「日本の夏って本当にあっちーよなー」
 クーラーの効いている部屋に入るなり長々と息をついた兄弟子は、そう零した。こちらは他国の状況は知らないが暑い。非常に暑い。息をするだけで暑い。そこらへんの感覚は、日本で六分の一世紀近く育ってきても、毎年新たに衝撃を受ける苦しさであったから、綱吉は大きく頷いた。
「どうぞ。麦茶大丈夫ですか?」
「おー! いいよな麦茶! 最近よく飲んでてなー」
 兄弟子がよく宿泊していた我が街最大のホテルもコンビニも、そうそう夏だからといって麦茶を売り出しなぞしない。それくらいは一中学生である綱吉にもわかるので、黙って我が家で一番いいタンブラーを手渡した。基本的に家にいないので記憶はないが、母の言ではあの父がよくウイスキーを注いでいたというグラスである。同じ茶色だからいいってもんでもないだろう。だが兄弟子は何をいうでもなく麦茶を飲み干して、さほど不自然な話ではないのかもしれない。
「うまいよなー。なんか、こう、滋養がある感じ? うちにもちゃんとそれ用のやかんがあるぜ」
「それ用?」
「ああ。なんか決まりがあるんだろ? すごくでかくて、サッカー部って書いてあるやつ。ケンジョウヒンだとか」
 やはりイタリア人である男の飲料として麦茶があげられる実態の理由としては、彼の若妻があげられるらしい。わかりやすく眼の裏に浮かんで、綱吉は思わず溜息をついた。
「いやもう、正直参ってる。恭弥は「心頭め、斯くすれば」とかいってよ? いろいろ武器を揃えてるんだがな」
「………武器」
 を揃えてる時点で滅却できてないのではないですかヒバリさん。
「でっかいひえぴたとか、かき氷とかアイスとか?」
「………ああ」
「その程度じゃ聞かないっていうか、もう暑くて。気づくと犬みてえに二人して舌だしてはあはあいってたりしてなー」
「あ、ポテトチップスとか、どうです? 海老煎餅もありますけど」
 見目だけはいい男二人のエピソードとしては、なかなか聞きづらいものであったから、綱吉は話題をずらした。兄弟子はきっとそれはもう大胆に我が部屋を汚してくれるだろうが、もういい。だいたい、今の時点で結構雑然としている。休み前に一度それなりに片づけたはずなのだが、長期の休みが終わる頃には、いやもう七月が終わった時点で汚れてしまっていた。幼児の遊び場と認定されている時点で汚れてあたりまえなのだし、あとは母の小言から耳を塞ぐだけの日々だ。
「ヒバリを前にしてはあはあいってるのはおまえなんじゃねーのか? このへなちょこ。随分御熱くやってるらしいじゃねーか」
 にやり、とわが凶悪なる桂三枝が、じゃない家庭教師が口を挟んだ。さあ聞き出してからかって遊ぼう、と目的が丸わかりの笑顔である。
 そういえば兄弟子が来るなり、妙に思わせぶりな口調で「いらっしゃい」だとかなんだとかいっていた。さっぱり似ていなかったので気づきもしなかったが、今思えばこの男が自分からイタリア語でない挨拶をしてくる時点で不自然なのだ。
「えー? お互い様だろこういうのは。むしろ恭弥の方が暑さには弱い気がするぜ」
 意図的なのかどうなのか、兄弟子はさっぱりわからない顔をして言質もとれなそうな返答をした。その表情には全く動揺も窺えない。かっこいいなあ、と綱吉は思った。いつか自分もそんな境地に達することができるだろうか? とても無理そうだ。いまだって突っ込みたくて仕方がない。
「話をそらすな。仲良くやってるんだろう、って聞いてるんだ」
「ああ。………うん」
 だがここでその尊敬する兄弟子はもう、ふやけきった締りのない表情を浮かべた。それはもう。突っ込むよりは目をそらしたくなるほどだ。
「正直、オレの年じゃまだはえぇかな、って思ってたんだよ。そういう責任を持つにはさ。でも、知らなかった。家族を持つってこんなに幸せなことなんだな」
「………そうか」
