかった。全くどうしようもない。
「きょうや」
「ん」
「話があるんだ」
「そう」
 返答はそっけなく、だがこれは「聞いてやるからいいなよ」ということだ。つん、と顎をしゃくる仕草まで思い浮かんだ。口を開こうとして、だが躊躇った。いや、断じて臆病風に吹かれたとかそういうわけではなく、また今ではない別の時なら勝率が上がるとかそんな可能性も低いのだが。
「いや、わり。今はちょっと。……ちゃんと顔を見ていいたいんだ。待っててくれ」
「そう」
「……何の話すんのか、聞かねーの?」
「だからそれは今度会ったとき話すんだろ」
「そうだけど! ちょっとは興味もって欲しいっていうか、いつ日本にくるんだくらい聞けよ」
「そんな先のこと興味ないよ。もう寝たら」
 あんまりだ。言ってることは正しいのだが、いくらなんでも。既に振られた気分でオレはコニャックをもういっぱい呷った。
「お前は?」
「僕はいい。何してるのか、わかった?」
「……いや」
「お風呂はいってた」
 ぐは。
 これは新手の精神攻撃かと。いや物理的攻撃でもあるのだろうか。酒が器官に入って滅茶苦茶痛い。さんざっぱら咳き込んだあとオレはまた受話器を掴んだ。湯上りの。パジャマの。修行中旅をしていたときに何度もみて、だからこそリアルに頭に浮かんで非常にやばい。何であの頃のオレは一応は平静を保つことができていたんだろうか。ああ多分記憶の改竄というやつだ。何ぼなんでもここまでエロっちいはずがない。相手は中学生男子なのだ。
「お前……何でそんな」
「寝る前にお風呂に入るのは当然でしょ。そりゃちょっと遅くなっちゃったけど」
「いやでもこんな時間に……」
 本気で寝る気かといおうとしてとめた。当たり前のようにこちらの時刻を知っていて、あの知りたがりで待つことの嫌いな恭弥がこちらの話を聞こうともせず、お風呂。
「お前今……イタリアにいるのか?」
「……うん、やっぱり知らなかったんだ?」
 くすくすと笑っている気配がする。そりゃ滑稽だったことだろう。見当はずれなことばかりいっていた。眠れないって時差惚けか。たしかにそうでもなければ、雲雀恭弥がこんな時間に起きているはずもない。受話器の向こうからはドアを開ける音や動き回っているらしい様子が伝わってきた。慣れない国で落ち着かないのだろう。
「恭弥。お前並盛離れてもいいのかよ?」
「たまにはね。非常事態を仮想して、対応を訓練中なんだ」
「非常事態?」
「僕が死ぬとか」
「恭弥」
「そうでなくても動けなくなるとかね。あなたのところではそういうことはしないの」
 やってる。だが自分の問題なら平気でも、恭弥がそうなることも、そうなる自分を考えていることも嫌だった。
「……で?」
「で、って?」
「だからって本当に日本からいなくなる必要はないだろ。何があったんだ? オレに力になれることがあるなら」
「……赤ん坊に航空チケットをもらってね」
「へ?」
「明日なんかパーティーがあるんだって? それに出ろって。取引したんだ」
「取引?」
「思う存分戦ってくれるって。……あなたが」
「オレかよ。……きょうや。明日出てくれるのか?」
「手合わせしてくれる?」
「いくらでも」
「ふうん、本当に出て欲しいんだ」
 機嫌よさそうにしている気配が伝わってきて、それだけでオレも嬉しくなる。恭弥が。パーティー。退屈な行事の筈が途端に楽しみになった。
「いっておくけど手土産の類はないよ」
「何だよそんなのかまわねーよ。来てくれただけで嬉しいぜ」
「うん、赤ん坊もそういってた」
「……リボーンが?」
「ボンゴレの次期守護者が出るだけで箔がつくんだから堂々としてろって。僕は認める気はないけどね。……嬉しい?」
「嬉しいよ。でもそんな理由じゃないぜ」
「そう」
 あいつめ。たしか仕事で出席できない旨の連絡があった。だから恭弥を代わりに送り込んできたのだろう。オレが教え子をかわいがっているのは知っているから、労いだかプレゼントだかそんなつもりで。
「プレゼント」
「え!」
「もないよ。何驚いてるの?」
「いやまあ。気にすんなって」
「でも」
