不眠症


 眠い。持って回った表現を繰り返しているさほど重要とは思われない手元の書類は、蛍光灯の光がちかちかと反射してとても意味など頭に入ってこない。瞼が重く垂れさがってきているのが自分でもわかる。ふわあ、とディーノは異国の地にいる弟子のように大口を開けて欠伸をした。
「おいボス、どうした寝不足か? また夜遅くまでゲームやってたんじゃねーだろな」
「ちげーよ! ガキじゃねーんだぞ」
 以前弟弟子に勧められて日本で何本かテレビゲームを買ったことはある。さすが日本はこういった遊びが進んでいるなあと感心したし、次に弟弟子と対戦する時は腕を上げたところを見せてやろうと、夜中に寝るまでのしばらくの間そうしばらくの間なのだが、テレビ画面に向かうことが日課になっていた時期があった。だが見事目標は達成したし(必死さぶりが伝わったのかお披露目の日は部下が集まって後ろで盛んに応援してくれた)、あの頃現行犯で捕まったのだって二回かそこら。もともと体を動かして部下たちと交流を深められる遊びのほうが好きだし、そうでなくともあまり自由時間が自分にはない。単純かつ、勘とテクニックが求められるカードゲームとか、そんな時間がかからず金がかかったゲームのほうがまだ向いていると思う。そんなわけで全くの濡れ衣だといわざるをえない。
「じゃあ不眠症か? 薬がほしくなったらいえよ? あんまりそういうものに頼るのはよくないんだが」
「違うって。ちょっと夢見がな」
 悪い、というのとはまた違う気がする。少なくとも遠い日本にいて会いたくても気軽には会えない大事な弟子の顔をみることができるのだ。だがディーノは毎夜毎夜うなされて目が覚めるのだ。なんということだろう。
「今朝なんて起きたらシーツがびしょびしょでよー。ちょっとびっくりした」
「あのなあ………ボス、あんたいくつだ。………いや、ここんとこちょっと忙しすぎだからな、なんならすぐ手配するが」
「そういうこというなよ。そりゃ自分でもガキっぽいとは思うけどさ」
 怖い夢で眠れないなんてなんて子どもだろう。だがまだあの恐怖と、背中を伝い落ちる冷や汗の感触がいやにリアルに思い出せる。
 だいたいディーノは心配性なのだ。そんなことは自分でもわかっている。たった一人の弟子はとんでもなく強くて、恐れを知らない。どんな逆境だって跳ね飛ばすにきまっている。だが、ほとんどの時間ディーノはイタリアにいて、不安に身を捩るようにしてかける電話も三回に一度通じればいいほう。近くに住んでいれば、きっといわれないでもわかる危険や不調を知ることができないでいる。子どもの頃、我がブラッディーチューターは、いくらでも休暇を取ってくれても構わないのにという生徒の必死の願いも無視して、我が家にずっとご滞在下さったものだ。目を離すとすぐ修行をさぼるからなといいながら、危険やヒットマンから守ってくれていたのを今なら知っている。同じだけの、いやそれ以上のものを自分の弟子には与えてやりたいと思うのに、遠く離れてつまらない書類の束にかかりきりになっているなんて! 不甲斐ないことこの上ない。
「………まあ、年齢の問題じゃないだろうがな、ボス。ちょっと根を詰めすぎなんじゃねぇか」
「いやこれくらい楽勝だって」
 仕事を進めれば進めるほど、日本に行くための時間が空く。いや、そんな単純計算では済まない事は百も承知なのだがそれでもやらずにはいられないのだ。付き合う部下には悪いとは思っているが、どうしようもない。だがいくら時間を開けようとして頑張っても、あの子どもが何か危機にあった時自分は何ができるのだろう? いや、あの子は強い。自分の力などたいして必要とはしていない。そんなことは分かっているのだ。自分が鍛えたのだから。だがあの子一人の力ではどうしようもないことも世の中にはある。交通事故にでもあったら? それか食中毒とか。たまたま咬み殺した不良の親が暴力団の幹部だったりしたらどうする。どれだけ助力を願って頭を下げたか知れない我が元家庭教師や弟弟子、風紀委員の実力者らしい数名。すぐさま連絡をくれたとして、イタリアから日本まで直行便でおよそ十二時間。チケットを手配したり空港から並盛へ移動することを考えると更に数時間のロスが見込まれる。息急き切って辿りついて、だが事故なら既に手術は終わっていて、食中毒なら何か薬の処方で吐き気はおさまっていて、新たにどこそこの組が風紀委員会の傘下に収まったと自慢気に教えてくれるに違いない。あなたが日本に住むなら僕があなたのファミリーの秩序もついでに守ってあげてもいいんだよ、という有り難いお言葉つきで。ああそうできるならどんなにか!!
「ちょっとは気分転換も必要だろう。ジャンナもニコレッタも、他の奴らもみんなボスに会いたがってるって話だぜ」
「はは。よろしくって伝えてくれ。そんな暇があるならなー、正直日本に行くって」
 風紀が厳格に守られていて盛り場一つない日本ならともかく、我がシマには遺憾なことに悪所は存在する。必要悪なのだ、正直にいえば。この土地でその存在を許さなければ、他の、衛生的にも道徳的にも劣った土地に流れていくだけのことだ。彼女たちも客も。マフィアのボスとしてできることは彼女たちの労働環境を少しでも改善することと、理由をつけてことあるごとに金を落とすこと。たぶん焼け石に水だ。だがどうしようもない。我が右腕は美しい我がシマの誇る大輪の薔薇たちを相手に一度も手合わせをしてないと知ったら何と思うだろう? だが自分は幼い頃のへなちょこな資質が残っているのか、こんな職種に就きながらどこかロマンチストな性質だし、彼女たちを前にして感じるのは欲望よりもまず自責の念だ。オレには他に何かしてやれることがあるんじゃないだろうか、と。
「日本、………か。恭弥もいるしな」
「ああ」
 日本。遠い東の、小さな国。あの子どもが愛する土地のある国。あそこにいれば自分は無駄に気を揉むこともなく安らかな眠りを甘受することができるのだろうか。
 毎夜毎夜繰り返される夢。すべてが同じ内容というわけではない。いかにも夢らしく非現実的でもある。ただいつもわが弟子は進んで危険な状況に首をつっこうもうとして、ディーノはそれを必死で止めようとしている。恐竜相手に戦おうとしだすこともあったし、ロボットに殴りかかったりもする。昨日の夢では雲雀は通りすがりのXUNXASに真っ向から喧嘩を売ろうとしていて、さあやろうよやろうよとトンファーをちらつかせていた。全くあのじゃじゃ馬は。だいたいあの男だって夢の中でくらい空気を読んで大人しく氷漬けになっていてもよさそうなものだ。せめて通りすがるな馬鹿。何の権利があってあんなかわいい子と戦おうとするのだろう。まあ雲雀は向こうが応じなかろうがいまにもと飛びかかっていきそうな気配だったが。
「ほんっとあいつはな。いうこときかねーしじゃじゃ馬だし、いやそれはいいとこなんだけどな。なんかほっとけねーっつーか」
「………………へ?」
「かわいいし。いやでもな。昨夜はしようがねーから鞭で縛って無理矢理いうこときかせたんだけど」
「………」
「縛ったあともとんでもなく暴れて大人しくしねーしよ。ほんと、こっちの気も知らねーで」
「………いや、それはそうだろ。ってああ、夢の話か。………その、ちゃんと………話をしたのか? ボス」
 視線をやれば、真剣な面持ちで部下がこちらをみている。全くこっちの気も知らないで。よくしても「うざい」とトンファーで小突かれて終わりだし、八割方逆上するのは目に見えている。自分の面倒くらい自分で見れるよとあの子はいうだろう。実際彼は強くて、そんなことディーノが一番よくわかっている。大方の敵なら自分など必要ないのだ。そしてそれが嬉しいことなのかディーノにはわからない。頼ってくれればいいのに。彼を護ることが許されるのならばこんなにも苦しくないはずなのだ。
「………話せるはずねーだろ」
「………………そうか。いやそうだな」
「許されるはずねぇ。本当は、こうやって今現在のあいつの様子を連絡してもらえるってだけで満足すべきなんだ」
「ボス」
「馬鹿みたいだよな。いつだってあいつのことばかり考えている」
「………ボス。俺に任せてくれ。あんたが我慢する必要はねぇ」
「ロマーリオ?」
 気づけば部下がディーノの手を握りしめていた。熱心に掻き口説かれる。訳がわからずただ曖昧にディーノは頷いた。そういえば我が部下も同じだけ労働に従事して睡眠が足りていないのだ。何かフォローする方法を考えたほうがいいだろう。