「まあ恭弥がかわいいっつーのも大きいだろうけどなー。なんか仕事で疲れて帰ってきても顔見るだけで癒されてさ。この前なんかあいつ、僕より先に死んじゃいけないとかいうんだぜ?」
「ほう、そうそうに関白宣言か。やるなあいつも」
 家庭教師が訳知り顔で頷いた。赤ん坊の姿で七十年代のフォークソングに造詣が深いとか、すごいと感心すべきなのかどうなのか。
「わんぱく? べつにわざわざ」
「かんぱくです、関白」
 わざわざいわなくてももともと腕白坊主だとか、あの大魔王のような人をそう評しそうな愛妻家に綱吉は冷静に突っ込みを入れた。いやあちらが関白であるとしたならば目の前のこの男が妻だったりするのだろうか? さすがにそんなことを確認したわけではなかったが、いやそんなまさか。
「関白? ってなんだ、ツナ?」
「え………と、あの、宮廷で天皇の次に偉い人? ですかね」
 ものすごく自信がないがなんとか答えた。いやあってる筈だ、一応間違ってはいない。だがあれ、じゃあ亭主関白って意外と偉くないのだろうか。むしろ尻に敷かれていないか。
「へー………あ、恭弥もオレのことたまに将軍とかいうぜ?」
 わー、えらーい………。ってそうじゃない、明らかにそうじゃない。なにがどうしてそんなことに。
「ヒバリさんがですか………?」
「おう。ほらあいつって、照れちゃってなかなか人のこと名前で呼べないようなとこ、あるだろー?」
「はあ」
 照れてじゃない。明らかに照れてではない。そう草食動物こと沢田綱吉は思った。ただあだ名というのなら、いくらでも呼びやすいものが別につけられるはずだ。
「自分でもまずいと思ってんのかだんだん「ディーノ」って呼んでくれるようになったんだけどさー、ときどき跳ね馬呼びが口をつくんだよな。癖になってるんだろうけど。あとは「あなた」とか。うん、「あなた」、とか? か、っわいいよなー」
 うざい。
 そしてその下手な口真似もどうでもいい。心の底からどうでもいい。約一ヶ月半、中途半端な時間に起きて習慣的にテレビをつけるたび、悪態をついていた自分を綱吉は心の底から後悔した。つまらないとかくだらないとか、そんな理由であの横並びで放映されるワイドショーを切って捨てるべきではない。芸能人同士の結婚会見とか交際がどうのだとか、そんな事柄をまるで興味があるかのように情報を聞き出して日本中に伝えるというだけで、非常な困難を乗り越えた証拠だ。勝手にしろハゲとか、そんなことをいわずに仕事を全うしただけでも讃えるべき偉業だ。自分にはとても無理だ。お互いになんて呼んでるんですかとか指輪を見せてくださいとか、とても。
「………って、指輪はどうしたんですか、ディーノさん」
「ん? 恭弥が持ってるぜ? あいつなかなか役に立つね、とかころっということ変わって」
 思わず聞くと兄弟子は得意そうに笑った。兄弟子の骨ばった指には確かに何の飾りもなかった。そういうもの、なのだろうか。二人で持つものだとばかり。だが宗教的にも多分あちらの方が本場なのだろうし、こちらは質問事項すらわからない状況だ。実際にいざそういう状況になったら、また違うのだろうか。そう想像して綱吉は幸せな気分になった。あのかわいい子とこんな風にのろけられたら、いいのに。
「でもなんか照れてるみたいでときどきそう呼ぶんだよな。「この、将軍」って。馬に乗ってるからとかいって。前に風呂に一緒に入ってるときにいいだしたんだけどさ」
「え」
「くだんねー話してんじゃねーぞ、このへなちょこ」
 衝撃的なせりふの意味が脳髄に達する前に、我が家庭教師が決定的な打撃を兄弟子に与えた。蹴りだ。
「いっ………てーなっ!! なにすんだよリボーン!」
「なにすんだじゃねぇ。ガキに向かって何話してんだおまえは」