「パーティなんて人が多い集まりにお前が出てくれるってだけで充分だ」
「服もない」
「……わかった。明日すぐに用意させるな」
 なるほど。一般的な中学生は公式の場で着るようなスーツは持っていないのだろう。明日店から人を呼ぶとして、どこのブランドがいいだろうか。恭弥に似合う細身のスーツ。色はやはり黒がいい。小物や靴も用意しなければ。制服以外の姿を見る機会はほとんどなかったから、考えるだけで浮かれてしまいそうだ。
「赤ん坊がちゃんと用意してくれるって話だったんだけど」
「あー……あいつの話はあんま鵜呑みにすんなよお前」
「こっちについて開けてみたら赤いリボンが入ってただけだったんだ」
「……リボン?」
「別に赤ん坊が入ってたわけじゃないよ」
 だったら可愛いけど、とちょっとうっとりした風にいう。お前あいつの名前知ってたのか。っていうか悪い予感がなんかひしひしとするのだが。これって超直感ってやつだろうか。単なる刷り込みって気もするが。
「……中身はリボンだけか?」
「ううん、これをつけて僕がプレゼントだっていえって、メモが」
「………………へぇ」
「ネクタイ代わりってことかな。チケットって高いんだろうしね。でもこれでパーティーに出たりしたらまずいだろ?」
 ああまずい。オレの気持ちもあいつの思惑や年収も、密かな片恋の相手はさっぱり気づいていないようだ。だが、どうにもあの家庭教師には全てばればれだったらしい。やばい。絶対からかわれる。そしてなし崩し的に弟分にもばれている予感がすごくする。この感情を恥じるつもりは全くないけれども、この状況を恥じる準備はある。つまり教え子に手も足も出せずに狼狽えて。畜生、大体そういうことを企むなら最初から本人に用途をきっちり説明しておけ。諸手を挙げて喜んでやるから。
「ねぇ」
「……あ?」
「跳ね馬。誕生日おめでとう」
 ぼーん、と柱時計が重なるように鳴った。オレは呆然として、だが喜びは後から押し寄せるようにやってきた。ああもう構うものか。恭弥が。恭弥がオレにおめでとうと。
「恭弥」
「ん?」
「もっかい」
「やだ」
 予想の範囲内の対応だ。だがオレは引く気はなかった。さっきはあまりに驚いて声を記憶にとどめることも出来なかった。
「もっかい聞かせて。名前呼んでおめでとうっていってくれよ」
「やだ。要求が増えてるよ」
「なあ……いいだろ? ディーノおめでとうって、一回だけでいいから」
「やだよ。でも……顔を見ていってあげてもいい」
 当たり前のようにこちらの時刻を知っていて、あの知りたがりで待つことの嫌いな恭弥がこちらの話を聞こうともせず、お風呂。ちょっと待て。
「……きょうや?」
「ん?」
「お前今どこにいるって?」
 ベッドを抜け出し続き間のドアを開ける。客室があるのは東棟の二階と三階。いや西棟にも空き室はある。
「イタリア」
「じゃなくて」
「何あなた、教え子がはるばるイタリアに来ているのに、そこらへんのホテルにでも泊まらせるつもりなの」
「違うけど! どこの部屋だ」
「秘密」
 一応この家は代々のキャバッローネボスの邸宅で、つまりは今現在はオレのものな筈だ。その当主の教え子が訪れていて部下たちはそれを伝えない。黙って部屋を用意する。明らかに明日のパーティーのサプライズを狙ってて、つまりは。
「きょうや」
 がちゃり、とドアを開けると彼が立っていた。ああオレの記憶は改竄などされてはいなかった。黒の綿の、襟がパイピングされただけのシンプルなパジャマ。いつもは所々跳ねている髪がしっとりと湿っている。かわいらしく、だが同時にとんでもなく幼くも見えるのにどうしてこうもオレを惹きつけてやまないのか。
「おめでとう……ディーノ」
 躊躇った末に結局は名前を呼んでくれた。密かな片恋の相手。そうずっと思っていたけれど、実はさっぱり密かでもなんでもなかったらしい。だったら今度は片恋ですらなくするべきだ。オレは手を伸ばし、恭弥はさも愉快そうに笑った。
「ねぇ。顔を見たら話してくれるんだよね?」







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