 数週間後、ボンゴレの雲の守護者が修行も兼ねてキャバッローネの屋敷に期間未定で滞在することになった。九代目直々の指示であり、雲雀自身も「いくらでもディーノと戦える」と吹き込まれたとかで納得済みでイタリアにやってきた。彼に降りかかる危険を防ぐためにも、いくらでも鍛えてやりたい。ディーノとしても願ったりかなったりで、しばらく仕事に手に付かないありさまだった。
 そしてそれから数カ月。心配の種がわざわざイタリアにまで来てくれたのに、不眠症はさっぱり改善されない。いつの間にか何故だかディーノの部屋で寝泊まりすることが決まっていた大事な弟子は、ベッドですこすこ能天気に眠りを貪っている。だがディーノの悪夢は夜ごとエスカレートの一途を辿るばかりでこれではとても他人に相談なぞ出来ない。しかも我が部下たちは、いくらディーノが眠そうな顔をしていても「子ども相手に無茶してるんじゃねぇぞボス」と訳がわからないことをいって、さっぱり同情なぞしてくれないのだ。無茶も何も、夜昼なく手合わせをしようと誘ってくるのはこの子どものほうだというのに。
 眠い。だけれども寝たくない。我が弟子はとんでもなく無鉄砲で、昨夜など通りすがりの鮫を蹴飛ばしてやろうとしていて、そうしたいならオレも加勢してやるぜくらいのところはいってやりたいのだけれども、何故だか夢の中の自分は雲雀を止めようと羽交い絞めにしてとんでもない形に鞭で縛って首元に咬みついて舐めて、ああオレは何であんな夢を見てしまうのだろう。とりあえず夢の中であろうともかわいい弟子のあんな姿をみた鮫は早急に抹殺せねばならない、とディーノは心に誓った。
















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