 滅多にない家庭教師のフォローに綱吉は心の底から感謝をした。基本的に必要以上に要求が厳しい人であるので、この対応は予想外だったのだ。まるで天からの救いのように思える。もちろん綱吉といえど結婚した二人がどのような入浴をしようとどんな風に呼びあっていようとまったく問題のないことは存じている。いや結婚していようといなかろうとそんなことをする恋人同士はいるのだろう。テレビだの雑誌だのから得る情報からするとそうである。たとえいつの日か、たくさんの幸運が積み重なってあの子とお付き合いすることになったとしても、自分にはそんなことを提案する勇気は決して湧いてこない気がするが、実際社会風潮的にはそうであるらしい。そのことを否定するつもりはない。だが綱吉は心底遺憾なことに、兄弟子と銭湯に行った経験があるのである。家の風呂が壊れたのがきっかけで、その時はそれなりに楽しかったのだけれども、さっぱり望んでもいないのに何故だかいきなり将軍に御目通りがかなってしまった御端下男子中学生としては、正直困惑を隠しきれない。だってあの将軍はそれはもう御威光凄まじく、こちらとしては面をあげるのも気恥かしいほどで、まったくここまで兄弟子との国籍だの文化の違いを実感したことなどなかったほどだったのだ。
「えー? なにがだよ。なあ、ツナ?」
「え? や、その、どうでしょう」
 きらきらの天真爛漫な笑顔を向けられて返答に詰まった。ここで思い切り否定的な態度をとれるような性格を自分はしていない。だいたいガキに向かって、と我が家庭教師はいったが彼の伴侶もたぶん自分とそう歳は変わらないのだ。なんということだ。
「あ、そだおみやげがあるんだぜー、ツナ。ほら、ちびどもにもな」
 歓声があがって、ふりむけば我が家に居住する正真正銘ガキ二人が我先にと両手を上にあげている。なんということだ。だが嬉しそうに紅潮する顔をみれば一目瞭然、これは先ほどの会話などさっぱり理解してはいない。よかった。ああよかった。
「ほらツナも、な」
「あ、………ありがとうございます」
 ぽんぽんぽんぽん、ぽん、と大きな平たい箱が綱吉の前に積み上げられていく。子どもたちに渡したものよりもぽんが三つ多い。ありがたい。うん、ありがたい。
「ハワイとか、行かれたんですか?」
「いや? まあでも近いかな。ちっこい島を一個借りてさー」
 島って借りれるものなのか。
 なんともはや豪勢な話である。綱吉は感心しながら目の前の箱を眺めた。甘いものは嫌いではない。だが兄弟子が我が家に現れた際玄関先で、同じくらいのサイズの箱を母にもいくつか渡しているのも目撃しているのだ。冬になるくらいまで、我が家の菓子はこれ一択になるのは想像に難くない。どんなに豪勢な金持の人間でも、南の島を訪れた際の土産物は選択の余地がないものなのだろうか? 口にする前からマカデミアナッツのチョコレートの味に飽き飽きして、綱吉は溜息をついた。いや彼が買ってきたものなのだから味は期待できるのだろうが、そうはいってもこうなんか、なんか他に。
「でもすっごく暑かったんじゃないんですか? そんな南の島なんて」
 正直にいって、自ら灼熱の地を訪れようとする、その意図がわからない。秋や冬ならまだしも、今は日本にいても十分以上に暑いのだ。島を借りきったとなれば水着のお嬢さんはいないのだし、あの方はいついかなる時でも涼しげな扮装などしない気がする。
「んーでも正直日本より過ごしやすいかも、な。いや並盛が悪いってんじゃないんだぜ! ただ湿度が違うからな、うん」
「あーそうなんですかー」
 あまり知りたくなかった情報だ。自分よりも更に灼熱に近い暮らしを耐えている人間がいるのだという南半球世界規模の連帯感が失われることが、ここまで心細いこととは。
「こっちだと随分蒸すからな。リボーン。修行のときとか、どんな体調管理をさせてんだ?」
「ツナのか?」
「おお。オレがみてもらってた頃はさ、屋敷の周りは雑木林みたいになってたしそこまで暑くなってなかっただろ? 正直恭弥と手合わせしててもいつ脱水症状にでもなんねーか心配で心配で」
「まあイタリアの方が涼しいからな」
「だろ? 一応こまめに水分もとらせてるんだけど、どうにも不安でさ。気づくと犬みてえに二人して舌だしてはあはあいってたりしてなー」
