草壁の失態



 脱衣所で濡れた体を拭きながら、男は満足気な溜め息を漏らした。
 今日は長年の友人と久しぶりに酒を酌み交わした。おごると言い張る友人を宥めすかして支払いは自分が持った。相手は年長者であるのだから、素直に甘えてしまったほうが顔を立てることになるのかもしれない。ほんの何年か前までは確かにそうしていたのだ。だが自分も今ではそれなりの収入があり、今までの借りを返す意味でもこちらが払いたいと思ってしまう。こんなことをいえば、その考え自体がまだ子どもな証拠だと、すぐに酒の肴にされてしまうのはわかっていたから黙ってはいたが。
 もう日は変わっている。正直帰宅したらすぐにも布団に潜り込みたい所存だったのだが、億劫がる体に鞭打ってシャワーを浴びた。長いこと同じ髪形をしているから朝の支度も慣れたものだ。だがなにぶん髪の長さがあるので、洗って乾かしてそれから指定の形に纏めるとなるとどうしても時間がかかる。寝る前に洗ってしまったほうが、まだ楽なはずだった。しかし濡れた床の上、ドライヤーをかけながらふわふわとした自分の足取りを自覚して、少し不味いかなとどこか冷静に考える。酒には強い性質であるし、流石に湯船に浸かるのは自粛したから大丈夫だろうと高を括っていたが、どうにもいけない。まあ後は自室に戻るだけだ。
 脱衣所を出るとその右の部屋は洗濯室で、あとはただ、委員達の部屋が整然と並んでいる。巨大な迷路のような建築物の中、居住スペースは一つに纏められていた。上司の部屋だけは少し離れて広く取られているが、地位と性質を考えれば当然のことといえる。そもそも寮生活は強制ではないし、我が団体のモットーにしたがって個室完備であるから、私生活はそれなりに気楽なものだ。いつもなら洗濯室はいつの間にか雑談場になっていて、むさくるしい男達が溢れているものだが、もう皆寝ているのだろう。常夜灯のみの廊下はひどく静かだった。
 何かが壊れるような音がした。そこまで大きなものではない。自分と同じく、まだ起きているものが居るのだろうと男は考え、そして気づいた。その音の聞こえた方向と、距離。
 狭い廊下。走り出してすぐ、まだ残っていた酔いを自覚する。スピードが出なかった。酒など飲むべきではなかったのだ。重大な自分の役目を考えれば、私生活などない。必要のないものだ。いくら友人があの人を伴って訪れたといったって…………あの人?
 思考がたどり着く前に見慣れた、風にそよぐ葦の描かれた襖に辿りつく。気ばかりは焦ってそのまま蹴破って中に入り込みそうだったが、それでも習慣とは恐ろしいものだ。滑り込むように正座をして声をかける。
「大丈夫ですか。何かありましたか」
「…………だれ?」
「どちらさまですか」
 返答も待たずに襖を開けて、いったん上げた頭をすかさず下げる。咄嗟に口に出た問いに対する答えは、一挙に酔いが覚めた自分の脳がすぐに与えてくれた。向こうはこちらに気づいてはいない。髪を掻き乱して走ってきたのだから当たり前だ。就寝前の姿など晒したことは今までない。このまま下を向いていれば髪が顔にかかるし気づかれることはないのではないかと、男は考えた。作り声で言い訳でもして、何とか穏便にここから去ることが出来ないだろうか。
 はっと脳裡に先ほど見た白い足が蘇える。いや、自分のような部下相手に羞恥心を持つような人ではないし、何より男同士である。着替えの場面など何度も目にしている。壊滅した敵のアジトで、血塗れたスーツを替える間、衝立兼見張りとして傍に立っていたこともあるのだ。だからむしろ裸のほうがまだましだったのだ。
「答えがないね。うざい長髪は嫌いなんだ。不審者は咬み殺す」
 ゆっくりと上司が立ち上がる気配がして、男は息を呑んだ。下手に攻撃を受けて気を失うか何かしてしまえば、即刻顔を確かめられてしまうだろう。右腕で顔をかばいながら何とかこの場から逃げ出そうと隙をうかがっていると、先ほどちらと見た限りでは床の間の前で倒れていた男が声をあげた。
「ん? なんだひでーな。恭弥がいったんじゃん、きらきらして見えるから長いほうが好きだ、きれいだって……あれ?」
「ちょっとあなたばかじゃないの、何いって」
「何だ、草壁じゃねーか。わりーな、恭弥のセーラー脱がそうとしてたら、躓いてこの壷割っちまった。片付けといてくれるか?」
「「!」」
 くしゃり、見目のよい顔を豪快に崩して、今は懐かしい並盛中学の旧制服に身を包んだ男が笑った。その横で俯いて、上司は震えている。
 廊下の奥の掃除道具入れから掃除機を運び入れ、何故ここまでと問いただしたいほど粉々になった李朝の白磁を片づける。所要時間三分。流石に壊した手前気を使うのか、騒々しく手伝おうとする学ラン男を制しながらの作業だと考えると、奇跡的な速さだといわざるを得ない。その間一度も下を向いたままの上司が口をきくことはなかった。
「失礼します。おやすみなさい」
 襖を閉め、残骸を入れた紙袋を抱えたまま溜め息をつく。いや何もいうまい。あの人が納得しているというのならそれでいいのだ。ていうか突っ込みたくない。
 多分上司は明日仕事場に顔を出さないだろう。まあ元々、あの男が訪れた時点で、予定のうちだったという話だ。男はもう一度溜め息をつくと、自室とは別の方向に向かって歩き出した。酒だ。もうすっかり酔いも覚めてしまった。飲まなければやっていられない。大体上司の不始末は部下の責任というではないか。
 
 明け方近くまで付き合ったあと、二日酔いの頭を抱えて自分の上司を起こしにいった友人は、麗しかった金髪が短く刈られているのを見て驚愕したらしい。気の毒なことだ。
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