 なるほどそういう話だったか。正直にいえばいろいろ想像していた綱吉は心の底から反省した。だがそれは、心底苦々しげに舌打ちをした我が家庭教師が漏らした一言を聞くまでの話だ。
「ああ、そんなのは根性で何とかなるもんだぞ」
 どこの少年野球の監督かと。いやそれだってこのご時世しっかりと対応をとっているはずだたぶん。そこまで考えて綱吉は戦慄の度を深くした。死ぬ気だけでどんな無茶でも通させようとする赤ん坊である。
「そうか? つうかあいつはむしろ根性で我慢しちまいそうだから心配でなー」
 せつなげな声音で兄弟子が呟いた。特殊弾を打ち込んでなお死ぬ気が足りないと叱責する家庭教師に扱かれている身としては親身な教育姿勢は羨ましいといえなくも………ない、全くない。有りえない。年齢差だとか男同士だとかいう以前に、あの将軍とわたりあうなぞ人として有りえない。
「まあお前がいったんこうと決めたら強ぇのはわかってるぞ。だが不安をみせるな。………わかるだろ」
 さっぱりわからん。だが兄弟子は感無量の様子で頷いていて、重ねあげた年月の違いを感じさせた。
「ああ。おまえが何があっても揺らがねぇから、オレは悩んで迷って………それでも今、ファミリーを守れているよ。おまえのおかげだ」
「知らねぇな」
「そうか。おまえらしいな」
「………わかったようにいうのはやめろ。オレは怒ってるんだぞ」
「………………………………なにを?」
 明らかに不機嫌な顔をして我が家庭教師はふん、と鼻を鳴らした。怖い。恐ろしさについ首をすくめながらふと視線をやると、同じ恐怖を叩き込まれてる筈の我が兄弟子もびくりと大きく震えて、だがすぐに気を取り直したらしかった。そこらへんの打たれ強さはいまだ自分は習得してはいない。いやしたいとも思わない。
「式も披露宴もやらないとはどういうことだ」
「へ? なんだそれ」
「弟子の幼少時のあることないことを詳細にスピーチするのは、家庭教師としての喜び、最も晴れがましい場面なんだぞ」
「何考えてんだリボーン!! そんなことさせるかよ」
「なんだツナ。おまえには関係ねぇだろ」
 関係大有りである。未来の、幸せの縮図のような日に、感じるかもしれない恐怖と居たたまれなさを想像して、綱吉は思わず震えあがった。だが気づけばもっと間近に恐怖の迫っているはずの兄弟子はぽやぽやと笑顔のまま、なんか微笑ましいいいあいをしているなあくらいの表情でこちらを見ている。なんということだろう。いずれは自分もそんな境地まで達するのだろうかちっとも羨ましくない。
「そういやおまえら空港でもそんなこといってたよなあ。まあ披露目の席は設けてもいいと思ってたんだけどな」
「なにいってんだ。あたりまえのことだろ。自分の立場を考えろ」
「いやでもな」
 兄弟子はどうにも煮え切らない。まあ男同士ではあるし、そんなものかもしれないなと綱吉は思った。尊敬する人であるだけに、是非式には出席したいと思っていたし、家庭教師があわただしく行う羽目に陥ったあの茶番のような披露宴とは違って、さぞや豪勢になものになるだろうと予想していた。イタリアで行う可能性も高く、そうなったらなし崩しにマフィアの世界に深く踏み込むことになりそうで内心恐怖していたところを、いきなり救われた格好である。正直残念ではあるが、ここは素直に喜んでおくべきなのかもしれない。
「だって恭弥は子どもだろ。そういうのはまだはえぇよ」
「そんなことはおまえが一番わかってたことだろう」
「そりゃそうだけどさ、ボンゴレの人間で、しかもキャバッローネの家に入るとなっちゃ、顔が売れたらどう考えたって、くだらねーこと企む連中が出てくるだろ? オレだってガキの頃よく誘拐だなんだされそうになったもんだし」
「甘っちょれーこといってんじゃねぇぞ、へなちょこ。そんなことじゃ」
「あなたやっぱりこんなとこにいたの」
「ヒ、ヒバリさん!!」
 ふりむくとちょうど窓枠を乗り越えようとしている、風紀委員長がいた。そういえば外国人と暮らしだす前から、ナチュラルに土足で人の家にあがりこもうとなさる方だった。
「な! 恭弥今の話聞いてた………?」
「なんの話?」
「久しぶりだなヒバリ。なんだ、随分色艶良くなったんじゃねーか? ディーノにかわいがってもらってるんだろう」
「赤ん坊」
「ちょ、馬鹿リボーン!!なにいってんだー?!」
 おもわず突っ込む。明らかにセクハラ、といった口調で、どう考えても赤ん坊が口にすべき話ではない。きっと今の自分の顔はみっともないほど真っ赤になっていることだろう。だが当の被害者は自分の手の甲や腕を確かめて、小さく首をかしげた。これはさっぱりわかってない。
「そうだね。でもあんまり大したものは食べてないと思うんだけど」
「ひでえ! 恭弥、そういうこというなよなー」
「はいはい、そろそろその晩御飯の時間だよ。あなた何こんなとこで油売ってるの」
「あ、そか迎えに来てくれたんだな。あんがとな」
 嬉しげにディーノが雲雀の頭を撫でる。だがまさか風紀委員長がされるがまま大人しくしているなんて! 綱吉は思わず目のやり場に困った。如何に夫婦といえどここまでいかがわしい雰囲気を放って、許されるものではない。
「どこか食べに行かれるんですか? いいですねー」
 何とか空気を変えようと綱吉は話を振ってみたのだが、あきらかに雲雀はうっとうしそうな視線を向けてくるし、ディーノはまだ頭を撫でるのをやめるつもりはないらしい。
「いやそうじゃなくてなー。あ、晩飯何にする? きょうや」
「焼肉」
「………」
 それのどこがたいしたものを食べていないというのか。
 豪勢な話である。そして一方で我が家の夕食は先ほどから漂い始めた香りから察するにカレーであるらしい。いや母の作るポークカレーは、最近とみに子供たちの味覚に合わせてか非常に、非常に甘口になっている傾向があるものの、何の不満があるわけでもない。だが、焼き肉はまた、別の話だ。魅力的なメニューである。端的にいえば、いいなあ、と綱吉は思った。いいなあ羨ましい。流石マフィアのボスの家庭は、食事も豪華だ。いやだがそれをいえば、我が家もマフィアの門外顧問の家であるはずで、同等とはいわないがそれなりに恵まれた食生活を送れてもいいのではなかろうか。あの親父は何をしているんだ。
「おお、楽しみだな。えーと、何が必要だっけ。取り合えず牛肉だよな」
「まず切ってある焼き肉用の牛肉があるから。いい、切ってある肉だよ」
「お、調べてきてくれたんだな。いい子だな恭弥は」
 だがディーノと同じく、父も母を守ろうとして、その存在を明らかにしていないのだろう。その気持ちは、まあ正直自分もそんなものとは無関係のまま暮らさせてくれよと思わないではないが、理解できる。だがそうはいっても週一くらいで焼き肉を食べられる程度の金を入れてくれても、あの母なら疑わないのではなかろうかと思うわけだ。………ていうか。
「切ってある肉。あとナムルとサンチュ」
「ああ、あれうまいよなー」
「………ってお二人自炊されているんですか?」
 いわずもがなのことをいったと自分でもわかるほどの、それらしき会話が目の前で繰り広げられていたわけだが、そうはいっても飲み込むにはかなりの努力が必要な驚愕の事態である。マフィアのボスと風紀委員長は、それはもう、家事だの何だのといった瑣末事はいくらでも任す人間がいるだろうと思われるからだ。実際に見たわけではないけれど、友人から聞いた話によると、兄弟子の家にはそれはもうたくさんの使用人がいて、それはもう事細かに世話を焼いてくれるらしい。それなら一人二人日本に来てもらって、食事の用意をしてもらえばそれで済む話ではないか。
 大したものを食べていないという雲雀の言も納得のもので、いくらメニューが豪勢でも、実戦経験の少ない男二人ではなかなか満足のいくものは作れまい。だいたい先ほどから執拗に主張される「切った肉」発言からも、我が兄弟子はそのへなちょこな特性を、存分に発揮しているであろうことが推測できる。
「ああ。これから二人で買い物に行くんだ。なかなかおもしれーな、スーパーってやつも」
 あ、そういうプレイか。
 綱吉は納得した。連れだって買い物なぞ、洗剤だとか車のCMで如何にも見かけそうなシーンだ。正直気恥かしい。
「焼肉のたれ。それと、ホットプレート」
 そこからかよ。思わず突っ込みそうになったが、みれば兄弟子はうんうんと頷いている。
「そっか。ほんと恭弥はしっかりしてて、オレは幸せ者だぜ」
「知らない。はやく、行くよ」
 信じがたいことだが、まるで照れでもしたように横を向いた風紀委員長は、腰かけていた窓枠から身を乗り出した。
「あ、ちょっと待てって、恭弥。あぶねぇ」
「ってディーノさん! 靴! 靴!!」
 礼儀正しい兄弟子の方は玄関から入ってきたのだから、窓から出て行かせるわけにはいかない。後ろからつい大声を投げかけると、びくり、と兄弟子の背中が反応して驚かせてしまったことが分かった。次の瞬間には彼はバランスを崩し、空中で何とか鞭を振るい庭木に巻きつかせたものの、遺憾ながら我が家の庭木はそこまで頑丈に育ったものではなく。
「ディ、ディーノさん?! 大丈夫ですかー?」
「うあー………ミスった。いや、大丈夫だツナ。ちょいシャツの裾破いちまったけど」
 みれば確かにさほどの怪我もなさそうで、全く、二階から落ちてよくも無事でいられるものだ。ぽんぽんと服の埃を払うと、大きく伸びをしている。
「何やってるの。………仕方のない人だね」
「そういうなって。ほらさっさと………あ、悪い! ツナ! 勝手に玄関から靴取ってくな」
「あ、どうぞお構いなく!」
「………早くしなよ」
 急いで兄弟子が玄関に飛び込んでいく。夏のこともあり、彼は素足にサンダルをはいていたから焼けたアスファルトは辛かったのかもしれない。つい笑いそうになって、だが綱吉は何故か、雲雀の様子が気にかかった。いや、少し眉をしかめた、気のなさそうな様子はいつもどおりのものだ、と思う。多分。だがどこか悔しそうというか、………寂しそう? いやそんなはずはない。何といってもあちらは幸せいっぱいの新婚さんなのだから。思わず綱吉は首を振った。
「なんだ、どうしたツナ」
「リボーン。いやなんでもない。………あ、お気をつけてー!」
 
律義に挨拶をしてくる兄弟子に手を振り返す。雲雀は我が家庭教師だけにまたね、というとずんずん先を歩いていって、だがすぐに追いつかれた。いや、本気を出せば、どこのチーターだという速さで動く人だ。追い付かせたというほうが正しい。やっぱりさっきのは自分の思い違いだったのだろう。
「………ツナ?」
「なんでもないって! ほら、あれだちょっと、ディーノさんも大変じゃないのかなって思ってさ。だって殆ど日本で暮らすんだろ?」
 
イタリアンマフィアのボスであるのだから、当然イタリアで仕事をした方が楽にやれるはずだ。それだけでなく、多分お互いに、さまざまな苦労があるだろう。人生経験の少ない自分であっても、十分に想像のつく話だった。年も国籍も生業も、全てが違って、同じなのは性別だけ、という二人なのだ。そう思っていうと、我が家庭教師は小さく鼻を鳴らした。
「ああそんなのは簡単………たやすいはずだぞ」
「………………そうか?」
 ああまたそのフォークソングかと。いいなおした時点で落ちが読めてはいたわけだが、心優しい弟子としては先を促してやった。だがそれでも、にやりと笑った我が家庭教師がつづけた言葉に、どうにも照れてしまった。だってそんな綺麗ごと、いつだって笑い飛ばしそうな人がいった言葉なのだ。そしてそこにも真実があることを綱吉は知っているのだ。











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